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止まらない手のひら
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「止まらない手のひら」
部屋の隅に置かれた机の上には、何枚もの原稿用紙が広がっている。私はその上に突っ伏すように座り、握ったペンの先で紙を軽くつついていた。言葉は浮かぶのに、どうしても紙に書き出すことができない。
「もっと丁寧にやらなきゃ……」
呟くたび、肩に力が入る。その力がペン先を重たくしているような気がしてならなかった。
母が教えてくれた「丁寧」という言葉。それは、私の価値観の根っこにしっかりと埋まっている。小学生の頃、夏の日の掃除の時間が思い出される。
「ここ、見てごらん」
母が指差す床の隅には、薄い埃の筋が残っていた。私は嫌々ながらホウキを手にして掃除したのに、その一言でまた振り出しに戻されたのだ。
「雑にやると、結果がすぐ分かるのよ。やるなら最初から丁寧にやりなさい」
母の声は決して厳しいものではなかった。ただ、その顔には微かに疲れたような影が落ちていた。
その日から、「丁寧にやる」ということが、どこか私の中で「欠けてはいけないもの」になったのだと思う。
それから数年が経ち、私は書くことに夢中になった。文字を綴るたびに自分の世界が広がっていくようで、夢中になれたのだ。だが、いつからかその楽しさに陰りが見えるようになった。
「これじゃダメだ」
書きかけの原稿を破り捨てる回数が増えていった。「もっと丁寧に」「もっと上手く」という思いが膨らむほど、私の言葉は不自由になっていく。
そんな時、救いをくれるのは大学時代からの友人、沙織だった。彼女は明るくて自由な性格で、私にとって大切な存在だ。
「ねえ、これ読んでくれる?」
ある日の夜、勇気を出して彼女に原稿を見せた。沙織は表情を変えずに最後まで読み終え、紙を机に置いた。
「これさ、すごく頑張ってるのが伝わる。でも……ちょっと窮屈だね」
「窮屈?」
「うん。あなたの文章って、もっと自然体で楽しいものだったよ。昔のが好きだったなぁ」
彼女の言葉は率直で、少しだけ胸が痛んだ。それでも、なぜかどこか納得している自分がいた。
沙織の言葉が頭に残り続け、私は散らかった原稿を読み返した。そこには確かに、「上手く見せよう」とする私の焦りが刻み込まれていた。
ある日、私は机に向かって思い切り息を吐き出した。そして、今の気持ちをそのまま書いてみようと思った。
「雑でもいい。丁寧じゃなくてもいい。でも、これが私の心から出てきた言葉なら、それが本当なんだ」
そう自分に言い聞かせると、ペン先が軽くなった。気づけば、机に置かれた原稿用紙が一枚また一枚と埋まっていった。
原稿を書き終えたその日の夕方、沙織に会いに行った。薄曇りの空の下、彼女の家の庭で話をする。彼女は出来上がった原稿を受け取り、じっくりと目を通してくれた。
読み終えると、沙織はぱっと顔を上げた。
「これだよ! これがあんたの文章!」
彼女のその言葉は、胸の奥まで温かく広がっていった。
それからの日々は、言葉に向き合う毎日だった。以前よりも肩の力を抜いて書けるようになったが、それでも母の言葉が時折頭をよぎる。
「丁寧にやるって、どういうことなんだろう?」
そう自問しながら、私は書き続けた。やがて原稿が一本、また一本と完成していった。
ある日の朝、母の命日が近いことに気づいた。机の上に並んだ原稿を眺めながら、ふと母が台所に立つ姿を思い出した。夏の昼下がり、冷やし中華を作っていたあの日。麺の水切りを手伝った私に、母がこう言った。
「丁寧にやるっていうのは、心を込めることなんだよ」
その言葉が、今になってようやく深く響く。
母の教えは「完璧であること」を求めるものではなかった。自分が関わることにどれだけの思いを込められるか、それが大切だったのだと気づいた。
完成した原稿を前に、私は静かにペンを置いた。窓の外には、季節の変わり目を告げる風が吹いている。
「これでいいんだ」
そう呟くと、不思議と心が軽くなった。遠くで揺れる木々の音が、私の背中を押しているようだった。
数ヶ月後、私は沙織に本を手渡した。装丁された自分の文章を指でなぞりながら、彼女はにやりと笑う。
「よかったじゃん、やっと自分の言葉が見つかったね」
「うん……やっとね」
私も微笑み返し、そっと窓の外を見た。
今の私は、母の背中を少しだけ追い越したかもしれない。けれど、振り返ればいつでもそこに、彼女が教えてくれた「丁寧さ」が光っている。
部屋の隅に置かれた机の上には、何枚もの原稿用紙が広がっている。私はその上に突っ伏すように座り、握ったペンの先で紙を軽くつついていた。言葉は浮かぶのに、どうしても紙に書き出すことができない。
「もっと丁寧にやらなきゃ……」
呟くたび、肩に力が入る。その力がペン先を重たくしているような気がしてならなかった。
母が教えてくれた「丁寧」という言葉。それは、私の価値観の根っこにしっかりと埋まっている。小学生の頃、夏の日の掃除の時間が思い出される。
「ここ、見てごらん」
母が指差す床の隅には、薄い埃の筋が残っていた。私は嫌々ながらホウキを手にして掃除したのに、その一言でまた振り出しに戻されたのだ。
「雑にやると、結果がすぐ分かるのよ。やるなら最初から丁寧にやりなさい」
母の声は決して厳しいものではなかった。ただ、その顔には微かに疲れたような影が落ちていた。
その日から、「丁寧にやる」ということが、どこか私の中で「欠けてはいけないもの」になったのだと思う。
それから数年が経ち、私は書くことに夢中になった。文字を綴るたびに自分の世界が広がっていくようで、夢中になれたのだ。だが、いつからかその楽しさに陰りが見えるようになった。
「これじゃダメだ」
書きかけの原稿を破り捨てる回数が増えていった。「もっと丁寧に」「もっと上手く」という思いが膨らむほど、私の言葉は不自由になっていく。
そんな時、救いをくれるのは大学時代からの友人、沙織だった。彼女は明るくて自由な性格で、私にとって大切な存在だ。
「ねえ、これ読んでくれる?」
ある日の夜、勇気を出して彼女に原稿を見せた。沙織は表情を変えずに最後まで読み終え、紙を机に置いた。
「これさ、すごく頑張ってるのが伝わる。でも……ちょっと窮屈だね」
「窮屈?」
「うん。あなたの文章って、もっと自然体で楽しいものだったよ。昔のが好きだったなぁ」
彼女の言葉は率直で、少しだけ胸が痛んだ。それでも、なぜかどこか納得している自分がいた。
沙織の言葉が頭に残り続け、私は散らかった原稿を読み返した。そこには確かに、「上手く見せよう」とする私の焦りが刻み込まれていた。
ある日、私は机に向かって思い切り息を吐き出した。そして、今の気持ちをそのまま書いてみようと思った。
「雑でもいい。丁寧じゃなくてもいい。でも、これが私の心から出てきた言葉なら、それが本当なんだ」
そう自分に言い聞かせると、ペン先が軽くなった。気づけば、机に置かれた原稿用紙が一枚また一枚と埋まっていった。
原稿を書き終えたその日の夕方、沙織に会いに行った。薄曇りの空の下、彼女の家の庭で話をする。彼女は出来上がった原稿を受け取り、じっくりと目を通してくれた。
読み終えると、沙織はぱっと顔を上げた。
「これだよ! これがあんたの文章!」
彼女のその言葉は、胸の奥まで温かく広がっていった。
それからの日々は、言葉に向き合う毎日だった。以前よりも肩の力を抜いて書けるようになったが、それでも母の言葉が時折頭をよぎる。
「丁寧にやるって、どういうことなんだろう?」
そう自問しながら、私は書き続けた。やがて原稿が一本、また一本と完成していった。
ある日の朝、母の命日が近いことに気づいた。机の上に並んだ原稿を眺めながら、ふと母が台所に立つ姿を思い出した。夏の昼下がり、冷やし中華を作っていたあの日。麺の水切りを手伝った私に、母がこう言った。
「丁寧にやるっていうのは、心を込めることなんだよ」
その言葉が、今になってようやく深く響く。
母の教えは「完璧であること」を求めるものではなかった。自分が関わることにどれだけの思いを込められるか、それが大切だったのだと気づいた。
完成した原稿を前に、私は静かにペンを置いた。窓の外には、季節の変わり目を告げる風が吹いている。
「これでいいんだ」
そう呟くと、不思議と心が軽くなった。遠くで揺れる木々の音が、私の背中を押しているようだった。
数ヶ月後、私は沙織に本を手渡した。装丁された自分の文章を指でなぞりながら、彼女はにやりと笑う。
「よかったじゃん、やっと自分の言葉が見つかったね」
「うん……やっとね」
私も微笑み返し、そっと窓の外を見た。
今の私は、母の背中を少しだけ追い越したかもしれない。けれど、振り返ればいつでもそこに、彼女が教えてくれた「丁寧さ」が光っている。
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