抱いて

自分だけのために

「自分だけのために」

冷蔵庫を開けると、ひんやりした空気が顔に触れた。中には中途半端に残った野菜や、少し前に買った鶏肉、卵が並んでいる。目に映るその景色が、今の自分の心の状態を映し出しているようで、なんだか笑えてしまった。

「どうしてこんなに空っぽなんだろう」

そう呟きながら、私は冷蔵庫の扉をそっと閉じた。最近は、自分のために料理をする気力さえ湧かない日々が続いていた。仕事に追われ、人間関係に疲れ、帰ってきても部屋は散らかったまま。疲れ果ててインスタント食品を口に入れるのが精一杯だった。

けれど、今日は少し違った。朝から何度も考えた。「このままじゃ駄目だ」と。誰かのためではなく、自分のために立ち上がらなければ。

時計を見ると午後6時を回っている。冷蔵庫を再び開け、取り出した野菜をカウンターに並べた。ピーマン、にんじん、玉ねぎ、キャベツ。それに鶏肉を加えた。久しぶりに包丁を握る感覚が、少し新鮮だった。

「何作ろうか」

自然と声に出してみる。答える人はいないけれど、そうすることで少し気が楽になる。野菜を洗い、皮をむき、包丁で丁寧に切る音が部屋に響く。この音がなんだか心地よい。今、この瞬間だけは、何かに集中できている気がした。

切った野菜をフライパンに放り込み、油をひいて火をつける。じゅうじゅうと炒める音と、立ち上る香ばしい匂いが、心の中の空虚を少しだけ満たしてくれるようだった。自分で食べるためだけに、こんな風に料理をするのは久しぶりだ。

「そうだ、卵を入れよう」

冷蔵庫から卵を取り出し、軽く溶きほぐす。フライパンに流し込み、全体に広げた。色とりどりの野菜に黄色が加わると、見た目がぐっと鮮やかになる。それを見て、ふと笑みがこぼれた。

できあがった料理を皿に盛りつけ、テーブルに運ぶ。いつもはテレビをつけて無意識に食べていたけれど、今日は違う。テレビの電源を切り、静かな部屋の中で一人、料理をじっくりと味わう。

一口目を食べると、じんわりとした温かさが口の中に広がる。野菜の甘みと卵のふんわりした食感が心地よい。自分で作った料理がこんなにおいしいなんて、いつぶりだろうか。涙が溢れそうになるのをぐっと堪える。

「これでいいんだ」

そう自分に言い聞かせる。誰かのために頑張る必要なんてない。自分のために生きる。それで十分だと。

食事を終えると、食器を洗い、キッチンを片付けた。散らかっていた部屋も少しずつ整える。掃除機をかけ、棚の上を拭き、床の汚れを取る。それは、料理を作る前の自分からは想像できないほどの行動力だった。

部屋がきれいになると、心の中まで少しすっきりした気がした。私は窓を開け、外の夜風を感じる。涼しい風が頬を撫で、遠くから車の音が聞こえてくる。この瞬間、自分が生きていることを実感した。

その夜、私は久しぶりに穏やかな眠りについた。夢の中では、今日作った料理をまた作っていた。次は少し味付けを変えてみようかな、と考える自分がそこにいた。

目が覚めると、新しい朝が訪れていた。窓から差し込む光が部屋を照らし、昨日より少しだけ明るく見えた。

「今日も自分のために、何かしよう」

そう思いながら、私はキッチンに立つ。そして、また野菜を切り始めた。こんな小さなことでも、自分のためにできることがある。それを繰り返していけば、いつかこの空虚も埋められる気がした。

少しずつ、私は前に進む。誰かのためではなく、自分のために。それが今の私にとって、一番大切なことだと思った。