いとなみ

皇帝ネロの恋心

皇帝ネロの恋心

紀元37年、ローマ帝国。豪華な宮殿の一室で、皇帝ネロはひとり、長い間手をつけずに置かれた書類に目を通していた。外は騒がしく、執務室の重厚な扉の向こうには、無数の臣下や兵士たちが日々の仕事に忙殺されている。だが、ネロの心はまったく別の場所にあった。

彼の心を占めているのは、政務や戦略ではなく、ひとりの女性だった。彼女の名前はアグリッピナ。ローマの名家に生まれ、才気あふれ、王宮で仕官している女性だ。ネロが初めて彼女を見たのは、数ヶ月前の宮廷の晩餐会だった。アグリッピナの美しい容姿とその凛とした態度、そして知性を感じさせる言葉が、ネロの心に強烈な印象を与えた。

彼は、最初は彼女がただの貴族の娘であることに過ぎないと思っていた。しかし、彼女が話す度に感じる、その内に秘めた強さと知恵、そして少しばかりの神秘的な魅力に、次第に心を奪われていった。

「ネロ、あなたが真剣に書類に目を通すなんて珍しいことね。」

突然、後ろから声が聞こえた。振り返ると、そこにはアグリッピナが立っていた。彼女は黒いドレスを着こなし、髪はきれいにまとめられている。彼女が姿を現した瞬間、ネロの心臓が速く打ち始める。

「アグリッピナ…」彼の声は自然とやわらかくなった。「君がここにいるとは思わなかった。」

「あなたがこんなにも書類に没頭しているのを見たことがなかったから。」アグリッピナは軽く微笑みながら、近づいてきた。「もしご迷惑でなければ、少しお話ししませんか？」

ネロは少し迷ったが、彼女の提案を受け入れることに決めた。「もちろんだ。君と話すことは、いつでも歓迎だよ。」

彼女が座ると、ネロも席に腰を下ろした。二人の間に静かな空気が漂い、何も言わずにしばらく目を合わせていた。その瞬間、ネロは自分の心が彼女に引き寄せられていることを、再確認する。

「アグリッピナ、君のことをずっと考えていた。」ネロは静かに言った。「君の話し方、振る舞い、そして何より、その目が僕を惹きつける。」

アグリッピナは少し驚いたように目を大きく見開いたが、すぐに冷静さを取り戻して微笑んだ。「皇帝陛下、私はただの一貴族に過ぎません。そんなふうに言われるほど、特別な存在ではありませんよ。」

「いや、君は特別だ。」ネロは真剣に答えた。「僕が求めるのは、ただの美しい女性ではない。君のように、内面から輝く者が僕にとって最も魅力的だ。」

アグリッピナはしばらく黙っていたが、その目が少し揺れるのをネロは見逃さなかった。彼女は他の誰にも見せないような繊細な表情を浮かべていた。

「しかし、陛下。」アグリッピナがようやく口を開いた。「私たちの立場には大きな違いがあります。あなたは皇帝であり、私はただの宮廷の一員に過ぎません。私がどれだけ努力しても、私たちの間には決して越えられない壁があるのです。」

その言葉を聞いたネロは、心の中で何かが砕ける音を聞いた。彼女が自分の立場を気にしていることは理解していたが、それでも彼女の口からその言葉を直接聞くと、どうしようもなく寂しさが込み上げてきた。

「僕は皇帝として多くのことを決定する立場にあるが、君とのことに関してだけは、誰の言葉も耳に入らない。」ネロは冷静に言ったが、その声はかすかに震えていた。「君の心がどこにあろうと、僕は君を手に入れる。君がその壁を感じているなら、僕が壊す。」

アグリッピナは彼を見つめ、言葉が出なかった。彼女の表情は一瞬、何かを決意したかのように見えたが、すぐに冷静さを取り戻すと、低い声で答えた。「それは無理なことです。私が皇帝陛下の求めに応じることは、私の誇りを捨てることと同義です。私はあなたに対して…尊敬の念を抱いています。しかし、それは愛情とは違います。」

ネロはその言葉に胸を痛めながらも、冷静さを保とうとした。だが、彼の心は動揺していた。アグリッピナが彼のことを愛していないという事実を、受け入れたくなかった。彼女の言葉が、どれほど理性的であろうとも、それが彼の胸に突き刺さる矢のように感じられた。

「君がそう思うなら、僕は君を無理に引き留めることはしない。」ネロは顔をゆがめ、少し冷ややかな口調で言った。「だが、君が僕に背を向けたその時から、僕の心は君に決して戻ることはないだろう。」

アグリッピナはその言葉をしばらく黙って聞き、最後に一度だけ微笑んだ。「私はあなたの誠実さを尊敬しています。でも、私たちはお互いに歩むべき道が違うのだと、心から思います。」

ネロはその微笑みに胸が締めつけられるのを感じた。彼女がどれだけ冷静で理性的な言葉を口にしても、彼の心は動かされ続けていた。愛することがこんなにも苦しく、そして切ないことだとは、思いもしなかった。

「わかっている。」ネロは少し悲しげに笑った。「だが、僕は君を忘れられないだろう。たとえどんな道を歩もうと。」

アグリッピナは静かに立ち上がり、ネロに背を向けた。その背中を見送りながら、ネロは心の中で決して彼女を手放さないと誓った。彼の恋は、皇帝としての冷徹さをも超え、深く根を張っていくのだった。