いとなみ

「ご遠慮しますわ、ライオット殿下」

「ご遠慮しますわ、ライオット殿下」

伯爵令嬢サラサは、王太子ライオットと婚約していた。数年前に交わされた約束は、彼女にとって何よりも誇りであり、未来の王妃としての役目を果たす覚悟を決めていた。彼の手に握られた誓いの指輪が、サラサにとっては日々の支えでもあった。しかし、ライオットの心が他の誰かに向かっていることを知ったのは、ある日突然だった。

その日は、王城で行われる晩餐会にサラサも招待されていた。華やかな舞踏会が始まる前、彼女は一人、庭で風を感じながら静かに時間を過ごしていた。そこに現れたのは、王太子ライオットと、彼の隣に立つ神官の娘、オフィーリアだった。オフィーリアは聖女と呼ばれ、治癒魔法を使いこなすその能力で王国中に名を知られていた。美しく、優雅で、慈愛に満ちたその姿は、誰もが一目で彼女に魅了されてしまうだろう。

そしてその瞬間、サラサは悟った。ライオットの眼差しがオフィーリアに向けられ、彼女に対する深い思慕が滲んでいるのを見てしまった。まるで何年も前から約束されていたかのような、その視線の先に自分の居場所はなかった。

その夜、ライオットは彼女を王城の一室に呼び寄せた。暗い部屋で彼の声が響く。「サラサ、君に申し訳ないが…」

言葉の途中で、サラサは彼の顔を見ることができなかった。深い青色の瞳が、サラサの心を見透かすように感じられた。彼の言葉は冷徹で、心を抉るようなものだった。

「オフィーリアに正妃の座を譲ってくれないか？」

その言葉は、サラサの心を突き刺した。彼が言った通り、オフィーリアは王家にとって必要不可欠な存在だ。治癒魔法の使い手であり、聖女と呼ばれるその存在が、どれほど王国にとって大切かは明白だった。それに比べて、サラサには何もない。魔力すら持たない『非保持者』である自分が、王太子の妃としてふさわしいのかと、いつも自問してきた。

「わかりましたわ、ライオット殿下。」サラサは静かに答えた。彼の言葉を理解し、受け入れるつもりだった。彼がオフィーリアを選ぶのは、当然のことだと思った。

だが、次の一言がサラサの心に深い傷を残した。

「だから、君は側妃にでもなればいい。」

その言葉に、サラサの心は崩れ落ちた。今まで彼に尽くし、何度も彼のために自分を犠牲にしてきた。彼が一番必要としていたのは、自分だと信じていた。しかし、こうして彼に言われた「側妃」という言葉に、すべての思いが溢れ出した。

プツン

その音が、サラサの心の中で鳴り響いた。何かが切れた。今まで耐えてきたもの、我慢してきたもの、すべてが一瞬で壊れた。

サラサはゆっくりと顔を上げ、ライオットを見据えた。その顔に浮かべたのは、無理に作った微笑みだった。だが、その笑顔の中には、今まで見せたことのない冷徹な光が宿っていた。

「ご遠慮しますわ、ライオット殿下。」

その言葉は、彼にとって予想外だったろう。サラサは心の中で彼の顔を見つめたまま、冷静に続けた。「正妃の座を譲るどころか、私はもうこの場所に留まるつもりはありません。あなたにとって、私はもう必要ないのでしょう？」

ライオットは言葉を詰まらせた。彼の青い瞳が驚きに満ち、そして少しだけ戸惑ったように見えた。しかし、サラサの目にはその戸惑いさえも、もう意味を成さなかった。彼に捧げた日々、彼が抱いた温もり、そのすべてが今、無に帰したような気がした。

「サラサ…」ライオットは口を開いたが、何も言うことができなかった。何も言えなかったのだ。

サラサはそのまま、部屋を後にした。歩く足取りは決して速くはなかったが、心の中で何かがすっと軽くなったような気がした。

廊下を歩くサラサは、これからの人生に思いを馳せた。ライオットとの婚約が解消された今、彼女は新たな道を歩む決心を固めていた。彼に何を与えても、もう何も得ることはできない。しかし、これからは自分のために生きることを誓ったのだった。

その決断は、これから先、彼女の人生を大きく変えるものとなった。