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老齢の人たちとの交わりから益を得る
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今日,65歳以上の親族がひとりもいないという家庭は,たいへん少なくなっています。たとえばアメリカでは,人口のおよそ10%を占める約1,900万人が65歳あるいは,それ以上の老齢の人びとだからです。英国では,65歳以上の人は800万人台に達し,人口の10%を上回っています。他の国々でも老齢人口は同様な増加を示しています。
そうした幾百万もの人びとを無視することなど,とても考えられません。ところが,若さと若さに伴う利点が重視される,生活のテンポの早い今日の世界には,そうした傾向が見られるのです。老人が若者の集まりに招かれることなど,もはや,めったにありません。事実,老人に手紙を書いたり,電話で声をかけたりするよう,子どもたちや友だちに勧めるには,かなり骨がおれます。以前は,必ずしもそうではありませんでした。時代は変わりました。
82歳の一老人が,こうした時代の変化を振り返って述べたことを,アメリカ,ニューアークのイブニング・ニューズ紙の記事から一部引用してみます。「わたしの幼いころは,いつも身辺に老人のいる生活をしたもので,近所には老人が多数いました。……道を歩いてゆくと,赤れんが造りの古びた家の前のたたきや歩道には,たいてい,ひとりかふたりの老人が腰かけていたものです。ひとり暮らしの老人はごくわずかで,たいてい,子どもや孫たちといっしょに生活し,話をしたり,本を読んだり,くつろいだりしていましたし,なかには独特の趣味を持つ人もいました。老人たちはみな,通りすぎるわたしたちに笑顔を向け,優しいことばをかけてくれました。わたしたちの家のすぐそばには,バーンズさんという大柄の老婦人がいて,おいしい手製のパンを一かま分焼くたびに,わたしたちを招いては,できたてのチリカンカーニのソースを添えて,ふるまってくれました。……織物業界から引退したシャーマン老人は……娘さんの世話を受けて暮らしていました。……
「わたしたちは,そうした年寄りたちを尊敬し,たいせつにこそすれ,ひやかしたり,かげで笑ったりはしませんでした。彼らは子どもたちのめんどうをよく見たので,子どもたちは十代を過ぎると,今度は自分たちが,親のめんどうを見るのを当然と考えました。
「今日,老人は,薄ぎたない貸し間で孤独をかこったり,だれにも顧みられることなく,公園のベンチに腰かけて,ただ時のたつのを待ったりしています。……時代が変わったことは知っているにしても,子どもたちから得られるものと期待していた愛と気づかいの片りんにすら恵まれていないのです」。
自分の子どもや,周囲の若い人びとからあまり愛されなくなる老人がふえているのは,今日の老齢の人たちの真の悲劇といわねばなりません。年老いた親たちのめんどうを喜んで見る子どもは,たいへん少なくなりました。しかし,以前の世代の子どもの多くは,今日のような見方をしませんでした。
古代の老人はもっと尊敬された
聖書に示されているとおり,古代イスラエルの子どもたちは,親を敬うことを神から命じられており,そうした命令は子どもに益するものとなりました。(出エジプト 20:12)年取った人びとの多い地域社会は,高く評価されました。老人が深い敬意をもって遇されたことは,次の命令からもわかります。「白髪の人の前には起あがるべし また老人の身を敬ひ汝の神を畏るべし 我はエホバなり」。(レビ 19:32)老人を尊敬することは,神からの命令であり,神聖な義務でした。族長ヨブが,ちまたを歩き,老人たちのそばを通ったとき,『老たる者は起あがって立った』ほどです。(ヨブ 29:8)老人を敬うのは,ふさわしい人にそうするのであれば,今日と同様,美しいことでした。
なかには,神の律法が施行されていないにもかかわらず,老人が敬われた国もありました。エジプト人の若者は,老人を見ると立ち上がって,最上の席をゆずりました。スパルタの若者も同様にふるまい,かつ,老人の前では沈黙しましたし,ギリシアでも老人は敬意をもって遇されました。
老人は,理解力と判断力を兼備した人とみなされ,豊富な知恵と記憶の持ち主と考えられました。また,年寄りは,王たちの助言者として仕えましたから,人びとは,たいてい,それら老人の知識や理解のほどに,ねんごろに応じました。昔,ヤラベアムと全イスラエルが自分たちの重荷を軽減してもらいたいと,レハベアムに要請した時のことについて,聖書はこう述べています。「レハベアム王その父ソロモンの生る間その前に立てる老人たちと計(れ)り」。ところが,レハベアムは,「老人の教へし教をすて自己とともに成長て己のまへに立つ少年らに計」ったのです。(列王上 12:4-19)その結果,イスラエルに反乱を招き,十二部族で成る王国に,いやすことのできない分裂が生じました。
世界のいろいろな地方では,高齢の人びとが今でも大いに尊敬されていますが,西欧社会の老人の影響力はおおむね,失われています。とはいえ,老人のことばに耳を傾けて学ぼうとしさえすれば,年寄りは今でも大いに力を貸すことができ,老人との交わりは,たいへん貴重なものとなりうるのです。
といっても,老齢の人はすべて,知恵や励みを与えることばを,いつも述べるものだ,という意味ではありません。老人の多くは経験も豊かに,なかには,きわめて多彩な背景の持ち主もいるでしょう。しかし,それとともに,世の問題や悩みの多くは,それら老人の活動に遠因がある,ということも忘れてはなりません。したがって,選択が必要です。神の正義の道に従ってきた老人との交わりは,たいてい,多くの益をもたらすものといえるでしょう。聖書の原則は真実です。「白髪は栄の冠弁なり 義しき途にてこれを見ん」。(箴言 16:31)神のことばによってひととなりを築いてきた老人のしらがは,うるわしい冠であり,そのような人との交わりには,喜びと益があります。
老齢の人たちに見られる有用な特質
老人は自分たちの手にあまる経済的な負担になるのではなかろうか,と不安に思う若者がかなりいます。それで,若い人びとは老人を敬遠します。しかし,年老いた親その他,老齢の親族から相続する財産や資産の総額はたいてい,その扶養に要した支出の倍,あるいは,幾倍にも達するのが実情ではありませんか。
確かに老齢には独特の病苦がつきものですが,若い人についても同じことがいえます。幼少期にかかる種々の病気のことを考えてごらんなさい。あまり多くの病苦や,後悔や恐れの念にさえ災いされなければ,老後はたしかに,平安な思いに数々の思い出を秘めた,安らかな恵まれた時期といえるでしょう。混乱した今日の世界にあって,そうした安らぎに少しでも接して喜びを感じない若者がいるでしょうか。平安な思いをいだく老人とともに,ひとときを過ごすなら,そうした喜びが味わえるのです。
老人は,ありのままの自分,つまり老人であるということだけで,貢献できるのです。老人には,子どもの好きな暖かさや愛情があります。祖父母が,それも特に不当に用いられないかぎり,子もり役をこなせるのはそのためです。すぐれた先生にもなれます。ある5歳の女の子は,祖母といっしょに,よくひとときを過ごしました。祖母はその子に,神と神の王国の祝福について,いつも話して聞かせたので,その娘は長じて,ものみの塔協会の宣教者になる決心をし,ついに,その目的を遂げました。
たいていの人は,自分の知っている老人,おそらく自分のおじいさんやおばあさんをなつかしく思い出すものです。ある青年は,すばらしいかおりのする褐色の部厚いパンを焼いてくれた祖母をなつかしくしのびながら,こう語りました。「おばあさんは,焼きたての熱いひとかたまりのパンをオーブンから取り出して,まん中をさき,部厚いバターのかたまりをその中に入れ,バターがみなとけて,パンの外に流れ出るところを厚めに切って,わけてくれたものです。わたしたちは,ひとくずも残さず食べました。家では,焼きたてのパンは食べてはならないことになっていましたが,おばあさんはいつもわたしたちに少しわけてくれました」。青年は,その祖母と,おいしいにおいの漂う台所のことを長く記憶にとどめていました。
普通,老人はせわしくしていません。それさえ益となることを見落とさないでください。若い人は,何にもまして少しでも同情と理解をもって話を聞いてくれる人を求めます。老人の多くはこの面で,時間と忍耐強さに恵まれています。年取った,あるおばあさんはこう語りました。「近所の子どもたちの多くが立ち寄っては,ちょっとの時間話してゆくのに驚かされ,また,うれしく思っています。子どもたちはせわしい遊びをやめて,やって来ては,おもしろいことを話してくれたり,打ちあけ話をしてくれたりします。子どもたちは何よりも,優しく聞いてほしいらしいので,わたしはもっぱら耳を傾けるだけです。それらの子どもたちは,自分の子どもや孫から遠く離れて暮している老人にどんな喜びをもたらすかは知るよしもありませんが,そうした子や孫のいだく愛情のようなものを感じているのでしょう」。
老人がすることで,他に影響を与えるのは,必ずしも大きなことだけではありません。たまに作る手製の一盛りのクッキーも思い出になります。くつ下のつくろいものを手伝ってもらって,感謝しない若い母親がいますか。病気になったり,疲れきったりした時,おじいさんやおばあさんの助けは,かけがえのないものではありませんか。
老人からほんのふたことかみこと話しかけられただけで,気持ちが安らぎ,良いことをしたいという励みを受ける場合があります。老齢の一婦人は幼いころを振り返って,当時,自分の知っていた多くの老人のなかでも,もの静かで優しい親切な,ある老婦人について,こう語りました。「その人の手を取って,その目を見つめ,わたしに向けられたそのほほえみを見,『あなたに神の恵みがあるように』と言われたのを,まるできのうのことのように,はっきりと覚えています。その人の名前さえ覚えています」。この婦人によれば,そのほんのちょっとの融れ合いで,「りっぱな人になりたいと励まされた」とのことです。
老人との交わりを求めなさい
現代の生活においては,老人との交わりがおおかたなおざりにされているため,確かに老人も若い人も,ともに愛と祝福を失う深刻な事態に陥っています。この面で少し努力してはいかがですか。時々立ち寄って,いっしょに話してゆくよう,老人に勧めてはいかがですか。食事に老人を招待するなら,感謝されるだけでなく,あなたも報われるでしょう。パーティーその他,親ぼくのための集まりを計画する場合,年取った人びとを名簿に含めてはいかがですか。大ぜいの人の集まりに出ると,老人はとかく引っ込みがちになりますから,老人たちと交わって,老人たちが楽しいつどいにあずかれるよう,助けてはいかがですか。老人とともになり,老人たちをあなたの生活の中に含めてください。そのようにして親切を示すなら,老人は孤独や自分をあわれむ気持ちにさいなまれずにすむでしょう。
もとより,老人を尋ねる際,覚えておくべきことが幾つかあります。まず第一に,訪問を建設的なものにするため,適当な時間とどまれるようにしてください。若い人は飛び込んでくるなり,「残念ですが,ちょっとしかおれないんですよ」と弁解する場合がよくありますが,努めてせわしくしないようにしましょう。同時に,話の中で持ち出したいと思う,興味のあるたいせつな話題を考えておくのも良いことです。言いたいことをはっきりと述べてください。また,再び尋ねるとか,近いうちにたよりをする予定の日時を知らせて,別れるようにしてください。そうすれば,年寄りはその時を心待ちできるでしょう。
それとともに,話題になるものを何か携えてゆくのも良いことです。老人を尋ねる時,家族のひとりからの手紙を持っていき,声を出して読んであげられます。本か雑誌を読んで,深い興味を感じたものがあれば,そうした興味深い点の幾つかを話してあげられるでしょう。その場合,あなたが感銘を受けた点を強調してください。こうして年老いた人びとを助けるなら,自分にとって興味のある事がらを記憶するよう,自分も助けられます。
老人はとくに室内用の鉢植えの植物や花が好きです。何かを贈りたいと考えているなら,そうした植物や花はすばらしい贈り物になります。年寄りのために何かを編んであげるなら,そうした品物はとくにたいせつに使ってもらえるでしょう。お金を贈りたいなら,何々に使っていただきたい,と提案をしるした手紙を添えて,封筒に入れて差し上げましょう。家族の写真をはるアルバムや食べ物,また,好きな料理などは老人に喜ばれます。
老人が疲れたり,気落ちしたりしないように,注意してください。年寄りには若い人のような体力はありません。また,老人のまちがいは大目に見ましょう。批判やあらさがしなどをしない,積極的な会話をしてください。みなりに注意を払う老人には,みだしなみの良さをほめ,持ち物などを大事にしている人には,その良さを述べ,おくせずに,その関心のほどをほめましょう。年寄りが話す時には,耳を傾けてください。何かを学べるでしょう。老人はさまざまな苦しみや悩みに対処する仕方を学んできたのですから,不必要な悩みや落とし穴を避ける方法を教えて,あなたを助けることもできるのです。
昔のユダヤ人には父母を敬う義務がありましたが,今日のクリスチャンにも,それに劣らぬ義務があります。使徒パウロはテモテをこうさとしました。「老人をけん責すな,反ってこれを父のごとく勧め,若き人を兄弟のごとくに,老いたる女を母のごとくに勧め(よ)」。―テモテ前 5:1,2。
老齢の人たちを訪問したり,それらの人をわたしたちの生活の中に含めたりして,関心を示すことができます。機会をとらえて老人とあいさつをかわし,それらの人が自分たちの中にいてくださる喜びを誠意をこめて表明することができます。遠く離れていて思うように何度も会えなくても,いつでも電話ができるかもしれませんし,手紙で連絡することもできます。あなたの声に接したり,あなたの近況や,行き届いた思いやりのほどをしたためた手紙を読むのは,老人にとって愛の報いということができます。それにはほとんど費用がいらないにもかかわらず,それはたいへん貴重なものなのです。
多くの場合,人の晩年は夏の日の午後のおそい時刻になぞらえることができるでしょう。日陰は長く地に伸びてはいても,陽光はまだ保たれており,おだやかなたそがれに包まれながらも,木々のこずえでは,なおも小鳥がさえずっているのです。そうした老齢の人たちと交わるとき,わたしたちはしばしば,人生のいろいろのたいせつな事がらを学べます。地球の場合と同様,老人は,宝,それも掘り出せば,自分のものにすることのできる宝をたくさん秘めている場合があるのです。若い人たちが老人との交わりを求めるのは,親切の表われといえますが,そうする人はまた,老人しか与ええない祝福に豊かに恵まれるでしょう。
老人には,子どもの好きな暖かさと愛情があるものです
目ざめよ! 1970より
そうした幾百万もの人びとを無視することなど,とても考えられません。ところが,若さと若さに伴う利点が重視される,生活のテンポの早い今日の世界には,そうした傾向が見られるのです。老人が若者の集まりに招かれることなど,もはや,めったにありません。事実,老人に手紙を書いたり,電話で声をかけたりするよう,子どもたちや友だちに勧めるには,かなり骨がおれます。以前は,必ずしもそうではありませんでした。時代は変わりました。
82歳の一老人が,こうした時代の変化を振り返って述べたことを,アメリカ,ニューアークのイブニング・ニューズ紙の記事から一部引用してみます。「わたしの幼いころは,いつも身辺に老人のいる生活をしたもので,近所には老人が多数いました。……道を歩いてゆくと,赤れんが造りの古びた家の前のたたきや歩道には,たいてい,ひとりかふたりの老人が腰かけていたものです。ひとり暮らしの老人はごくわずかで,たいてい,子どもや孫たちといっしょに生活し,話をしたり,本を読んだり,くつろいだりしていましたし,なかには独特の趣味を持つ人もいました。老人たちはみな,通りすぎるわたしたちに笑顔を向け,優しいことばをかけてくれました。わたしたちの家のすぐそばには,バーンズさんという大柄の老婦人がいて,おいしい手製のパンを一かま分焼くたびに,わたしたちを招いては,できたてのチリカンカーニのソースを添えて,ふるまってくれました。……織物業界から引退したシャーマン老人は……娘さんの世話を受けて暮らしていました。……
「わたしたちは,そうした年寄りたちを尊敬し,たいせつにこそすれ,ひやかしたり,かげで笑ったりはしませんでした。彼らは子どもたちのめんどうをよく見たので,子どもたちは十代を過ぎると,今度は自分たちが,親のめんどうを見るのを当然と考えました。
「今日,老人は,薄ぎたない貸し間で孤独をかこったり,だれにも顧みられることなく,公園のベンチに腰かけて,ただ時のたつのを待ったりしています。……時代が変わったことは知っているにしても,子どもたちから得られるものと期待していた愛と気づかいの片りんにすら恵まれていないのです」。
自分の子どもや,周囲の若い人びとからあまり愛されなくなる老人がふえているのは,今日の老齢の人たちの真の悲劇といわねばなりません。年老いた親たちのめんどうを喜んで見る子どもは,たいへん少なくなりました。しかし,以前の世代の子どもの多くは,今日のような見方をしませんでした。
古代の老人はもっと尊敬された
聖書に示されているとおり,古代イスラエルの子どもたちは,親を敬うことを神から命じられており,そうした命令は子どもに益するものとなりました。(出エジプト 20:12)年取った人びとの多い地域社会は,高く評価されました。老人が深い敬意をもって遇されたことは,次の命令からもわかります。「白髪の人の前には起あがるべし また老人の身を敬ひ汝の神を畏るべし 我はエホバなり」。(レビ 19:32)老人を尊敬することは,神からの命令であり,神聖な義務でした。族長ヨブが,ちまたを歩き,老人たちのそばを通ったとき,『老たる者は起あがって立った』ほどです。(ヨブ 29:8)老人を敬うのは,ふさわしい人にそうするのであれば,今日と同様,美しいことでした。
なかには,神の律法が施行されていないにもかかわらず,老人が敬われた国もありました。エジプト人の若者は,老人を見ると立ち上がって,最上の席をゆずりました。スパルタの若者も同様にふるまい,かつ,老人の前では沈黙しましたし,ギリシアでも老人は敬意をもって遇されました。
老人は,理解力と判断力を兼備した人とみなされ,豊富な知恵と記憶の持ち主と考えられました。また,年寄りは,王たちの助言者として仕えましたから,人びとは,たいてい,それら老人の知識や理解のほどに,ねんごろに応じました。昔,ヤラベアムと全イスラエルが自分たちの重荷を軽減してもらいたいと,レハベアムに要請した時のことについて,聖書はこう述べています。「レハベアム王その父ソロモンの生る間その前に立てる老人たちと計(れ)り」。ところが,レハベアムは,「老人の教へし教をすて自己とともに成長て己のまへに立つ少年らに計」ったのです。(列王上 12:4-19)その結果,イスラエルに反乱を招き,十二部族で成る王国に,いやすことのできない分裂が生じました。
世界のいろいろな地方では,高齢の人びとが今でも大いに尊敬されていますが,西欧社会の老人の影響力はおおむね,失われています。とはいえ,老人のことばに耳を傾けて学ぼうとしさえすれば,年寄りは今でも大いに力を貸すことができ,老人との交わりは,たいへん貴重なものとなりうるのです。
といっても,老齢の人はすべて,知恵や励みを与えることばを,いつも述べるものだ,という意味ではありません。老人の多くは経験も豊かに,なかには,きわめて多彩な背景の持ち主もいるでしょう。しかし,それとともに,世の問題や悩みの多くは,それら老人の活動に遠因がある,ということも忘れてはなりません。したがって,選択が必要です。神の正義の道に従ってきた老人との交わりは,たいてい,多くの益をもたらすものといえるでしょう。聖書の原則は真実です。「白髪は栄の冠弁なり 義しき途にてこれを見ん」。(箴言 16:31)神のことばによってひととなりを築いてきた老人のしらがは,うるわしい冠であり,そのような人との交わりには,喜びと益があります。
老齢の人たちに見られる有用な特質
老人は自分たちの手にあまる経済的な負担になるのではなかろうか,と不安に思う若者がかなりいます。それで,若い人びとは老人を敬遠します。しかし,年老いた親その他,老齢の親族から相続する財産や資産の総額はたいてい,その扶養に要した支出の倍,あるいは,幾倍にも達するのが実情ではありませんか。
確かに老齢には独特の病苦がつきものですが,若い人についても同じことがいえます。幼少期にかかる種々の病気のことを考えてごらんなさい。あまり多くの病苦や,後悔や恐れの念にさえ災いされなければ,老後はたしかに,平安な思いに数々の思い出を秘めた,安らかな恵まれた時期といえるでしょう。混乱した今日の世界にあって,そうした安らぎに少しでも接して喜びを感じない若者がいるでしょうか。平安な思いをいだく老人とともに,ひとときを過ごすなら,そうした喜びが味わえるのです。
老人は,ありのままの自分,つまり老人であるということだけで,貢献できるのです。老人には,子どもの好きな暖かさや愛情があります。祖父母が,それも特に不当に用いられないかぎり,子もり役をこなせるのはそのためです。すぐれた先生にもなれます。ある5歳の女の子は,祖母といっしょに,よくひとときを過ごしました。祖母はその子に,神と神の王国の祝福について,いつも話して聞かせたので,その娘は長じて,ものみの塔協会の宣教者になる決心をし,ついに,その目的を遂げました。
たいていの人は,自分の知っている老人,おそらく自分のおじいさんやおばあさんをなつかしく思い出すものです。ある青年は,すばらしいかおりのする褐色の部厚いパンを焼いてくれた祖母をなつかしくしのびながら,こう語りました。「おばあさんは,焼きたての熱いひとかたまりのパンをオーブンから取り出して,まん中をさき,部厚いバターのかたまりをその中に入れ,バターがみなとけて,パンの外に流れ出るところを厚めに切って,わけてくれたものです。わたしたちは,ひとくずも残さず食べました。家では,焼きたてのパンは食べてはならないことになっていましたが,おばあさんはいつもわたしたちに少しわけてくれました」。青年は,その祖母と,おいしいにおいの漂う台所のことを長く記憶にとどめていました。
普通,老人はせわしくしていません。それさえ益となることを見落とさないでください。若い人は,何にもまして少しでも同情と理解をもって話を聞いてくれる人を求めます。老人の多くはこの面で,時間と忍耐強さに恵まれています。年取った,あるおばあさんはこう語りました。「近所の子どもたちの多くが立ち寄っては,ちょっとの時間話してゆくのに驚かされ,また,うれしく思っています。子どもたちはせわしい遊びをやめて,やって来ては,おもしろいことを話してくれたり,打ちあけ話をしてくれたりします。子どもたちは何よりも,優しく聞いてほしいらしいので,わたしはもっぱら耳を傾けるだけです。それらの子どもたちは,自分の子どもや孫から遠く離れて暮している老人にどんな喜びをもたらすかは知るよしもありませんが,そうした子や孫のいだく愛情のようなものを感じているのでしょう」。
老人がすることで,他に影響を与えるのは,必ずしも大きなことだけではありません。たまに作る手製の一盛りのクッキーも思い出になります。くつ下のつくろいものを手伝ってもらって,感謝しない若い母親がいますか。病気になったり,疲れきったりした時,おじいさんやおばあさんの助けは,かけがえのないものではありませんか。
老人からほんのふたことかみこと話しかけられただけで,気持ちが安らぎ,良いことをしたいという励みを受ける場合があります。老齢の一婦人は幼いころを振り返って,当時,自分の知っていた多くの老人のなかでも,もの静かで優しい親切な,ある老婦人について,こう語りました。「その人の手を取って,その目を見つめ,わたしに向けられたそのほほえみを見,『あなたに神の恵みがあるように』と言われたのを,まるできのうのことのように,はっきりと覚えています。その人の名前さえ覚えています」。この婦人によれば,そのほんのちょっとの融れ合いで,「りっぱな人になりたいと励まされた」とのことです。
老人との交わりを求めなさい
現代の生活においては,老人との交わりがおおかたなおざりにされているため,確かに老人も若い人も,ともに愛と祝福を失う深刻な事態に陥っています。この面で少し努力してはいかがですか。時々立ち寄って,いっしょに話してゆくよう,老人に勧めてはいかがですか。食事に老人を招待するなら,感謝されるだけでなく,あなたも報われるでしょう。パーティーその他,親ぼくのための集まりを計画する場合,年取った人びとを名簿に含めてはいかがですか。大ぜいの人の集まりに出ると,老人はとかく引っ込みがちになりますから,老人たちと交わって,老人たちが楽しいつどいにあずかれるよう,助けてはいかがですか。老人とともになり,老人たちをあなたの生活の中に含めてください。そのようにして親切を示すなら,老人は孤独や自分をあわれむ気持ちにさいなまれずにすむでしょう。
もとより,老人を尋ねる際,覚えておくべきことが幾つかあります。まず第一に,訪問を建設的なものにするため,適当な時間とどまれるようにしてください。若い人は飛び込んでくるなり,「残念ですが,ちょっとしかおれないんですよ」と弁解する場合がよくありますが,努めてせわしくしないようにしましょう。同時に,話の中で持ち出したいと思う,興味のあるたいせつな話題を考えておくのも良いことです。言いたいことをはっきりと述べてください。また,再び尋ねるとか,近いうちにたよりをする予定の日時を知らせて,別れるようにしてください。そうすれば,年寄りはその時を心待ちできるでしょう。
それとともに,話題になるものを何か携えてゆくのも良いことです。老人を尋ねる時,家族のひとりからの手紙を持っていき,声を出して読んであげられます。本か雑誌を読んで,深い興味を感じたものがあれば,そうした興味深い点の幾つかを話してあげられるでしょう。その場合,あなたが感銘を受けた点を強調してください。こうして年老いた人びとを助けるなら,自分にとって興味のある事がらを記憶するよう,自分も助けられます。
老人はとくに室内用の鉢植えの植物や花が好きです。何かを贈りたいと考えているなら,そうした植物や花はすばらしい贈り物になります。年寄りのために何かを編んであげるなら,そうした品物はとくにたいせつに使ってもらえるでしょう。お金を贈りたいなら,何々に使っていただきたい,と提案をしるした手紙を添えて,封筒に入れて差し上げましょう。家族の写真をはるアルバムや食べ物,また,好きな料理などは老人に喜ばれます。
老人が疲れたり,気落ちしたりしないように,注意してください。年寄りには若い人のような体力はありません。また,老人のまちがいは大目に見ましょう。批判やあらさがしなどをしない,積極的な会話をしてください。みなりに注意を払う老人には,みだしなみの良さをほめ,持ち物などを大事にしている人には,その良さを述べ,おくせずに,その関心のほどをほめましょう。年寄りが話す時には,耳を傾けてください。何かを学べるでしょう。老人はさまざまな苦しみや悩みに対処する仕方を学んできたのですから,不必要な悩みや落とし穴を避ける方法を教えて,あなたを助けることもできるのです。
昔のユダヤ人には父母を敬う義務がありましたが,今日のクリスチャンにも,それに劣らぬ義務があります。使徒パウロはテモテをこうさとしました。「老人をけん責すな,反ってこれを父のごとく勧め,若き人を兄弟のごとくに,老いたる女を母のごとくに勧め(よ)」。―テモテ前 5:1,2。
老齢の人たちを訪問したり,それらの人をわたしたちの生活の中に含めたりして,関心を示すことができます。機会をとらえて老人とあいさつをかわし,それらの人が自分たちの中にいてくださる喜びを誠意をこめて表明することができます。遠く離れていて思うように何度も会えなくても,いつでも電話ができるかもしれませんし,手紙で連絡することもできます。あなたの声に接したり,あなたの近況や,行き届いた思いやりのほどをしたためた手紙を読むのは,老人にとって愛の報いということができます。それにはほとんど費用がいらないにもかかわらず,それはたいへん貴重なものなのです。
多くの場合,人の晩年は夏の日の午後のおそい時刻になぞらえることができるでしょう。日陰は長く地に伸びてはいても,陽光はまだ保たれており,おだやかなたそがれに包まれながらも,木々のこずえでは,なおも小鳥がさえずっているのです。そうした老齢の人たちと交わるとき,わたしたちはしばしば,人生のいろいろのたいせつな事がらを学べます。地球の場合と同様,老人は,宝,それも掘り出せば,自分のものにすることのできる宝をたくさん秘めている場合があるのです。若い人たちが老人との交わりを求めるのは,親切の表われといえますが,そうする人はまた,老人しか与ええない祝福に豊かに恵まれるでしょう。
老人には,子どもの好きな暖かさと愛情があるものです
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