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独居老人の熱帯夜

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独居老人の熱帯夜

真夏の夜、都心から少し離れた古びた住宅街に住む独居老人の佐藤信一は、窓を開け放ち、網戸越しに外の風を感じながら座っていた。エアコンの音が耳障りで、結局扇風機に頼ることにしたが、その風も生暖かく、熱帯夜の不快感を完全に取り除くことはできなかった。

彼の傍らには、夕食に食べたウナギの蒲焼の残りがあった。香ばしい匂いがまだ部屋に漂っている。ウナギを食べるのは、年に一度の特別な楽しみだった。毎年、土用の丑の日になると、信一は自分を少しだけ贅沢させるために近所の魚屋でウナギを買ってくる。今夜もその伝統を守ったのだ。

「美味しかったなあ」と信一は小さく呟いた。少しほろ苦いタレの味が口の中に残っている。ウナギを食べると、なぜか元気が出る気がする。まるで生命力が少しだけ取り戻されたような感覚だ。

信一は70代の後半になり、身体のあちこちが思うように動かなくなってきていた。妻を亡くしてからは一人暮らしで、子供たちは遠くに住んでおり、訪れることも少ない。孤独な日々が続いていたが、それでも彼は自分の生活をしっかりと守ってきた。だが、この頃はふとした瞬間に死が近づいていることを感じるようになった。

「まだ、もう少しだけ生きていたいな」と信一は思った。ウナギを食べたことで、ほんの少しの力が湧いてきたのかもしれない。その気持ちに支えられて、彼は少しだけ未来に希望を持つことができた。

外の街灯が淡く光を放ち、夜の静けさが広がっている。信一は窓から見える景色をぼんやりと眺めていた。遠くに見える高層ビルの灯りが、都会の喧騒を思わせる。その対比が彼の心に寂しさを残す一方で、どこか安心感も与えていた。

「少し散歩でもしようか」と信一は立ち上がった。夜風に当たることで、少しでも気分が晴れるかもしれない。彼はゆっくりと玄関まで歩き、外に出た。夜の空気は湿っていて、重たい。それでも、家の中よりは多少涼しく感じられた。

信一は近くの公園まで歩いた。公園のベンチに座り、夜空を見上げた。星は少ししか見えなかったが、そのわずかな光が彼の心を和ませた。風が木々の間を通り抜け、葉がささやく音が耳に心地よい。静かな公園には誰もいない。ただ、信一だけがその場に存在しているような気がした。

「このまま、ここで一晩過ごすのも悪くないかもしれないな」と信一は思った。自然の音に包まれながら、ゆっくりと目を閉じた。その瞬間、遠くからかすかな足音が聞こえてきた。目を開けると、小さな子供が犬を連れて歩いているのが見えた。

「こんばんは」と信一は声をかけた。子供は少し驚いた様子だったが、すぐににっこりと笑って「こんばんは」と返した。

「夜遅くに散歩ですか?」信一が尋ねると、子供は頷いて「この子が夜に散歩に行きたがるんです」と答えた。犬は元気よく尻尾を振っていた。

「犬も、夜風が好きなんだな」と信一は微笑んだ。

「おじいさんも散歩ですか?」と子供が尋ねた。

「そうだよ。ちょっと涼みに来たんだ」

二人はしばらくの間、話を交わした。子供との会話が、信一の心に温かさをもたらした。孤独な日々の中で、こうした小さな交流が彼にとって大きな救いとなる。

「もう少しだけ、頑張って生きてみよう」と信一は心の中で決意した。ウナギを食べたことで得た小さな力と、この夜の出会いが彼に新たな希望を与えたのだ。

夜風が再び吹き抜け、信一はその風を感じながらゆっくりと家に帰った。部屋に戻ると、扇風機の音がまた耳に心地よく響いた。ウナギの香りがまだかすかに漂う部屋の中で、信一はベッドに横たわり、心地よい疲れを感じながら眠りについた。

「まだ、もう少しだけ生きていたい」とその思いを胸に、信一は穏やかな夢の中へと旅立った。








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