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春秋花壇

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物忘れの先に

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「物忘れの先に」

「先生、最近、物忘れがひどくて…」

私が診察室の椅子に座りながら、ついに口にした言葉だった。言った瞬間、何とも言えない空虚な気持ちが胸に広がる。まるで、これを言ったことで、何かが崩れ落ちるような気がしてならなかった。

「いつ頃からですか?」
医師が静かに尋ねる。その顔に浮かぶ穏やかな表情が、少しだけ心を軽くしてくれる気がした。

「何がですか?」
私の返答は、自分でも驚くほど無理やりに聞こえた。何が、という問いに答えられない自分が、どこか他人事のように感じてしまう。気づいている。私が何かを忘れてしまったこと、そのことが確かに現実だということを。

医師は少しだけ間を置き、もう一度穏やかな声で続けた。
「物忘れがひどいと感じているのは、何か特定のことですか?」

その問いに答える言葉が見つからない。特定のこと、か。ああ、そうだ。忘れることが多いのは、もう、何もかもだ。でも、その中でも特に思い出せないのは、自分が何を考えていたのかということだ。毎日が、少しずつ霧に包まれていくような感覚。まるで自分という存在が薄れていくような。

「ええと…」私は言葉を絞り出すようにして続けた。
「買い物リストを忘れて、戻ってきてもまた思い出せなくて。家に帰っても、何をしようとしていたのか、思い出せないことが増えました。」

その答えに、医師はしばらく黙って頷いてから、手元のメモ帳に何かを書き始めた。静かな診察室の中で、その音だけが響いているように感じた。

「他には、何か変わったことはありませんか?」

私は少し悩んだ後、思い切って言った。
「…家族の顔を見ていると、だんだんと名前が出てこないことが増えました。」

その言葉を言った瞬間、胸に痛みが走る。それが本当だと認めることが、どうしてこんなにも苦しいのだろう。家族の顔、毎日見ているはずの顔。それなのに、名前を思い出せない瞬間があるという事実が、私の中で恐ろしいほどに深刻に響く。

医師はメモを取る手を止め、私の顔をじっと見つめた。
「それは、日常生活に支障をきたしているということですね。記憶障害が進行している可能性があります。少し詳しく検査をしてみましょう。」

その言葉が耳に入った瞬間、私は心の中で何かが崩れていく音を聞いたような気がした。記憶障害。それが私にとって現実であり、これからどんどん自分が消えていくのだという恐怖。何もかも忘れ去って、ただ静かに存在だけが残る。そんな未来が見えてきて、足元が崩れ落ちるように感じる。

「検査、ですか…」私は静かに答えた。

医師は再びメモを取りながら言った。
「今、あなたが感じている物忘れは、加齢やストレスなどが影響している可能性もありますが、しっかりとした検査を受けることで、原因を突き止め、適切な対策を取ることができます。」

「はい。」私は小さく頷いた。少しだけ安心したような気がした。それでも、心の中で自分の姿がどんどんと薄れていく感覚は消えなかった。

診察が終わり、私は診察室を後にした。外の空気を吸いながら、何度も深呼吸を繰り返した。だんだんと、周りの景色がぼんやりとしか見えなくなっているように感じた。

あの言葉が、私を少しずつ蝕んでいる。「記憶障害」と言われたことで、私は一歩踏み出せない気がした。

しかし、私にできることは、目の前にある現実にしっかりと向き合うこと。検査を受けて、状況を確認し、どんな結果でも受け入れる覚悟を決めなければならない。それが今、私にできる唯一のことなのだ。

家に帰る途中、ふと立ち止まり、空を見上げた。曇り空の下、薄い光が差し込んでいる。何か温かいものが、私の胸の奥に広がるのを感じた。それが、わずかでも希望の光であればいいと、そう思いながら歩き始めた。

明日からまた、少しずつでも自分を取り戻せるように。







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