いとなみ

春秋花壇

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消えた指輪

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「消えた指輪」

じめっとしたシャツの、洗いざらしのシワがよった生地は湿気を吸って重く、薄汚れた灰色が、視界の端に重く沈んでいる。鼻の奥には、わずかに酸っぱい匂いがこびりついている。梅雨だというのに窓も開けず、二、三日も部屋干しをしていたせいだが、カビが生えたのはどうもシャツだけではない。

久しぶりに足を踏み入れた台所は、どこかひんやりとして、生活感が薄れていた。彼が選んだ、少し無骨で温かみのある陶器のマグカップが、水切りかごの中で冷たく重なり合っている。そのざらりとした感触を想像すると、彼の不在が改めて胸に迫ってきた。冷たいマグカップを手に取ると、指先から冷たさが伝わり、胸の奥まで冷えていくようだった。あの時、ほんの少しでも彼の気持ちを想像できていれば…。

彼の仕事が忙しいことは理解していたし、それをとやかく言うことが彼が嫌がることも知っていた。それでも、結婚式はどうしても成功させたかった。「好きにしていいよ」なんて、結婚式にあまり興味のない男の身勝手な意見だと思っていた。しかし、ブライダルフェアで彼が「このシンプルなドレス、似合うんじゃない?落ち着いていて、さぁちゃんらしいよ」と控えめなオフホワイトのドレスを指差したとき、私は「もっとキラキラした華やかなのがいいの!一生に一度なんだから!」と即座に否定した。彼の顔がほんの少し曇ったのを、今でもはっきりと覚えている。あの時、彼の気持ちを少しでも考えていれば…。いや、ただ、あの時の私は、自分の描く『最高の一日』に囚われていた…。

これなら我慢して一人でこなせばよかった。彼を責めることで自分を守ろうとするけれど、思い返せば、彼は休みの日に何も言わずに私について来てくれていたし、予算の面でも彼なりにしっかり考えてくれていた。私は求めすぎてしまった。それは、昔からの私の悪い癖だ。

彼はたくさん我慢してきたんだろう。それでも「結婚しよう」と言ってくれた彼のことを、もっと考えてあげるべきだった。愛されていると過信して、わがままを言い過ぎてしまった。

この部屋だって、スーパーから近い方がいいとわがままを言ったのは私だ。毎日満員電車に揺られる彼に対して。「自転車で行ける距離だし、運動不足解消にもなるよ」と彼は優しく言った。私はそれを、「どうせ電車通勤じゃないから気楽に言えるんだ」と決めつけ、「毎日自転車なんて嫌!駅から近い方が絶対に便利に決まってる!」と一方的に言い張った。今、この部屋の窓から見える景色は、あの時彼が見ていた景色とは違うのだろうか…。

二人だったら、きっと消費期限までに平らげられた六枚切りの食パンも、もう三日も期限を過ぎてしまっている。留め具のプラスチックを剥がすと、かすかに酸っぱい匂いが鼻をついた。かびていないか不安になりながら、そっと食パンに顔を近づける。白いカビが粉雪のように薄く広がり、ところどころ緑色の斑点が滲んでいる。乾燥してひび割れたパンの表面は、まるで今の私の心のようだ。トーストすれば、少しはこのカビも気にならなくなるだろうか。そう思った瞬間、食パンを持つ手が止まった。ふと、左手の薬指に目が止まる。うっすらと残る白い跡は、まるで薄く張り付いたカビのようだった。指でなぞると、乾いたパンの表面のように、心がきしんだ。

あの指輪が、再びこの指を飾ることはない。永遠を誓った証は、もう、ここにはない。
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