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春秋花壇

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あくたれ

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あくたれ

真夏の午後、東京の古びた商店街の一角にある「斉藤青果店」では、年老いた店主の斉藤源蔵が、黙々と野菜を並べていた。源蔵はもう七十を超えていたが、毎朝店を開け、昼過ぎには店を閉めていた。体力が衰えてきたせいもあるが、それ以上に理由があった。

源蔵の息子、斉藤誠一は「問題児」と呼ばれる男だった。彼は幼い頃から悪戯好きで、何かしらのトラブルに巻き込まれていた。誠一の母親は息子の行いに心を痛め、早くに病気で亡くなった。父と息子の間には長い沈黙が流れ、会話らしい会話をしたこともない。

「じいさん、まだこんなとこで商売してんのか?」

その日、源蔵の店の前に誠一が現れた。真夏の太陽の下で、額に汗をかきながら、荒れた顔つきでタバコをくわえていた。

「帰ってきたのか」

源蔵は息子を見上げることもせず、キャベツを並べる手を止めることなく返事をした。誠一はふんっと鼻を鳴らし、店の前に腰を下ろした。

「刑務所から出て、行くとこもねえからな。とりあえず帰ってきた」

誠一は5年前に詐欺の罪で刑務所に入っていた。彼は若い頃から仕事が続かず、ギャンブルや借金に溺れた生活を送っていた。源蔵は、誠一がどんなに堕ちても、自分の子供だからと見捨てることはしなかったが、かといって心の底から受け入れることもできなかった。

「お前のせいで、母さんは早くに死んだ。お前がまともに生きてくれたら、俺もこんなに苦労せんですんだ」

源蔵の言葉に、誠一は黙り込んだ。彼には返す言葉がなかった。それでも、誠一の心の中には複雑な思いが渦巻いていた。彼は何度も家を出ては、何度も戻ってきた。逃げ場がないのだ。彼にとって家は憎むべき場所であり、同時に唯一の帰る場所でもあった。

「じいさん、もう店畳んだらどうだ?客もほとんど来ねえじゃねえか」

誠一はタバコを灰皿に押しつけながら言った。源蔵はようやく誠一に視線を向けた。その目は疲れていたが、それでも確かな強さを秘めていた。

「客が来なくても、俺はこの店を続ける。それが俺の生き方だ。お前には分からんだろうがな」

その言葉に、誠一は何も言えず、ただ黙って立ち上がった。源蔵はその姿を見送りながら、かすかにため息をついた。父と息子の間には、どうしても埋められない溝があった。源蔵は誠一を愛していたが、それ以上に失望もしていた。

その夜、源蔵は店を閉めた後、薄暗い商店街の通りを歩いていた。彼の足取りは重く、疲れが全身に広がっていた。すると、通りの向こう側で何かが煌めいた。源蔵が目を凝らすと、そこには誠一がいた。彼は街灯の下で何かを拾い上げていた。

「何してるんだ、こんな時間に」

源蔵が声をかけると、誠一は驚いて振り返った。彼の手には、小さな財布が握られていた。どうやら落とし物らしい。

「何でもねえよ。ただ…拾っただけだ」

誠一はそう言うと、財布をポケットに突っ込んだ。源蔵はそれを見て、眉をひそめた。

「届けるつもりか?それとも…」

源蔵の問いに、誠一は一瞬ためらったが、すぐに笑みを浮かべた。「届けるわけねえだろ、こんなの俺の運だ。俺にはそんなもん必要だ」

その言葉に源蔵は失望を感じたが、それでも息子の姿をじっと見つめた。源蔵はもう何も言わず、その場を離れようとした。しかし、その時、誠一が急に後ろから声をかけた。

「じいさん、俺も変わりたいんだ。でも、どうしたらいいのか分からねえ」

誠一の声は震えていた。彼の瞳には、父に対する複雑な感情と、自分の無力さへの苛立ちが映し出されていた。源蔵は足を止め、ゆっくりと振り返った。

「変わるのは簡単じゃない。だが、お前が本気で変わりたいと思うなら、少しずつでもいい、始めてみろ」

源蔵はそう言うと、誠一の肩に手を置いた。誠一はその手の温もりを感じ、何かが少しずつ動き始めるのを感じた。彼はまだ完全に改心することはできなかったが、その一歩を踏み出す勇気を得たのだ。

「ありがとう、じいさん」

その一言に、源蔵の目には涙が浮かんだ。親子の間に流れる時間は決して戻ることはないが、今この瞬間だけは確かな絆がそこにあった。誠一はゆっくりと父の手を握り返し、二人はしばらくの間、静かな商店街の一角で寄り添っていた。

夜は深まり、遠くでカラスが一声鳴いた。次の朝、また店のシャッターが開き、源蔵はいつものように野菜を並べ始めた。隣には誠一の姿もあった。父と息子の物語はまだ続く。変わることの難しさ、そしてそれでも変わろうとする人間の強さ。そのすべてが、あの小さな店の中に詰まっていた。









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