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春秋花壇

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免許返納

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免許返納

中村健一さんは、70歳を過ぎたころから少しずつ記憶に不安を感じ始めた。若いころから続けてきた車の運転も、最近では少し怖さを覚えることがあった。特に、自分がどこに向かっているのかを突然忘れてしまう瞬間が何度かあったのだ。道を間違えることが増え、助手席の妻が何度も不安そうに声をかけることが増えていた。

「健一さん、最近ちょっと危なっかしいわよ。返納を考えてもいいんじゃない?」

妻の和子さんがそう言ったとき、健一さんは軽く笑ってみせたが、心の中では深く悩んでいた。運転免許は彼の自尊心の一部であり、自由にどこへでも行ける象徴でもあった。それを手放すということは、老いを認めるようで耐え難かったのだ。

しかし、その日、健一さんはいつも通りに近所のスーパーへ車で向かっていた。天気は晴れていて、ドライブには絶好の日和だった。けれども、スーパーに到着する少し前、突然、彼は自分がどこにいるのか分からなくなった。見慣れた道が急に全く知らない場所のように感じられ、パニックが彼を襲った。

「どうして、どこに行くんだっけ…?」

額に汗がにじみ、手の震えが止まらない。彼は何とか車を停めて深呼吸をした。心臓が早鐘を打つように鼓動していたが、数分してようやく落ち着きを取り戻した。だが、その瞬間、彼ははっきりと悟った。もう限界だ、と。

その夜、健一さんは和子さんと夕食を取りながら、自分の決心を打ち明けた。

「和子、俺、免許を返納しようと思う」

和子さんは驚いた表情を見せたが、すぐに優しい微笑みを浮かべた。「そう、健一さん。それが一番いいと思うわ。無理しないで、これからも安全に生活していきましょう」

翌日、健一さんは市役所に行き、免許返納の手続きをした。手続きは思ったよりも簡単で、係員も親切に対応してくれた。だが、手続きが終わり、返納証明書を受け取ったとき、健一さんの胸にぽっかりと穴が開いたような感覚が広がった。

家に帰ると、健一さんはいつも座っているソファに腰を下ろし、深いため息をついた。車のキーがもう必要ないことに、言いようのない喪失感を覚えた。しかし、同時にどこかで安堵も感じていた。これで、もう道に迷うことも、事故を起こす心配もなくなるのだ。

その日の夜、健一さんは和子さんと静かな時間を過ごした。テレビから流れる音も耳に入らず、彼はただぼんやりと過去のことを思い出していた。初めて車を買った日のこと、家族を乗せて行った長距離ドライブ、そして息子が免許を取ったときの誇らしげな表情。すべてが遠い記憶の中でぼやけていた。

数日後、健一さんは近所を歩いてみた。運転ができなくなったことで、歩くことが増えたが、それがまた新鮮な感覚だった。近所の風景が違って見え、花の香りや、子供たちの声が鮮やかに感じられた。

だが、歩いているうちにまたしても彼は道に迷ってしまった。見慣れたはずの風景が突然異質に感じられ、方向感覚が失われてしまったのだ。健一さんは少し焦ったが、近くにいた若い男性に声をかけて助けを求めた。

「すみません、この辺りの道に詳しいですか? 家が分からなくなってしまって…」

男性は優しく健一さんに応じ、彼の家まで一緒に歩いてくれた。道すがら、彼は「大丈夫ですよ、道に迷うことは誰にでもありますから」と慰めの言葉をかけてくれた。その言葉に健一さんは少しだけ心が軽くなった。

家に帰り着くと、和子さんが心配そうに出迎えてくれた。

「健一さん、大丈夫だったの? 最近、道に迷うことが多くなったわね」

健一さんは微笑んで、和子さんの手を握った。「ああ、大丈夫だよ。今日は親切な人に助けてもらったんだ。でも、これからはもっと気をつけるようにするよ」

その夜、健一さんはふと考えた。免許を返納したことで、自由を失ったように感じていたが、実際には新しい生活が始まったのかもしれない。これからは、和子さんともっと時間を共有し、彼女と一緒に歩んでいく新しい人生が待っているのだ。

健一さんは、和子さんに寄り添いながら、これからの人生をゆっくりと楽しんでいくことを心に決めた。そして、免許返納は決して終わりではなく、新しい章の始まりなのだと感じ始めていた。








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