いとなみ

風立ちぬ

風立ちぬ

風が立ち、季節は確かに秋へと移り変わっていた。彼女はひとり、高原のテラスに座り、遠く広がる草原に目を向けていた。涼しい風が頬を撫でるたびに、心の奥底にしまい込んだ感情が少しずつ蘇ってくる。手元には、彼が最後にくれた赤いバンダナ。首に巻いたそれが、彼との別れを忘れさせてくれるはずだった。

「風立ちぬ、今は秋」と、彼女は静かに呟いた。夏が終わり、彼との思い出もまた過去のものになるべきなのだろうか。心のどこかで、帰りたいという思いがよぎる。しかし、彼女はもう彼の胸に帰ることはできない。自分で選んだ道だとわかっている。それでも、胸の奥に募る寂しさは、彼女の心を旅人にしてしまったのだ。

彼女は一枚の便箋を取り出し、風のインクで手紙を書き始めた。すみれやひまわり、フリージアの香りが漂う高原の空気に包まれながら、彼女の心は自然と手紙に乗せられていく。何を書けばいいのか、言葉がまとまらない。ただ、彼に伝えたい思いは一つ。彼女はもうひとりで生きていける。そう、自分に言い聞かせるように、ゆっくりとペンを走らせた。

「SAYONARA、SAYONARA、SAYONARA」――何度もその言葉を繰り返すうちに、涙がこぼれ落ちるのを感じた。彼女は涙顔を見せたくなかった。だから、遠く離れたこの場所で、心の中でだけ別れを告げようと決めていたのだ。しかし、涙は止められなかった。

振り返れば、色づく草原が広がっている。彼との思い出が詰まった夏が、確かに過去になろうとしていることを感じた。あの夏の笑顔、楽しげな彼の声、そして「もう泣くなよ」と言って彼がくれた赤いバンダナ。その全てが彼女の中で生き続けている。

「もう、ひとりで生きてゆけそうね」と彼女は自分に言い聞かせた。けれど、心のどこかでその言葉が虚しく響く。風に乗ってどこか遠くへと旅立つような感覚が、彼女の心に漂う。旅立ちは別れでもあると同時に、新たな始まりでもある。だが、その新たな始まりがこんなにも苦しいものだとは思っていなかった。

彼女は再びペンを握り直し、手紙に続けた。彼との別れが一つの旅立ちであることを、言葉にしたかった。彼女は明るい性格のはずだ。だから、心配しないでほしい、と。そう書くことで、少しでも自分の気持ちを整理しようとしたのだ。

風が少し強く吹き、彼女の髪をかすめる。赤いバンダナが首元で揺れるたびに、彼の温もりがほんの一瞬、蘇ったような気がした。だが、彼はもうここにはいない。彼女は草の葉にそっと口づけをし、心の中で「さよなら」ともう一度呟いた。

忘れたい。しかし、忘れられない。彼の笑顔が、何度も何度も脳裏に浮かんでくる。彼女はその笑顔を胸に抱きながら、目を伏せた。目を閉じると、まるで夏から秋へと移り変わる不思議な旅をしているかのように感じた。季節は確かに変わりつつあるが、彼女の心の中での旅はまだ終わっていない。

「風立ちぬ、今は秋」と彼女は再び呟く。彼の胸に帰りたいと思いながらも、もう帰ることはできない。彼女は今日から心の旅人なのだ。自分の心の中で、彼との思い出を抱えながら、新しい季節を迎え入れる準備をしている。

日は徐々に沈み、空には薄い橙色の光が広がっていた。彼女はその光をじっと見つめながら、最後の手紙を封筒に入れた。この手紙を出すことはない。彼に送るつもりもなければ、誰かに見せるつもりもない。ただ、自分の心の整理として、風に吹かれるこの高原で、書き残したかったのだ。

「SAYONARA、SAYONARA、SAYONARA」――彼女はもう一度、心の中で別れを告げた。夏が過ぎ去り、秋が始まる。そして彼女もまた、新たな旅路を歩き出す。風に吹かれて、どこか遠くへと旅立つような感覚を胸に、彼女は静かに立ち上がった。

その時、彼女の耳にかすかに、彼の声が聞こえた気がした。「もう泣くなよ」と。その声に応えるように、彼女は小さく微笑んだ。