いとなみ

未完の物語

未完の物語

夜は深まり、星々が遠い記憶のようにかすかに輝いていた。路地裏に面したカフェの窓際に座る彼女の指先が、ゆっくりと空に描かれる雲をなぞるように動く。彼女はそのまま、手の中にあるスマートフォンをそっと机に置いた。通知音が静かに響くが、彼女はそれに目を向けることもなく、窓の向こうを見つめ続ける。

「また、会えない人が増えてしまったんだね。」

その声に、彼女は微かに肩をすくめた。彼はテーブルの向かいに座り、手にしたカップから立ち昇る湯気を見つめていた。彼女がいつも頼むカモミールティーの香りが、心地よく漂う。

「大人になれなかったのかもしれない。」彼女は小さくつぶやいた。彼がその言葉に反応する前に、彼女は再び口を開いた。「私、まだ何もちゃんとできないまま…。」

彼は何か言おうとしたが、言葉が見つからなかった。彼女の抱える葛藤や不安を知っているからこそ、簡単に言葉を掛けることができなかった。彼女が何度も繰り返す自己否定に対して、どう返すべきなのか、自分でも分からなくなっていた。

「君にはもう見えないものがあるんだろう。」彼はそう言って、軽く笑った。「僕にも、もう見えないものがある。」

彼女は彼の言葉に一瞬だけ驚いたように顔を上げたが、すぐにまた目を伏せた。彼の目には、彼女が抱えている「何か」がはっきりと映っていた。だが、その「何か」を共有することは、もうできなくなっていた。彼はただ彼女の存在を感じながら、彼女が自分自身でその答えを見つけられるよう願うしかなかった。

「頼んだ覚えはないけれど、君が守られてきたことは知ってる。自分じゃできないことでも、君にはきっと優しくあれと祈ってるんだ。」彼は、自分の言葉が届くことを信じていた。それは、彼自身が彼女の支えになると決めた瞬間から、いつも心の中で繰り返していた言葉だった。

彼女は沈黙の中で、少しだけ頬を赤らめた。その沈黙が意味するものが何か、彼には分からなかったが、彼女が少しずつ自分の中に何かを取り戻そうとしているように見えた。

「でも、似合ってなんかいないんだよね、私。」彼女はポツリと言った。「こんなにたくさんの大事なものをもらって、でもどうしたらいいのか分からなくて、足りなくて…。」

彼はそれに答えることができなかった。彼女の言葉の裏にある感情は、彼自身も抱えていたものだから。何かを手に入れても、それが本当に自分のものとして胸を張れるものかどうかは、いつも曖昧だった。彼もまた、投げ出し方を知らずにここまで来てしまった人間だった。

「もし、手垢にまみれたバトンでも、渡せるものがひとつ見つかれば、少しは胸を張れるのかな…。」

その言葉は、彼女の心の中で長い間探し続けていた答えかもしれない。彼はその言葉に何も返さず、ただ静かに頷いた。互いに何も言わずに、その場の空気に浸る。それが、二人の答えであり、救いだった。

「閉じた絵本の終わりのページで、これは誰の人生だろう？」彼女が再びつぶやく。

「それは君の人生だよ。」彼はそう言いながら、微笑んだ。「そして、君がそれに色を塗っていくんだ。」

彼女は彼の言葉に驚いたように顔を上げ、その目にはかすかな涙が浮かんでいた。彼女が今、誰かをどうにか幸せにしたいと願っていることを、彼は知っていた。そして、その願いが彼女の未来を真白なまま守り続けていくことを、彼は信じていた。

「でも、いつか君が誰かを幸せにしたいと願う日に、僕が笑って頷けたら、それでいいんじゃないかと思う。」彼のその言葉は、彼女にとって深い安心感を与えた。

外はいつの間にか夜が明け始め、朝焼けが窓から差し込み始めていた。彼女は彼に向かって微笑み、そっと手を伸ばした。その瞬間、彼女は彼と共に新しい道を歩む決意を固めた。

未来はまだ真白で、彼女がそれに色を塗っていく。彼はその未来を見守りながら、彼女の手を握り返した。