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春秋花壇

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認知症の母

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認知症の母

痛い、痛い。やめて、やめて!
その叫び声が電話越しに聞こえてきた時、佐々木由美子は胸が締め付けられるような感覚に襲われた。83歳の母、佐々木節子が入居している老人ホームからの電話だった。母は認知症が進行しており、頻繁に電話をかけてくる。時には妄想に駆られた話も多かったが、今回は違うかもしれないと思った由美子は、週末にホームを訪れることを決意した。

土曜日の朝、由美子は急ぎ足で老人ホームの入口に向かった。いつもなら親切なスタッフが出迎えてくれるはずだったが、その日は誰もいなかった。不安な気持ちを抱えながら、母の部屋へと急いだ。

廊下を進むと、突然、怒号と悲鳴が耳に入ってきた。「なんで、こんなところで漏らすんだよ!」「ふざけんなよ!」スタッフの声が響き渡る。由美子は胸が張り裂けそうになりながら、その声の方へ駆けつけた。

トイレの前で、節子が床に座り込んでいた。粗相をしてしまったのだろう、床は濡れていた。介助しているスタッフは苛立った様子で、「すみません、お騒がせしました」と由美子に頭を下げた。しかし、由美子は母の痛みを感じ取り、胸が締め付けられる思いだった。

「大丈夫ですか、お母さん?」由美子は母に駆け寄り、優しく声をかけた。節子は明後日の方向を見つめていたが、娘の声に気づき、わずかに微笑んだ。

由美子はその場を去り、ホームの様子を観察した。以前に比べてスタッフの数が圧倒的に少なく感じた。首を傾げていると、また違う場所から怒号と悲鳴が聞こえてきた。彼女は胸の中に芽生えた疑念を確かめるため、母に直接尋ねることにした。

「お母さん、最近どう?スタッフの人たち、ちゃんとお世話してくれてる?」
節子は困惑した表情を浮かべながらも、「うん、みんな優しいよ」と答えた。だが、由美子は母の言葉が真実かどうか確信が持てなかった。

翌日、由美子は母を一時的に自宅に連れて帰ることにした。老人ホームで感じた違和感と不安が拭いきれなかったからだ。彼女は母を自宅で介護することを決意し、スタッフ不足が引き金となった可能性が高い虐待の疑いを持ち続けた。

公益財団法人介護労働安定センターの調査によれば、介護事業所で人手不足を感じている事業所は64.7%にのぼるという。この状況が、母のような高齢者たちに対する虐待を助長しているのではないかという懸念が頭を離れなかった。

由美子は母を自宅に連れ帰った後、老人ホームの現状を調べ始めた。施設長やベテランスタッフの退職が原因でスタッフが次々と辞めていることを知り、事態の深刻さを理解した。由美子は他の入居者たちも同様の苦しみを経験しているのではないかと思い、声を上げることを決意した。

彼女は地元の新聞社に手紙を書き、老人ホームでの出来事を詳細に報告した。彼女の手紙はすぐに注目を集め、介護施設の劣悪な状況が公にされることとなった。由美子の行動は、他の家族や関係者にも影響を与え、介護業界全体の改善を促すきっかけとなった。

数ヶ月後、由美子は母と再び老人ホームを訪れた。施設には新しいスタッフが増え、以前とは異なる穏やかな雰囲気が漂っていた。由美子は安心して母を施設に戻すことができ、再び笑顔を取り戻すことができた。

「お母さん、またここで元気に過ごせるね。」
節子は微笑み、娘の手を握りしめた。「ありがとう、由美子。あなたのおかげで、安心して過ごせるよ。」

老人ホームでの虐待が報告されたその後、多くの施設でスタッフの増員や教育プログラムの改善が行われ、介護業界全体の質が向上した。由美子の勇気ある行動が、多くの高齢者たちに安心と安全をもたらしたのだった。






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