61 / 115
物忘れの先に
しおりを挟む
「物忘れの先に」
「先生、最近、物忘れがひどくて…」
私が診察室の椅子に座りながら、ついに口にした言葉だった。言った瞬間、何とも言えない空虚な気持ちが胸に広がる。まるで、これを言ったことで、何かが崩れ落ちるような気がしてならなかった。
「いつ頃からですか?」
医師が静かに尋ねる。その顔に浮かぶ穏やかな表情が、少しだけ心を軽くしてくれる気がした。
「何がですか?」
私の返答は、自分でも驚くほど無理やりに聞こえた。何が、という問いに答えられない自分が、どこか他人事のように感じてしまう。気づいている。私が何かを忘れてしまったこと、そのことが確かに現実だということを。
医師は少しだけ間を置き、もう一度穏やかな声で続けた。
「物忘れがひどいと感じているのは、何か特定のことですか?」
その問いに答える言葉が見つからない。特定のこと、か。ああ、そうだ。忘れることが多いのは、もう、何もかもだ。でも、その中でも特に思い出せないのは、自分が何を考えていたのかということだ。毎日が、少しずつ霧に包まれていくような感覚。まるで自分という存在が薄れていくような。
「ええと…」私は言葉を絞り出すようにして続けた。
「買い物リストを忘れて、戻ってきてもまた思い出せなくて。家に帰っても、何をしようとしていたのか、思い出せないことが増えました。」
その答えに、医師はしばらく黙って頷いてから、手元のメモ帳に何かを書き始めた。静かな診察室の中で、その音だけが響いているように感じた。
「他には、何か変わったことはありませんか?」
私は少し悩んだ後、思い切って言った。
「…家族の顔を見ていると、だんだんと名前が出てこないことが増えました。」
その言葉を言った瞬間、胸に痛みが走る。それが本当だと認めることが、どうしてこんなにも苦しいのだろう。家族の顔、毎日見ているはずの顔。それなのに、名前を思い出せない瞬間があるという事実が、私の中で恐ろしいほどに深刻に響く。
医師はメモを取る手を止め、私の顔をじっと見つめた。
「それは、日常生活に支障をきたしているということですね。記憶障害が進行している可能性があります。少し詳しく検査をしてみましょう。」
その言葉が耳に入った瞬間、私は心の中で何かが崩れていく音を聞いたような気がした。記憶障害。それが私にとって現実であり、これからどんどん自分が消えていくのだという恐怖。何もかも忘れ去って、ただ静かに存在だけが残る。そんな未来が見えてきて、足元が崩れ落ちるように感じる。
「検査、ですか…」私は静かに答えた。
医師は再びメモを取りながら言った。
「今、あなたが感じている物忘れは、加齢やストレスなどが影響している可能性もありますが、しっかりとした検査を受けることで、原因を突き止め、適切な対策を取ることができます。」
「はい。」私は小さく頷いた。少しだけ安心したような気がした。それでも、心の中で自分の姿がどんどんと薄れていく感覚は消えなかった。
診察が終わり、私は診察室を後にした。外の空気を吸いながら、何度も深呼吸を繰り返した。だんだんと、周りの景色がぼんやりとしか見えなくなっているように感じた。
あの言葉が、私を少しずつ蝕んでいる。「記憶障害」と言われたことで、私は一歩踏み出せない気がした。
しかし、私にできることは、目の前にある現実にしっかりと向き合うこと。検査を受けて、状況を確認し、どんな結果でも受け入れる覚悟を決めなければならない。それが今、私にできる唯一のことなのだ。
家に帰る途中、ふと立ち止まり、空を見上げた。曇り空の下、薄い光が差し込んでいる。何か温かいものが、私の胸の奥に広がるのを感じた。それが、わずかでも希望の光であればいいと、そう思いながら歩き始めた。
明日からまた、少しずつでも自分を取り戻せるように。
「先生、最近、物忘れがひどくて…」
私が診察室の椅子に座りながら、ついに口にした言葉だった。言った瞬間、何とも言えない空虚な気持ちが胸に広がる。まるで、これを言ったことで、何かが崩れ落ちるような気がしてならなかった。
「いつ頃からですか?」
医師が静かに尋ねる。その顔に浮かぶ穏やかな表情が、少しだけ心を軽くしてくれる気がした。
「何がですか?」
私の返答は、自分でも驚くほど無理やりに聞こえた。何が、という問いに答えられない自分が、どこか他人事のように感じてしまう。気づいている。私が何かを忘れてしまったこと、そのことが確かに現実だということを。
医師は少しだけ間を置き、もう一度穏やかな声で続けた。
「物忘れがひどいと感じているのは、何か特定のことですか?」
その問いに答える言葉が見つからない。特定のこと、か。ああ、そうだ。忘れることが多いのは、もう、何もかもだ。でも、その中でも特に思い出せないのは、自分が何を考えていたのかということだ。毎日が、少しずつ霧に包まれていくような感覚。まるで自分という存在が薄れていくような。
「ええと…」私は言葉を絞り出すようにして続けた。
「買い物リストを忘れて、戻ってきてもまた思い出せなくて。家に帰っても、何をしようとしていたのか、思い出せないことが増えました。」
その答えに、医師はしばらく黙って頷いてから、手元のメモ帳に何かを書き始めた。静かな診察室の中で、その音だけが響いているように感じた。
「他には、何か変わったことはありませんか?」
私は少し悩んだ後、思い切って言った。
「…家族の顔を見ていると、だんだんと名前が出てこないことが増えました。」
その言葉を言った瞬間、胸に痛みが走る。それが本当だと認めることが、どうしてこんなにも苦しいのだろう。家族の顔、毎日見ているはずの顔。それなのに、名前を思い出せない瞬間があるという事実が、私の中で恐ろしいほどに深刻に響く。
医師はメモを取る手を止め、私の顔をじっと見つめた。
「それは、日常生活に支障をきたしているということですね。記憶障害が進行している可能性があります。少し詳しく検査をしてみましょう。」
その言葉が耳に入った瞬間、私は心の中で何かが崩れていく音を聞いたような気がした。記憶障害。それが私にとって現実であり、これからどんどん自分が消えていくのだという恐怖。何もかも忘れ去って、ただ静かに存在だけが残る。そんな未来が見えてきて、足元が崩れ落ちるように感じる。
「検査、ですか…」私は静かに答えた。
医師は再びメモを取りながら言った。
「今、あなたが感じている物忘れは、加齢やストレスなどが影響している可能性もありますが、しっかりとした検査を受けることで、原因を突き止め、適切な対策を取ることができます。」
「はい。」私は小さく頷いた。少しだけ安心したような気がした。それでも、心の中で自分の姿がどんどんと薄れていく感覚は消えなかった。
診察が終わり、私は診察室を後にした。外の空気を吸いながら、何度も深呼吸を繰り返した。だんだんと、周りの景色がぼんやりとしか見えなくなっているように感じた。
あの言葉が、私を少しずつ蝕んでいる。「記憶障害」と言われたことで、私は一歩踏み出せない気がした。
しかし、私にできることは、目の前にある現実にしっかりと向き合うこと。検査を受けて、状況を確認し、どんな結果でも受け入れる覚悟を決めなければならない。それが今、私にできる唯一のことなのだ。
家に帰る途中、ふと立ち止まり、空を見上げた。曇り空の下、薄い光が差し込んでいる。何か温かいものが、私の胸の奥に広がるのを感じた。それが、わずかでも希望の光であればいいと、そう思いながら歩き始めた。
明日からまた、少しずつでも自分を取り戻せるように。
0
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
本を返すため婚約者の部屋へ向かったところ、女性を連れ込んでよく分からないことをしているところを目撃してしまいました。
四季
恋愛
本を返すため婚約者の部屋へ向かったところ、女性を連れ込んでよく分からないことをしているところを目撃してしまいました。
体育座りでスカートを汚してしまったあの日々
yoshieeesan
現代文学
学生時代にやたらとさせられた体育座りですが、女性からすると服が汚れた嫌な思い出が多いです。そういった短編小説を書いていきます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる