いとなみ

春秋花壇

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いとなみ

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いとなみ

秋の風が吹き、柔らかな光が窓から差し込む午後。街の喧騒が少し遠くに感じられる場所で、彼女は仕事に没頭していた。清水麻衣子は、古びた喫茶店のオーナーであり、店内には心地よいジャズが流れていた。忙しい日々の中で、何も変わらないこの店が彼女にとっての安らぎであり、何よりも大切な場所だった。

麻衣子は若い頃から、この店を開くことを夢見てきた。家族を持たず、結婚もしないで生きる覚悟を決めていたが、時折ふと寂しさを感じることもあった。それでも、彼女は他の誰かと生きることに疑問を抱き、孤独を選んだのだ。

「麻衣子さん、今日もお元気ですね。」

その日も常連客の田村修一が、昼過ぎに入ってきた。彼は麻衣子の店の常連であり、静かな雰囲気を好むビジネスマンだった。40代前半で、長年この喫茶店に通っていることから、麻衣子にとってはちょっとした友人のような存在でもあった。

「いつもお世話になってますね、修一さん。」

麻衣子は笑顔で答えながら、カウンターの向こうでコーヒーを淹れ始めた。修一はその笑顔を見つめながら、少し沈黙していた。最近、麻衣子の笑顔を見る度に、どこか胸がざわつくのを感じる自分に気づいていた。

「最近、気になることがあって。」

修一がぽつりと口を開いた。

「気になること?」

麻衣子が顔を上げると、修一は少しだけ顔を赤らめ、恥ずかしそうに視線を逸らした。その仕草が、麻衣子の胸にわずかな違和感を生んだ。

「実は…」修一は言葉を選ぶように続けた。「麻衣子さん、最近少し元気がない気がして。何かあったんじゃないかって。」

その言葉に、麻衣子は思わず手を止めた。元気がない? 自分では気づかなかったが、確かにここ数週間、心の中で何かが引っかかっていた。新たに入った常連客との会話もどこか面倒に感じることがあったし、普段よりも仕事に集中できていない自分に気づいていた。

「大丈夫ですよ、修一さん。心配しなくても。」

そう答える麻衣子の口元には、自然と作り笑いが浮かんだ。しかし、修一の視線は真剣だった。

「無理しないでくださいね、麻衣子さん。何かあれば、俺も聞きますから。」

その言葉に、麻衣子はふと心が温かくなるのを感じた。それでも、麻衣子はその温かさに触れることなく、軽く笑って返した。

「ありがとう、でも私は大丈夫。本当に。」

その後、麻衣子は少しだけ修一とおしゃべりをし、コーヒーを提供して彼を送り出した。ドアのベルが鳴り、修一が外に出ると、麻衣子はふと深いため息をついた。修一の言葉が、心に残った。いつもなら気にしないことでも、なぜか今日は胸がざわつく。彼に心を開くことが怖いわけではない。ただ、これまで自分は一人でいることに慣れていた。それが、当たり前だと思っていた。

その日の午後、夕方が迫る頃、修一が再び店に現れた。今回は少し早い時間だ。彼が入ってきた瞬間、麻衣子はふと顔を上げた。

「まだ帰らないんですか?」

麻衣子が冗談を言うと、修一は少し驚いた顔をしてから、にっこりと笑った。

「お前と話すのが楽しいんだよ。」修一は言って、カウンターに座った。

その言葉に、麻衣子は少しだけ心が温かくなるのを感じた。今まで彼とは、ただの常連と店主の関係だったはずだ。しかし、この瞬間、何かが変わったように感じた。修一の笑顔、穏やかな言葉、そして彼の存在が、麻衣子の心に少しずつ色をつけていく。

「今日は何か特別なことをしてるんですか?」

麻衣子が話題を振ると、修一は少し考えてから言った。

「いや、特に。でも、最近麻衣子さんが元気ないように見えて、何か力になりたくて。だから、ちょっとでも話せればと思って。」

その言葉に、麻衣子はまた胸が熱くなった。いつもなら、あまり他人に頼ることなく生きてきた。しかし、この時は素直に彼に感謝の気持ちが湧いてきた。

「本当にありがとう、修一さん。」

彼の存在が、少しずつ麻衣子にとっての支えとなり始めていた。その時、麻衣子はふと思った。もしこのまま、何も変わらずに一人でいることが続いたなら、きっと何か大切なものを失うのだろうと。けれど、彼と一緒にいることで、新しい何かが始まる予感がしていた。

それからしばらくして、修一が帰る時間が来た。店を閉める準備をしていると、修一がふと立ち止まり、振り返った。

「麻衣子さん、また明日も来るから。」

その一言が、麻衣子の胸に深く響いた。彼が言ってくれるその言葉が、彼女にとって何よりも大切なものになる予感がした。麻衣子は、静かに笑いながら答えた。

「待ってますよ、修一さん。」

その時、初めて麻衣子は、心から誰かを待ち望んでいることに気づいた。







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