いとなみ

揺れる天秤

揺れる天秤

その日、杏奈（あんな）はオフィスの片隅でパソコンに向かい、何度も眉間にしわを寄せていた。最近のプロジェクトは厳しいものだった。チームのメンバーとともに連日深夜まで働き詰めの生活を送っていたが、誰も彼女の頑張りを評価する様子はなかった。

「男女同権なんて言葉があるけど、本当にそうなのかな？」杏奈は心の中でつぶやいた。彼女がいくら成果を上げても、男性同僚たちに比べて評価が低いと感じていた。実際、同じプロジェクトを担当している男性社員が先に昇進の話を持ちかけられる場面を何度も目撃していた。

「杏奈、ちょっといいか？」ふと声がかかり、彼女は顔を上げた。上司の杉山が声をかけていた。彼は40代半ばで、頼りがいのある存在ではあったが、杏奈にとってはどこか冷たさを感じる人物でもあった。

「はい、杉山部長。」

「今度のプロジェクト、君に責任者を任せることを考えているが、どうだろう？」

その言葉に、杏奈の心が一瞬弾んだ。しかし、すぐに不安が押し寄せた。これまで何度も責任を求められてきたが、実際に昇進や特別な報酬が与えられることはなかった。「ただの負担の押し付けではないか？」という疑念が彼女を包み込む。

「もちろん、やらせていただきますが…。」杏奈は言葉を選びながら続けた。「私に責任者の肩書きを与えるということは、これまでの頑張りが評価されたからなのでしょうか？」

杉山は一瞬、驚いたように目を細めた。「いや、評価されていないというわけじゃない。君はこのプロジェクトの中心的な存在だ。だが、正直なところ、リーダーシップを発揮する場面がもう少し必要だと思っている。」

杏奈は心の中で苦笑した。これまでのリーダーシップが何だったのか、自分でも分からなくなってきた。毎晩の遅くまでの残業、細かいタスクの調整、チーム内での意思疎通のフォロー――これら全てがリーダーシップに含まれていないのだろうか？

その晩、杏奈は家に帰り、鏡の前に立って自分を見つめた。彼女は若い頃、男女同権の理想を掲げ、キャリアに挑んできた。だが、現実は理想とは程遠かった。彼女の努力は評価されず、常に男性の後塵を拝する状況が続いていた。彼女の心は次第にすり減り、自信が失われていく。

「私たち、何のために頑張っているんだろう？」杏奈はつぶやいた。

そのとき、スマートフォンが鳴り響いた。画面に表示された名前は、昔の恋人であり、今も友人として付き合いが続いている直哉（なおや）だった。

「杏奈、元気か？最近どうしてる？」

久しぶりの電話に、杏奈は一瞬戸惑ったが、すぐに電話に出た。

「直哉、久しぶり。忙しくしてるよ、相変わらずね。」

彼との会話は自然だった。直哉は杏奈のキャリアの苦労を知っている数少ない友人の一人であり、いつも彼女を応援してくれていた。彼自身も大企業に勤めるが、男女平等に対する疑問を持ちながら働いていた。

「実はさ、俺も最近考えてたんだ。『男女同権』って何なんだろうって。俺たち、平等だって言われてるけど、実際はそうじゃない場面が多すぎるよな。」

杏奈は静かに頷いた。「そうだよね、私もそう思う。頑張っても結果が出ないと感じることが多すぎる。でも、どうしたら変わるのかも分からない。」

直哉は少し考え込んだように黙った後、優しい声で言った。「杏奈、君はもう十分頑張ってるんだよ。問題は、社会全体がまだ変わりきっていないだけだ。君の価値は、君自身が一番よく知ってるだろ？」

その言葉に、杏奈の心は少しだけ軽くなった。彼の言う通り、自分の価値を誰かに証明する必要はないのかもしれない。大事なのは、自分がどう生きたいか、自分が何を大切にしているかということだ。

「ありがとう、直哉。そうだよね。私、自分を見失いかけてたかもしれない。でも、まだ諦めたくないんだ。」

「うん、それでいいんだ。君は自分の道を進めばいい。誰かの期待に応えるためじゃなくて、自分のために。」

その後、杏奈は少しずつ自分を取り戻していった。彼女は職場でも、これまで以上に自信を持って仕事に取り組むようになった。そして、次のプロジェクトでのリーダーシップを発揮し、少しずつ周囲の評価も変わり始めた。

ただ、杏奈にとって重要だったのは、自分の価値を他人に求めるのではなく、自分自身で見つけることだった。そして、男女同権という理想が、男性の地位が女性の地位に追いつくことではなく、互いに尊重し合い、自分の道を選ぶ自由を得ることだと気づいた。

直哉との会話が、彼女にそのことを教えてくれた。