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春秋花壇

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何を一番に愛しているかは、失ったときに分かる

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「何を一番に愛しているかは、失ったときに分かる」

その日、私は家を出ることに決めた。心の中で、何度も何度も繰り返してきた言葉が、ようやく現実となった。彼のことを愛していると自分で言い続けながらも、何かが違う。何かが足りない気がするのだ。

私の名前は沙織。結婚して五年目を迎えたが、夫の浩介とは次第に心の距離が広がっていった。初めは、小さなことが気になりだし、それが積み重なって大きな問題になった。浩介は穏やかで優しい人だ。仕事に追われ、家では静かな時間を求める性格。私もその穏やかさに惹かれたし、何よりも、彼と過ごす時間が心地よかった。だが、次第にその「穏やかさ」が私を閉じ込めるように感じ始めた。

最初のうちは、仕事に忙しい浩介に対して不満を感じても、耐えることができた。私も専業主婦として、自分の時間を持ちながら、彼を支えていた。しかし、月日が経つにつれて、私の気持ちは次第に冷めていった。彼が家に帰る時間は遅く、夜遅くまで一人で過ごすことが多くなった。二人で過ごす時間が少なくなり、会話も減り、互いに無関心に近づいていった。

浩介は、私の心の変化に気づいていたのだろうか。彼が何かを言うわけでもなく、ただ無言でテレビを見ている姿に、私は焦りを感じ始めた。どうして私たちはこうなったのだろう? どうして二人は、お互いに触れ合わなくなったのだろう? そんな問いが心に渦巻く。

そして、ついにその日が来た。浩介が帰宅した夜、私は彼に言った。「もう、この家を出ることに決めたの。」私の声は震えていたが、それでも心の中で、この言葉が必要だと感じていた。浩介は驚いた表情を見せたが、黙っていた。私は自分の荷物をまとめながら、彼が何も言わないことに苛立ちを感じていた。彼が何か言うだろうと期待していたが、彼の沈黙がさらに私を追い詰めた。

そのまま私は家を出た。外の冷たい風が、私の心に突き刺さった。歩きながら、私は一人で考えた。何を一番に愛しているのか、私は失って初めて分かるのだろうか? 浩介と一緒にいた時、私は彼を愛していたと思っていた。しかし、今になって振り返ると、それはただの「慣れ」だったのかもしれない。愛していたはずの人が、私にとってどれほど大切な存在だったのかが分からなくなっていた。

そして、その夜、私は初めて彼が私にとってどれほど大切な存在だったのかに気づいた。歩きながら、私の頭に浮かんできたのは、浩介と過ごした数々の思い出だった。私たちが初めて出会った時のこと、彼と初めてデートした時のドキドキ、そして結婚式の日の笑顔。私たちはお互いに支え合い、笑い合い、未来を描いていた。しかし、時間が経つにつれ、私たちはお互いに無関心になり、すれ違っていった。

私はその瞬間、彼がいなくなって初めて気づいたことがあった。それは、私が彼に求めていたのは「愛」ではなく、「依存」だったのではないかということだ。私は彼の存在を当たり前に感じ、彼に甘えていた。愛しているという言葉で、私の心を覆い隠していた。しかし、実際には、彼が私に何をしてくれたのか、どれだけ私の心を満たしてくれたのか、それを深く考えることはなかった。

家を出てから数日が経った。その間、私は実家に帰り、友人たちに相談した。だが、どこかで心の中で答えを出していた。浩介と過ごす時間が減ったことで、私は彼がいなくなることに対して恐怖を感じていた。しかし、それは彼を愛しているからではなく、ただの「習慣」だったのだと気づいたのだ。

私が本当に求めていたのは、彼と再び心を通わせることだった。それに気づいた私は、もう一度浩介の元に戻る決意を固めた。私はすべてを捨てるつもりで出て行ったが、今度は、彼と向き合う覚悟を持って帰るつもりだった。

その夜、私は彼に電話をかけた。浩介が電話を取ると、私は静かに言った。「浩介、戻ってもいい?」

彼はしばらく沈黙した後、静かな声で答えた。「待っているよ。」

その一言が、私の心を温かく包み込んだ。何を一番愛しているのか、それは失って初めて分かるものだということを、私は痛いほどに感じていた。そして、私たちの関係は、もう一度、新たな形で始まるのだろうと確信した。






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