都市伝説 短編集

不思議な居酒屋

不思議な居酒屋

東京の裏路地にひっそりと佇む居酒屋「風見鶏」。看板もなければ、華やかな外観もない。いつの間にかそこに存在していたような、謎めいた佇まいが人々を惹きつけていた。だが、この居酒屋にはある不思議な噂があった。それは、訪れると美味しいご飯が食べられるだけでなく、毎日一万円のお小遣いがもらえるというものだった。

ある晩、仕事帰りの青年タクヤはその噂を思い出し、ふと足を止めた。疲れた体を引きずりながら、「風見鶏」の暖簾をくぐった。店内はどこか懐かしい雰囲気が漂い、まるで昭和の時代にタイムスリップしたかのようだった。木製のカウンターに並ぶ古い酒瓶や、壁にかけられた色褪せたポスターがそれを一層引き立てていた。

「いらっしゃい。お疲れでしょう？まずはお茶でもどうぞ。」

カウンターの奥から、白髪の女主人が柔らかな声でタクヤを迎えた。彼女は年配の女性で、優しい笑顔を浮かべていた。その微笑みは、どこか寂しげな印象もあったが、温かさに満ちていた。

「今日は何を食べたい気分？」

タクヤは少し戸惑いながらも、「何でもいいです、美味しいものをお願いします」と答えた。女主人はにっこりと頷き、手際よく料理を始めた。彼女の動きには無駄がなく、長年の経験が染みついていることが伺えた。

しばらくして、タクヤの前に運ばれたのは、炊きたての白ご飯と鮭の塩焼き、そして香の物が並んだ素朴な定食だった。香りだけでお腹が鳴りそうなほどで、タクヤは一口食べると、その味に思わず目を見開いた。鮭の皮はパリッと焼かれ、身はふっくらとジューシー。ご飯は驚くほど甘く、どれも心に沁みるような味だった。

「どうだい？美味しいかい？」

「すごく美味しいです。なんだか懐かしい味がしますね。」

タクヤの言葉に、女主人は微笑みながら一万円札をそっとカウンターに置いた。

「これも受け取って。ここに来てくれたお礼さ。」

「えっ、本当に貰っていいんですか？」

タクヤは驚いて女主人の顔を見たが、その表情には疑う余地がなかった。結局、彼はお金を受け取り、感謝の言葉を伝えて店を後にした。その夜、彼は不思議な気持ちのまま眠りについた。

翌日もタクヤは「風見鶏」に足を運んだ。仕事で疲れ切った彼にとって、この居酒屋はまるで隠れ家のようだった。毎晩訪れるたびに、女主人は美味しい料理を振る舞い、必ず一万円札を渡してくれた。そのお金でタクヤは生活費を補い、日々のストレスを少しずつ和らげていった。

しかし、ある日タクヤはふと疑問に思った。なぜ女主人はこんなにも大盤振る舞いをするのだろうか？その理由が気になり、タクヤは思い切って尋ねることにした。

「どうしてこんなに良くしてくれるんですか？こんなに美味しい料理を出して、毎日お金までくれるなんて…。」

女主人はしばらく黙っていたが、やがて重い口を開いた。

「実はね、私はもう長い間一人でここをやってきたの。この店には昔、家族や友人がよく集まって賑やかだったのよ。でもみんな、いつの間にかいなくなってしまった。それからというもの、この店には誰も来なくなってね。」

女主人は一瞬目を伏せ、続けた。

「私は一人が寂しくて、どうにかして誰かに来てもらえたらと願っていたの。それで、こうしてお客さんに喜んでもらうことが私の唯一の楽しみになったの。だから、あなたが来てくれるだけで私は幸せなのよ。」

タクヤはその言葉に心を打たれた。女主人の寂しさが、彼の胸に響いたのだ。彼女はただ一人で過ごす孤独を埋めるために、こうして店を開け続けていたのだと知った。タクヤは改めて礼を言い、また来ることを約束した。

その後もタクヤは「風見鶏」に通い続け、女主人との時間を大切に過ごした。料理を楽しみながら、彼女の話を聞くのが日課となった。女主人もタクヤが来るのを楽しみにしているようで、いつも新しい料理を用意して待っていた。

しかし、ある日を境に「風見鶏」は姿を消した。いつもの場所に行っても、店はなくなっていたのだ。驚いたタクヤは辺りを探し回ったが、あの居酒屋はまるで幻のように消え去っていた。ただ、手元に残された一万円札がその存在を証明しているかのようだった。

それからというもの、タクヤは「風見鶏」を探し続けたが、二度と見つけることはなかった。けれど、あの温かな料理の味と女主人の優しい笑顔は、タクヤの心にいつまでも残り続けた。

都市伝説のように語り継がれる「風見鶏」。そこには、一人の寂しい女主人と、彼女が振る舞う不思議な日々の記憶があった。そして、その場所は今も誰かの心の中で、生き続けているのかもしれない。