いとなみ

春秋花壇

文字の大きさ
上 下
92 / 1,479

小雪

しおりを挟む
 茶色の山肌は、晩秋を終え、初冬の訪れを伝える。

枯葉をまとって腐葉土に変え、

自然の摂理が何一つ無駄なものはないことを

実践していく。

「はー。残念だ」

俺はこの山奥に雪を見に来たのに、

残念ながら思っていたものとは違って、

湯煙の露天風呂から見える風景は、

ため息が出るほど美しいと感じる季節の風景ではなかった。

いや、これはこれで俺の無味乾燥した人生を

潤してくれているのかもしれない。

湯船の中で、肩までつかりゆっくりと深呼吸してみる。

「小雪」

そっとつぶやいてみた。

柔らかな長い髪が色っぽさを醸し出している。

美しい白い肌が、妖艶だった。

細い長い指は、俺をよなよな夢の世界へといざなってくれた。

上目遣いに見つめるその目が子羊のようで従順だった。

愛を知らない俺が、自分にも愛が育っているって確認できた瞬間だった。

「小雪」

もう一度、そっと呼んでみる。

「はい」

えくぼのかわいいほっぺがやさしくほほえむ。

とろけそうな笑顔だったな。

君に出会うまでは、笑顔があんなにも

周りの人に安心と幸せを運ぶなんて知らなかったよ。

その長いまつげが潤う時、

心から何とかしてあげたいと思ったものさ。

「小雪」

紺の絣の着物がとてもよく似合う清楚な小柄な女だった。

白いうなじとおくれ毛がいとおしさを運んでくる。

君と出会ったことで、俺は男に生まれたことに誇りが持てた。

時折、膝枕をしてくれて耳掃除をしてくれる瞬間が

親の愛を知らない俺の心の氷河を

ゆっくりと溶かしてくれた。

君は線香花火が大好きだったね。

子供のようにはしゃいで、

いろいろ説明してくれた。

「小雪」

いつもおとなしい君が線香花火に関しては、

結構細かい指示をする。

それを聞きながら、人のこだわりの不思議を感じていたんだ。

ライターで火をつけようとすると、悲しそうに

「無粋な人」

と、つぶやく。

いつになく、はっきりと拒否されたことに驚きを感じた。

ろうそくで火をつけるんだね。

知らなかったよ。

火が付いた線香花火を下に向けると、

「もったいない」

と、少し口をとがらせて俺をにらむ。

その素振りがだだっこみたいですごくかわいかったよ。

着火の際はワラスボの端を持って風下に向ける。

「指の先を少しなめて風を感じるの」

と教えてくれたね。

花火の先端を斜め上に傾けて、

身体からできるだけ離して花火の先端にローソクで火をつける。

まるで小笠原流。

チリチリ、パッパッ、ポトン。

珍しく、両手を広げて花火の真似をする。

笑ったことがあまりない俺がそれを見て、

ツボにはまっておなかの皮がよじれるかと思うくらい

笑いこけてしまった。

楽しかったなー。

最高の愛が、俺の魂を呼び起こす。

心の灯に火をともし、心穏やかで

安らぎをもたらしてくれる。

小雪、君の喜ぶことを続けていきたいと

心から思えたんだ。

俺の必要を何も言わなくても察してくれる。

満たしてくれる。

溢れるほどに注ぎ入れてくれる。

だから、俺もお返しがしたくなる。

こんこんと湧き上がる泉のように

決して途絶えることのない生命の源。

君が切ってくれたスイカが、

シャリシャリと音を立てて、

俺の口の中に広がるとき、

心からこの子と結婚したいと思った。

「わたしたち、ずっと一緒よね」

って、指切りしたよな。

君の白魚のような細い指と桜貝のような爪が壊れてしまいそうで

ずっと君のナイトでいたいと思ったんだ。

生まれも育ちもお粗末だけど、

神はそんな俺に同情したのか、

宝くじが当たったんだ。

そのお金で十分二人は幸せに暮らせるはずだった。

こうして、二人でいろんな所に旅をして、

ながら族ではなく、お互いをちゃんと見つめ合い、

愛し合えるはずだった。

なー、そうだよな。

ずっとこの小さな幸せが続くものだと思っていたよ。

ハッピーエンドのおとぎ話のように

めでたしめでたしってなると信じていたんだ。

新型感染症の中でも、

俺たちは楽しみを見つける天才じゃないかと思っていた。

手作りのマスクをお前が作ってくれて、

どこにも売っていないトイレットペーパーを探し回って、

百合子ちゃんが3蜜避けてと発表した時には、

スーパーの食品棚からパンさえなくなっていった。

お前は静かに微笑みながら、

「大丈夫、食べるものはあります」

食品のストック棚から、乾物の干しシイタケや

切り干し大根を出してくれて、

「おばあちゃんの知恵袋」

と、楽しそうに料理してくれた。

うまかったなー。

何かを作っては、

「味見お願い」

と、持ってきてくれるエプロン姿の君がかわいかった。

二人で何か一つ、習い事をしようってことになって、

話し合って茶道にしたんだ。

茶は服のよきように点て

炭は湯の沸くように置き

花は野にあるように

夏は涼しく冬暖かに

刻限は早めに

降らずとも傘の用意

相客に心せよ

7つの心のおもてなしをゆっくりと学んでいけたらと思ったんだ。

静寂の中を流れる緩やかな大河のように

脈々と流れる俺たちのセレナーデ。

二人で奏でられるのが幸せだった。

経糸と横糸を織りなして紡いでいけることが嬉しかった。

どんどん君を好きになっていった。

日を追うごとに愛しさが増していった。

爪を切ってくれたり、鑢をかけてくれたり、

君の心遣いがとてもうれしかった。

天涯孤独の俺が家族の温かさを知ることができたのも君のおかげ。

一日一日、日を追うごとにこのまま一緒にいたいと思う心は増していった。

普通のことが不通に行えるってことが

とっても幸せなことだったんだと再確認したよな。

たとえば、ちょっと一緒に焼き餃子を食べに行くとか

今日は、焼き肉ランチにしようかとか

そんなことも憚れる世の中が来るなんて

思ってもみなかったもんな。

あれはきっと、悪魔の挑戦だって、

君は裁判官のように、サタンに極刑を申し付けていたよな。

贅沢でもっともっとと欲の皮をつっぱらせている俺たちへの

お仕置きだったのかな。

「小雪、結婚しよう」

婚姻届けをもらってきた日に、

君は帰ってこなかった。

そして、戻ってきたときには悲しいほどに傷だらけの遺体だった。

ほら、天が泣いているように雪が降ってきた。

見る見るうちに、茶色の山肌は雪を生まれて

真っ白に変わっていく。

深呼吸したくなるくらいの凛とした張り詰めた空気。

のぼせるんじゃないかと思うくらいの時間

湯船につかっているのに、湯あたりしないんだよな。

「小雪」

この景色を君と見たかったな。

露天風呂の中で飲む、雪見酒は、

悲しみを流してくれる涙の味がする。

ここ福島の銘酒。

写楽(寫樂) フレッシュなのにしっかりした骨格がある。

さすがという味と風味。

君がそばでピンクにほほを染めて、

寄り添ってくれているって感じたよ。

いつまでも、二人は一つだよな。

ありがとう。

小雪……。

露天風呂のそばに植えられている

赤い南天の実が綿帽子をかぶっている。

地味な色合いに冬景色が色どりと風情を添える。

幻臭かな。

ふと、君の使っている

ランバン エクラドゥアルページュ EDPの香りがする。

爽やかなグリーンライラックのトップノート、

ピーチブロッサムなどの透明感のある柔らかいミドルノート、

ホワイトシダーなどのラストノート。

俺の好きな香りをかすかにまとってくれてうれしかったよ。

雪は深々と降り積もっていく。

愛する人を殺された憎しみを覆いつくそうように。

できることなら、君の柔肌にもう一度うずもれていたい……。


小雪(しょうせつ)は、二十四節気の第20。十月中(通常旧暦10月内)。

現在広まっている定気法では太陽黄経が240度のとき(黄道十二宮では人馬宮の原点に相当)で11月22日ごろ。暦ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とする。平気法では冬至から11/12年(約334.81日)後で11月21日ごろ。期間としての意味もあり、この日から、次の節気の大雪前日までである。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

淫らな蜜に狂わされ

歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。 全体的に性的表現・性行為あり。 他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。 全3話完結済みです。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

今日の授業は保健体育

にのみや朱乃
恋愛
(性的描写あり) 僕は家庭教師として、高校三年生のユキの家に行った。 その日はちょうどユキ以外には誰もいなかった。 ユキは勉強したくない、科目を変えようと言う。ユキが提案した科目とは。

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

ハイスペック上司からのドSな溺愛

鳴宮鶉子
恋愛
ハイスペック上司からのドSな溺愛

一夏の性体験

風のように
恋愛
性に興味を持ち始めた頃に訪れた憧れの年上の女性との一夜の経験

職場のパートのおばさん

Rollman
恋愛
職場のパートのおばさんと…

大嫌いな歯科医は変態ドS眼鏡!

霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
……歯が痛い。 でも、歯医者は嫌いで痛み止めを飲んで我慢してた。 けれど虫歯は歯医者に行かなきゃ治らない。 同僚の勧めで痛みの少ない治療をすると評判の歯科医に行ったけれど……。 そこにいたのは変態ドS眼鏡の歯科医だった!?

処理中です...