いとなみ

春秋花壇

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心のポカポカ

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心のポカポカ

朝の冷たい空気が頬に触れるたび、サクラは少しだけ襟元を立て、手をこすり合わせた。秋の空気はどこか清々しさと寂しさが混じり合い、温かいけれど、冷え始める日々が訪れていた。街の木々も少しずつ色づき始め、いつも通る道も季節の移ろいを知らせてくれる。

「今日はどうかな…」とサクラは思いながら、いつものように電車に乗り込んだ。

彼女は決まって朝の時間、必ずマスクをしていた。煩わしいと思いつつも、もうすっかり日常の一部だ。外での感染リスクを減らすために、習慣化された防衛策だ。それでも、マスクをしているからこそ安心感があるのかもしれない。電車の中は人が多く、目線をどこに置いていいのかわからず、ふとガラスに映る自分の姿を見つめる。

少し曇った窓ガラスの向こうに、どこか不安そうな目が映っている。その目に、彼女は自分自身を重ねた。

「まぁ、今日も頑張らなきゃ…」と小さく呟き、電車が走り出す振動に身を委ねた。

いつものように、駅で降りてオフィスに向かう途中、サクラはふとある人の姿を見かけた。彼の名前は、えーじ。会社の同僚であり、長年の片思いの相手だ。彼はサクラとは違い、マスクはしていない。いつも堂々としていて、かっこよくて、そんな彼にサクラは心を奪われていた。

えーじは、他の同僚たちと話していた。笑顔が輝いていて、その笑顔を見た瞬間、サクラの胸はポカポカと温かくなった。「かかってもいいのは恋の病だけだよね…」と思わず心の中で笑ってしまう。

彼女はえーじに会うたびに、そのポカポカとした気持ちがどんどん大きくなっていくのを感じていた。何度か話したことはあるけれど、深い関係にはなっていない。ただの同僚、それが現実だった。

それでも、彼と会うたびに心が踊るのは仕方がないことだ。えーじはいつも自然体で、自分を飾らない。そんな彼がサクラにとってはまぶしくて、同時に少しだけ距離を感じてしまう存在でもあった。

その日、仕事を終えた帰り道。サクラは疲れた体を引きずりながら、駅に向かって歩いていた。空は夕焼けに染まり、秋の風がさらに冷たく感じられる。肩にかけたコートを少し引き上げ、首元を温めた。

電車に乗り込むと、偶然にもえーじが同じ車両に乗ってきた。サクラは慌てて視線をそらし、心臓がドキドキと早くなるのを感じた。彼は何か考え事をしているようで、サクラには気づかずに席に座った。

「どうしよう…話しかけるべき?」サクラは自分の心の中で葛藤した。

でも、彼に話しかける勇気がないまま、時間だけが過ぎていく。電車の揺れに合わせて、心が波打つように不安と期待が交差する。

ふと、えーじが席から立ち上がった。次の駅で降りるのだろうか。サクラは迷ったが、思い切って声をかけることにした。

「えーじさん!」

彼は驚いたように振り返り、サクラを見た。「お疲れ様」と、彼はにこやかに笑う。その笑顔に、サクラは一瞬言葉を失ったが、すぐに「お疲れ様です」と返した。

「どう?最近、元気にしてる?」えーじが問いかける。

「うん、まあ…なんとか。でも、朝晩は寒くなってきたから、風邪とか気をつけなきゃだよね。まだマスクしてるけど…」とサクラは少し照れくさそうに答えた。

「そうだよね、体調管理大事だよな。でもさ、マスクしてても、サクラさんは綺麗だよ。むしろ、マスクしてるからこそ、なんかミステリアスでいいかもな」えーじは冗談交じりにそう言いながら、軽く笑った。

その一言で、サクラの心は一瞬でポカポカと温かくなった。「えーじさん、本当に…ずるいよ」と、心の中で小さくつぶやいた。

彼と話す時間は短かったが、その一瞬がサクラにとっては大切な宝物のように感じられた。電車が駅に着くと、えーじは「またね」と言い残して降りていった。サクラはその後ろ姿を見送りながら、胸の高鳴りを抑えることができなかった。

「かかっていいのは、恋の病だけか…」

彼女の心は、今日も少しだけ暖かくなった。そして、そのポカポカとした気持ちは、冷たい秋の風を忘れさせてくれる。サクラは、少しだけ未来に希望を抱きながら、駅のホームに降り立った。

「恋の病なら、悪くないかもね…」






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