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第4章 3000円の飲み代金

第4章 3000円の飲み代金

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「…………!!」
「…………!!」
「いらっしゃいませー! 居酒屋『赤い糸』へようこそ!」
 俺とエンドが無言で見つめ合う中、数名の店員の声が響いた。
 ここは、開店前の居酒屋。
「そうそう、お客様がいらっしゃったら元気よく挨拶を忘れずに!」
 研修中のアルバイトに注意をして回っているのは、店長。
 周囲の店員は、頭に手ぬぐいを巻いた法被姿。
 俺とエンド、いや遠藤もまた同じ格好をしていて。
 揃って、バイトの研修を受けていた。
「……」
 それまで無表情を貫いていた遠藤が、下を向いて震えだした。
「?」
 何だろうと覗き込んだ俺の目の前で。
「……っぷぁっ! 駄目だ、もう我慢できねぇ!」
 遠藤は、吹きだした。
「何だよこの状況はぁあはははははははっ!」
「ちょ、遠藤くん何ですか」
「すいません」
 驚く店長に、遠藤は笑いながら俺を指差した。
「こいつ、俺の運命の相手だったみたいで」
 その顔に、笑顔に、ただただ目が離せなかった。

 知人の紹介で始めた居酒屋のバイトは、思った以上に……いや、とても楽しかった。
 体を動かして働く経験は初めてだったけど、いつも周りがすぐ助けてくれた。
 いや、主に、笑いながら助けてくれるのは遠藤だった。
 あれから半年。
 遠藤が新しく始めたバイト先が、たまたま俺と同じ所だったらしい。
 ホストはどうしたんだよと聞きたかったけど、まだ当時のことを掘り返すには少し勇気がいるので触れていない。
 バイトの仲間同士。
 以前の、ホストと利用者というどこか緊張したものとはまるで違う。そんなまったりした関係に、最初は違和感もあった。
 だけど、奴の笑顔の前にそれはすぐに蕩けていって、いつの間にかこの関係が妙に心地よく感じてしまう自分がいた。
 しかし遠藤はそんなことには全くお構いなしなのか、たまに笑えない冗談を言う。
「ほれ、ジュース代、100万円」
「……八百屋の親父か!」
 硬貨を渡しながら、他の奴らには言わないで俺だけに言うってことは、やっぱり狙ってるんだろう。
 必要以上に楽しそうに笑う遠藤に、苦笑するしかなかった。
 俺がいくら金を積んでも手に入れられなかったものが、あれだけ見てみたいと思った笑顔が、こんなにあっさり目の前にある。
 初めてのバイトの研修で、遠藤に目の前で爆笑された時……思わず、見惚れてしまった。
 ああ、やっぱりこいつの笑顔はいいな、って。
 もっと見てみたい、って。
 遠藤に対して抱く気持ちは相変わらず固まらないまま、今のこの関係を続けて行きたいと、そんな風に思った。

 ただ……

「えんど……しゅ、終?」
「……」
「……遠藤?」
「お、どうした?」
 遠藤は俺にだけは頑なに『遠藤』での苗字呼びしか許してくれていないような気がする。
「あ、おーい、終!」
「何ですかー、店長」
 他の奴からの呼びかけには答えるのに。
 それが、一線引かれているようで少しだけ寂しかったけども……

「お」
「よー」
 ドアを開けると、立ち読みしていた遠藤が気付いて手を上げた。
 バイト先近くにコンビニがある。
 便利だからよく利用していたし、他の仲間もよく使っているのでこういう遭遇は珍しくない。
 俺も雑誌をチェックしようと遠藤の隣に並び、ぼーっと本の列を眺めていたとき。
 自動ドアの音がした。
 同時に「いらっしゃいませー」の声。
 それを聞いた俺は、反射的に口を開いてしまった。
「いらっしゃいませ! 『赤い糸』へようこそ!」
「え?」
「あ……!」
 言ってしまってから、口を押えた。
 遠藤の怪訝な顔が目に入る。
 日頃仕込まれた研修の成果。
 人が入ってくる気配に、つい、全力で自分のバイト先の挨拶をしてしまった。
 うわ、なんて恥ずかしい!
 場違いなんてもんじゃない!
 店員の、他の客の周囲からの視線が集まるのを感じ、頭に血が昇っていくのを実感する。
 その時だった。
「……あはははははは! お前、いらっしゃいませって、ようこそって、店員か!」
「う、うるせーうるせーそんな笑うことねーだろ!」
「いや、なんかもー丁寧に店名まで入れちゃって!」
「研修で習ったじゃねーか!」
 笑い出した遠藤に必死で突っ込みを入れていると、次第に気持ちが軽くなってくる。
 周囲の視線も、次第に離れていくのが感じられた。
 そして気が付けば、一緒に笑っていた。
「……あははは、ばっかみてー」
「だろー」
 二人して、大笑いして。
 ……本当に、助かった。
 俺一人だったら、多分恥ずかしくて逃げ出して、もう二度とこのコンビニには入れなかっただろう。
 遠藤が笑い飛ばしてくれたから、笑い話になった。
 笑いすぎて滲んだ涙を拭きながら、こっそりこいつに感謝の念を送る。
「あー、しかしもう1人じゃこのコンビニ行けねーなぁ」
 落ち着いた所で二人揃ってコンビニを出た。
 その時の、俺の小さな呟きを遠藤は聞き逃さなかった。
「じゃあ、俺が付き合ってやろーか?」
「……いいのか?」
「1回100万で」
「ジュースくらい奢るから!」
 しつこく蒸し返そうとする遠藤を小突きながら、どうにも、胸が弾むのを抑えられなかった。

 それから毎日、何かしら用事を見つけてコンビニに寄った。
 遠藤は言葉通り毎日付き合ってくれた。
 その度にジュースを奢ろうとするとさすがに断られたが、押しつけ続けた。
 付き合ってくれるのが負担になったら嫌だったし。
 ジュースでも何でもいいから渡せるものがあれば、また付き合ってくれるかなと思って。

 それを見つけたのも、コンビニだった。
 買い物中、遠藤の視線の先を見ると映画のポスターがあった。
 CGを使った、アニメ……じゃない、実写映画。
 ややB級の妙なノリで、デートで行くものとは明らかに違った系統のもの。
「あー、コレ面白そうだよなー」
「そう思う? 俺も気になってたんだよな」
 ……じゃあ、一緒に行ってみないか?
 喉まで出かかった言葉は、でも言えなかった。
 遠藤と、映画。
 変な映画を馬鹿なノリで見て、飯でも食って、その後……
 いや、いやいやいや!
 一瞬、蘇った熱い記憶を慌てて否定する。
 今のこいつは、エンドじゃない。
 そうじゃなくて、そんな下心なしでもいいから。
 遠藤と一緒に、映画に行ってみたい。
 今のノリなら誘えるんじゃないかと思ったんだけれども――
 2年前の、初めてのデートの時を思い出す。
 俺、雰囲気悪かったよな。
 エンドが色々話しかけてるのに、楽しそうに見えたら負けだとか思ってろくに返事もしなかった。
 あれを思い出して、断られるんじゃないか。
 いや、もうそんな昔のことは忘れてるか。
 だから……
「あ、あのさ」
「あ、新製品といえばさ、うちの新メニュー食った?」
「……いや、知らない……」
 玉砕した。
 勇気を出して話しかけてみたけれど、意識してか無意識か分からないが、話を逸らされて心が折れた。
「ところでさ……」
「何だよ」
「悪ぃ、何でもなかった」
 その後の何か言いたげな遠藤の言葉も、聞く余裕はなかった。
 言葉少なに店を出て別れた。
 でも、映画。
 遠藤と、映画。
 ……行ってみたいなぁ。
 その光景が、目の前をちらついて離れない。
 100万、あれば、誘えるかな。
 思い余って、そんな事まで考えた。
 いや、出せるわけない。
 きっと出したって、あの笑顔は買えない。
 だけど、誘うきっかけになれば……

 その日から、俺は100万円を目標に貯金をはじめた。

 バイト先の居酒屋に着くと、店内が少し騒がしかった。
 何だろうと、同じシフトの遠藤と騒動の中心を覗いてみると。
「あ、シュウ! ……さん」
 俺の声に、隣の遠藤が僅かに息を飲むのが分かった。
 シュウ。
 都城 秀一(とじょう しゅういち)。
 この新規居酒屋チェーン店のオーナーで、俺をこのバイトに紹介してくれた人で――俺の、元恋人。
 それだけじゃなく、とにかくたくさん世話になった恩人だ。
「やあ、肇……くん。元気か」
「お疲れ様です。珍しいですね。こちらにいらっしゃるなんて」
 片手を上げて挨拶してくれたシュウ……さんに、敬語で挨拶する。
 一応、ここでは雇い主とバイトだ。
「うん。今、各店舗のアルバイトの勤務実態をチェックしていてね」
「ふーん」
 俺の質問に、丁寧に答えてくれる。
 元々持っている人当たりの良さに加えそのマメさ。
 やっぱり、成功している奴は細部まで違うなぁと、妙に関心する。
 と、同時にほんの少しほっとしている自分に気付いた。
 一年前、シュウと別れたばかりの時。
 シュウのことばかり考えていた。
 どうすれば別れなくて済んだのか、どうすれば元に戻るのか。そんな事ばかり。
 今は、あの頃のことが嘘のように心穏やかだ。
 あの時の様な執着は、ない。
 というか、忘れてさえいた。
 最近は、別の奴の笑顔を追うのに忙しくて……
「あれ、そういえば遠藤さんて、都城オーナーに少し似てますね」
 俺達と同じ様にシュウを遠巻きに見ていたバイトの一人が遠藤に放った言葉に、ぎくりとする。
「……そーかねえ」
 気のない様子で答える遠藤に、ほっと胸を撫で下ろす。
 その台詞は、何故か俺の中では禁句のような気がしたから。

「あ、肇」
 バイトの支度をしようとした俺に、シュウが声をかけた。
「今度の金曜、空いてるか?」
「バイト以外は入れてない……あ、入れてませんが」
「そしたら、飲みに行かないか? 仕事先の皆と」
「行く! あ、行きます!」
「じゃあ、楽しみにしてるから」
「はい!」
 二つ返事で答えた。
 仕事先の皆ということは、遠藤も来るんだろう。
 遠藤と、一緒に飲み会。
 その光景を思い浮かべただけで、どうにも心が弾んだ。
「――どうしたんだ。そんなにやけて」
「え、別にー」
 つい顔に出るのを止められなかった俺に、前から歩いてきた遠藤が声をかける。
 それがどこか不機嫌そうなのに、その時の俺は気づかなかった。
 そして次の瞬間、重大な事に気付いた。
「あ!」
「何だよ」
「……いや、なんでもない」
 金が……ない。
 いや、ないことはない。
 けど、100万円貯めるために節制している身としては、飲み会の代金は少し厳しいものがある。
 せめて、どこかで絞らなきゃ……
 そうだ、毎日のコンビニ通い。
「あ、遠藤、悪いんだけど」
「何だよ」
「今までコンビニ付き合っててくれて、ありがとな]
「なんだよ、別にあれくらいいつだって……」
「明日からしばらく、行かないから」
「……」
「助かったよ」
「……あ、そ。やっと解放されて、せーせーする」
 遠藤はどこか嫌味っぽく伸びをする。
 その回答に少し胸が痛み、それ以上に妙に不機嫌そうな様子で答える遠藤が、気になった。
 だけど、今度、話せばいい。
 飲み会の時なら、話す機会がいくらでもある。
 そう思って、聞き逃した。

 そしていよいよ、飲み会の当日。
 シフトの時間よりかなり早めに入って準備を始めた。
 時間きっかりに終わって、早く飲みに行けるように。
「……はよ」
「よぉ、早いな」
 少し遅れて入って来た遠藤に、片手を上げて挨拶する。
「お前の方が早いじゃねーか」
 それだけ言うと、遠藤はさっさと支度を済ませ、キッチンの方に行ってしまった。
 ……何だか、機嫌悪い?
 少し気になったが、それ以上に今晩が楽しみですぐ忘れてしまった。

「お疲れ様でーす!」
「お疲れー」
 そして無事シフトが終わって、着替えが終わった時だった。
「ん?」
 遠藤が、俺の手を取った。
 どこか、張りつめたような顔をしていた。
 その緊張感あふれた表情のまま、俺に話しかける。
「なぁ。……飲みに行かないか? 奢るから」
「え? あ、うん」
「……え? いいのか?」
 軽い調子で頷くと、遠藤は酷く意外そうな顔をした。
「あれ。だって、行くんだろ、皆で……」
 そう言おうとした俺の手を取ったまま、遠藤は店を出る。
 俺の手を、引っ張っていく。
「あれ、あ、ちょっと、シュウ……さんは? 皆は?」
「……」
 俺の質問には無言のまま、痛いほど強い力で俺を引っ張る。
 先に知らされていた待ち合わせ場所を過ぎても、更に。
 場所が変わったのか?
 ……ま、遠藤と飲みに行けるなら何でもいいや。
 そう思って、素直に着いて行った。

「乾杯!」
「乾杯」
 安いチェーン店の居酒屋に入った俺達は飲み会を始めた。
 二人きりで。
 シュウたちは後から合流するんだろうか。
 疑問が頭を掠めたが、それよりも、今この時間が嬉しくて。
 ついつい、頬を緩め遠藤と向き合う。
 遠藤も、今までの不機嫌が嘘のように機嫌が良くて。
 俺はまだあまり飲み慣れていないビールを、ついつい早いペースで口に運んだ。
「あのさ、聞いてもいいかな?」
 くだけた雰囲気に助けられ、俺は以前から聞きたかったことを、遠藤に尋ねてみる。
「何だ?」
「お前さあ、なんであそこでバイトしてんの? その……ホストは?」
「止めた」
 遠藤は、さらりと口にする
「何で」
「そりゃお前……面倒な客がいたからじゃん」
「……っ」
 遠藤の返事にすっと血の気が引きそうになる。
「……って、いや冗談だよ!」
 それに気付いたのかどうなのか、遠藤はすぐ笑いながら訂正する。
 そしてやや真面目な顔になって、話しだした。

「俺さあ、実家が農業やっててさ。一時期、そこの畑が駄目になっちまってな。至急、まとまった金が必要だったんだ。それで……要らないって言われたけど、無理矢理、仕送りをね」
「へ、え……」
 遠藤の意外な話の内容に、俺は目を丸くして聞き入っていた。
「まあ、農家継ぐのが嫌で逃げ出した罪滅ぼしみたいなもんだったんだ。都会出て、無理矢理一人暮らしして。で、金ないからバイトして、水商売に流れて――たまたま、少しだけ上手くいって」
 遠藤は、どこか自嘲するように続ける。
 初めて聞く遠藤の話に、夢中で耳を傾けた。

「少しだけって……お前、ナンバーワンって言ってたじゃないか」
「……あそこは、一度でもナンバーワンになったら後は何度でもナンバーワン自称していいんだよ。ナンバーワンが複数人いたぞ」
「なんでよその全米映画仕様!」
 ほんの少し軽口を叩き、それで少し気が楽になったのか、遠藤は話を続ける。
「それがさ、今度……実家が土地を手放すことになってな。だから、もう仕送りするなって。……当たり前のようにそこにあったから、気にも留めなかったんだけど。逃げたくせに、自分から捨てたくせに、いざ無くなると思うと妙に寂しくってな……」
 遠藤は手元にあるコップを見て、そして真っ直ぐに俺を見る。
「当たり前だなんて思わないで、もっと手を尽くせば良かった。そう、思った」
「そう、か……」
 学生だけど、水商売もやって。
 それが今、堅実……ってこともないけど、居酒屋でバイトしている遠藤。
 腑に落ちて、その上思ってた以上に真面目な理由で、思わず畏まる。
「その、大変だったんだ、な……」
「いやいや。自業自得っていうかね。それより、次はお前の番だ」
「は?」
「は、じゃねえ。ずっと前から気になってたんだ」
 急に話題を振られ目を白黒させる俺に、遠藤はコップを置くと真面目な顔を作って言う。
「学生の癖に、あんな奴らと付き合いがあったり……いや、そもそも、社長なんて肩書きであんな所に接待で来る癖に、映画や外遊びの根本的な事も知らないし」
「悪かったな」
「謎だらけなんだよお前」
「べ、別に謎なんかにしてるつもりはないけどさ……」
 あえて、言うことでもなかっただけで。
 けど、まあ、いいか。
 遠藤になら、話しても。
 覚悟を決めたように小さく息を吐くと、俺の目の前の遠藤を真っ直ぐ見つめ返した。

「その、さ。児童養護施設って知ってるか?」
 遠藤が息を飲む音が聞こえた。
「俺、そこ出身なんだ」
 物心つく前、それこそ生まれた直後から親の庇護を受けられなかった俺は乳児院に入れられ、そこから児童養護施設に送られた。
「だから、少しでも早く自立しなくちゃいけなくってさ。ちょうど、俺と同じ施設で育った奴が成功して、学業の援助をしてくれたんだ。で、そいつの助けもあって、無理矢理ぎみに起業した」
「え、あ、もしかしてその同じ施設の奴って……」
「ああ……シュウ、さんだ」
 目を見開いて言葉を紡ぐ遠藤に、俺は頷いて見せた。
「あの人も、子供の頃から施設に入所してきて。俺よりもう少し年上で、兄弟みたいにして育ったんだ」
「……」

 兄弟、だけじゃない。
 俺とシュウは、一時期は兄弟以上の関係だった。
 施設から出てしばらくは、一緒に暮らしてた。
 距離を置こうって、言われるまでは。
 それでも、それからもずっと、俺を助けてくれた。
「と言っても、どっかに一緒に行った事はあまりなかったなぁ。お互い、外に出るより家の中に籠っていた方がいい性分だったし」
「籠る、ね……」
 遠藤はどこか不機嫌そうに俺の言葉を繰り返す。
 そう。二人でいる時は、大体図書館かどっかで勉強していた。
 シュウは向学心が強くて、おかげで俺も随分それに引きずられて勉強できた。
「すごく色々、助けてくれて。なんとか上手く軌道に乗れたのも、シュウのおかげなんだ。……色々あって、駄目になっちまったんだけど」
 大げさに苦笑して見せるが、遠藤は無言。
「……そんなわけで、今のバイト先もシュウが世話してくれた。本当に……世話になりっぱなしなんだ」
「……そう、か」
 遠藤は静かに頷くと、俺のグラスにビールを足す。
 黙ったまま、俺はそれを飲み干す。
 その後は、静かに互いに杯を重ねた。
 それでも、俺はどこか浮かれていたんだろう。酒は苦手な癖に、ついつい飲みすぎてしまった。

「うー……」
「大丈夫かおい」
「だ、いじょうぶー」
「……じゃないな。ほら、荷物貸せ。もっと体重かけろ」
「わ、わるい、な……」
 くたりと、遠藤の肩にもたれかかる。
 すると耳元で囁くように遠藤の声が聞こえてきた。
「……俺んち、このすぐ近くなんだ。休んでくか?」
「……たのむー」
 遠藤の家。
 ぼんやりした頭で、そのキーワードだけがはっきり聞こえた。
 そっから先は、あまりよく覚えていない。
 気が付けば、鉄のドアが開き、中へと運び込まれていた。
 遠藤の部屋か……
 目を開くと、乱雑に散らかった部屋が見えた。
 転がる鞄と、そこから落ちる携帯。
 その携帯についていたストラップには、見覚えがあって――
 どきりとした俺の目の前に、コップが差し出された。
「ほら、水」
「ありがとなあー」
 渡されたコップの、中身を飲み干す。
 少しだけ意識が覚醒して、目を開いた俺の間近に遠藤の顔があった。
「あ、遠藤……」
「――3000万円だ」
「はぅ?」
「もとい、今日の飲み代、3000円」
「あれ、俺の分って――」
「ああ。俺が出す」
 ぐにゃりと問いかける俺に、遠藤はやけに真剣な表情をしていた。
「――代わりに、お前を俺の好きにさせろ」

「は――?」
 何を言ってるのかよく分からなかった。
 不意に、遠藤の顔が近づいてきた。
 唇に、何かが触れた。
 この感触には、覚えがあった。
 一時期、毎週のように触れていた――遠藤の、エンドの、唇。
 一瞬だけ重ねられたそれは、すぐ離れる。
「あれ、あ、れ、遠藤……奢りだって……」
 混乱の末、的外れな事を言いかけた俺の唇は、再び乱暴に塞がれた。
「う、ん……んく……」
 先程とは、いや、今まで交わしたどの口付けとも違う、酷く強引なそれが俺の言葉を奪っていく。
「は……っ」
 唇が離され、荒くなった息を整えている俺の身体が、不意に傾いた。
 足が、床から離れる。
 俺の体重全てが、遠藤の腕にかかって……抱え上げられていることに、気が付いた。
 そのまま、運ばれる。
「や、ちょっと遠藤、どこへ……」
「風呂場だ」
「あ、え……」
 遠藤の言葉の真意が分からず、どう答えていいのか分からない。
 おまけに俺の手足は、相変わらず酒がまわっていて使い物にならない。
 意識だけははっきりしたまま、遠藤のなすがままにされる。
 風呂場で、乱暴に服を剥ぎ取られるまでは。

「や……何、遠藤、何だよ……っ」
 俺の服を脱がす手の、あまりの強引さに思わず抵抗しようとする。
 しかし、力が入らない。
 俺の手は、あっさりと弾かれてしまった。
「言ったろ。お前を、俺の好きにするって」
「なんで……どうして、えんど」
「お前、ヨリを戻したんだろ? 元恋人と」
「え、シュウのこと、なんで知って……」
「……やっぱ、そうか」
 あ、カマかけられた。
 小さな笑い声が聞こえてきた。
 顔を上げると、皮肉気に笑う遠藤。
 だけど遠藤が、ホストの時のエンドが浮かべる表情とはまるで違う。
 こいつの、こんな顔は見たことがない。
 引きつったような、何かの感情を押し殺したような、笑顔。
「最近、やたらと親しげだったもんな」
「あ、ちが……」
 違う、あってるのは、元恋人ってとこまでで。
 そう言いかけた俺の口に、何かが当てられた。
 タオル?
「んんっ……」
 ぐい、と舌を圧迫されるほど口の中に咬まされたそれが、俺の言葉を奪う。
「どうりで、最近笑顔が増えた筈だ」
「んんんっ!」
 違う。
 それは、遠藤のおかげだと言いたかったのに、声にならない。
 笑ってるのは、楽しかったから。お前がいたから。
 なのに。
 タオルを噛まされたままの唇に、遠藤の唇が降ってくる。
「――だったら、どうせもう終わりに――いや、始まることもないなら」
 熱く、熱く、唇に、それ以外の場所に触れる。
「今度は、今度こそは、二度と忘れられないくらい刻み付けてやる」
「んあっ……えんど……っ!」
 口の中を蹂躙していたタオルが取られた。
 話をしようとした次の瞬間、それは遠藤の唇に、舌にとって代わられた。
「ん……んんっ」
 唇が俺の舌を吸い、絡め取り、侵略する。
 エンドとの時には一度も、あの、最後の行為の時でさえなかった激しい口付け。
 その激しさに翻弄され、言うべき言葉は次第に掠れ消えてしまう。
 ただただ、その口付けを受け止めることに精一杯で。
 いや、受けきれてさえいない。
 唇が受け止めれらなかったその行為は、唇を外れ、頬へ、耳へ、顔全体を浸蝕していく。
 それが無性にもったいなくて。
 遠藤のを、全部、受け止めたい――
 そんな感情が溢れ、目の端に溜まり、ぽろりと零れる。
 それは即座に、遠藤に舐め取られた。
「う……」
 唇が解放された。
 だけど、今、出てくるのは嗚咽ばかり。
 それが情けなくて、唇を引き結ぶ。
「可笑しいよな。お前の身体のことはいくらでも知ってるのに、どんな事も出来たのに。一度だって俺のモノになったことはないんだからな」
 買った時でさえ…… そう言って遠藤は低く唸る。
 笑い声、なんだろうか。
 ふと、そんな遠藤の笑い声が止んだ。
 視線の先に何かを見つけたらしい。
「……そういえば、仕事の時にも一緒に風呂入ったことはなかったな」
 遠藤は、何かを手に取った。
 その手の上に、粘度の高い液体が流れ出る。
「洗ってやる」
 ボディソープ?
 ぬるりとした粘度を持ったその液体を、遠藤は俺の胸にぬりつけた。
「ひっ……」
 触れた瞬間、その冷たさを感じた瞬間、全身がぞわりと総毛立つような感覚を覚えた。
 遠藤はそれには構わず指を動かす。
「や、や、あ……っ」
 ぬめぬめと滑る遠藤の指は、別の生き物みたいで。
 ぬるり、つるり、まるで何かを塗り込めるかのように、その指は俺の全身を刺激する。
「ん、ふぁ……」
 次第に、泡が立ってくる。
 俺の汗と、先走るもの。それと遠藤の塗り付けたソープが混ざった、泡。
 俺の身体も遠藤の指も、泡に埋もれていく。
 埋もれながら、動き続ける。
 ひどく滑りやすくなった指は俺の全身を這い、時に一ヶ所だけを執拗に刺激する。
「あ……や……そこ、はぁ……っ」
 液状だったソープの時とは、また別の感覚。
「は……あぁっ」
 たまらず身を捩ると、ずるりと、零れる様に身体が遠藤から落ちた。
 荒い息のまま風呂場の冷たい床に横たわる。
「は、あ……」

 息をついたのは、ほんの一瞬。
「……泡、邪魔だな。流すぞ」
 遠藤はシャワーに手をかけた。
 それを俺に向けたまま、栓をひねる。
 やや強い水流が、俺に向けられた。
 俺の身体の、泡のついた部分……胸を中心に。
「あ……うっ」
 遠藤の指先で散々弄られていたその部分は、その刺激に敏感に反応してしまう。
 俺の反応を見て取った遠藤は、にやりと笑うと水流を細くした。
「あ、あ……っ!」
 細く絞った分、勢いがついた水流が俺の胸に、最も敏感な部分に当たる。
 人の指とは全く違った容赦ない刺激が、絶え間なく俺を襲う。
「あ、や、や……んっ」
 逃れようとする俺の肩を、遠藤が押さえた。
「どうした? しっかり泡を、流さないとな……」
 シャワーが俺の胸に接近する。
「あ、ん、んんん……っ!」
 時に強く、時に緩く、遠藤はしばらく俺にシャワーを当て続けた。

 やっと水が止まった時には、俺はもう息も絶え絶えになっていた。
「……謝らねぇぞ」
 そう言うと、遠藤はシャワーのヘッドをくるくると回し、外す。
 むき出しのホースが見えた。
 そして俺の身体に手をかける。
 歪んだ表情を顔に貼り付けたまま。
「え、なに……」
「酷いこと、してやる」
 乱暴に俺を引き寄せる。
「あっ……」
 遠藤の膝が俺の足の間に割り込む。
 遠藤に抱き付くように密着し、腰をやや高く浮かせた体勢になる。
「あ、な、に……」
 片手で俺を押さえ、もう片方に持っているのは、ヘッドを取ったシャワーホース。
 その先端には、石鹸の泡がついている。
「あ、ちょ、や……」
 遠藤の意図を理解し、身体が竦む。
「あいつとの跡、洗い流してやる――」
 有無を言わさぬ力で抑え込まれ、シャワーの先端が俺の中に入れられた。
「あ……あぁ、あ……っ!」
 冷たい違和感が広がる。
 2度、3度、ゆっくりとそれが抜き差しされる。
「あぁ、やだ……や、だ……あ……っ」
 拒絶するが、次第にその声すら、甘い物になっていく。
 それが俺の中深くを穿ったのを見計らって、遠藤は引きつった笑顔のまま、シャワーの栓をひねった。
「あ、ぁああああああ――っ!」

 俺の中に幾度も無機質な水が注ぎ込まれ、無理矢理広げられ出される。
 それが何度も繰り返された。
 たまらない違和感と窮屈さと、そして繰り返す度身体の奥に灯るどうしようもない熱。
 身体がおかしいのは、もう酒のせいだけじゃない。
 何度目かの湯の後に、遠藤はやっとシャワーを置く。
 身体の中には、湯が入ったまま。
「ひ……っ、えん、ど、ぉ……」
 やっと絞り出した懇願を無視するように、遠藤の両手は対面している俺の腰を掴む。
「栓、してやるよ」
「あ、や、ぁあああっ!」
 嘲るような台詞の後、俺の全身に衝撃が走った。
 身体を満たす湯を溢れさせながら、遠藤が俺を貫いた。
 かつては何度も受け入れていた、遠藤の大きな一部が俺を割り広げる。
「あっ、やっ、む、り……ぃっ」
 逃れるように首を振る。
 だけど当然のようにそれは聞き入れられず、遠藤は更に奥へ奥へと侵略する。
「丁度いいだろ。俺のを、流す手間が省けて――」
「はぁ、あ……っ」
 遠藤と俺とが余程密着しているためか、動いても身を捩っても、もうほとんど湯は零れない。
「あ……」
 遠藤の全てを受け入れた感覚があった。
 だけど湯の違和感で、全てを感じ取れない。
 そのまま遠藤は俺を引き寄せ、首筋に唇を這わせる。

「ふぁ……」
 首に、肩に、鎖骨に、柔らかい口付け。
「――安心しろ。俺の跡は、つけないから」
「は、んっ」
 遠藤が言葉を発するたびに、その僅かな振動が繋がったままの俺に伝わり刺激になる。
「つけられたら……困るんだろ?」
「んんんっ」
 遠藤の言葉に、唇に、全ての刺激に身体が反応する。
 燃え上がる。
 遠藤は、ゆっくりと動き出す。
 次第に、拒絶している筈の口から甘い声が漏れる。
「あ……んっ」
 遠藤に、反応して。
「はぁ……ん」
 もっと欲しいと、ねだるかのように。
「ふぁっ」
 ち……
 小さな舌打ちの音が聞こえた。
「何で……」
 苦しげな遠藤の声。
 その声には、憤るような感情が込められていた。
「何でお前……そんなにも反応してるんだよ」
「あ、そ、」
 それは……
 その声にさえびくびくと反応しながら、俺はその回答に気付いていた。
 遠藤だから。
 遠藤がくれる刺激だから。
 快感も、痛いのも苦しいのも全部ひっくるめて。
 ずっと、ずっと欲しかったんだ。
 これで終わりと、エンドと告げられたあの瞬間からずっと。
 映画を見て、はしゃぎながら飯食って、その後、こうやって。
「お前、もう、あいつのだろ? 俺は、必要ないだろ? コンビニにだって付き合わなくっても、いいんだろ?」
「ん、ぁああっ!」
 その言葉と同時に、遠藤が動いた。

 無理矢理変えられた体勢が、強くなった刺激が、その言葉が、全てが俺を鋭く抉り、激しい快感となって俺を支配する。
「あ、んんっ、えんどぉっ」
 ただ、求めた。
「……んな声出すな。ちょうどいいトコで、止めらんなくなる……っ」
「あ、きて、きて、えんどっ」
 遠藤の両手が俺の腰を掴む。跡が残るほど、強く。
「ひうっ!」
 きつく、きつく。
 激しく、動き出す。
 ぐぷり。
 ごぶっ。
 身体に入っていた湯が、俺の中で音を立てる。
「あっ、あああっ、えんど、えんどぉっ!」
 与えられる振動に、快感に身を委ね、唇が欲するまま遠藤の名を呼ぶ。
「――肇っ」
「あ、ぅ……っ!」
 はじめて、名前を呼ばた。
 思わず身体を大きく反らす。
 僅かに離れた隙間から、ごぷりと湯が漏れる。
 即座に身体は引き戻され、僅かな隙間もないように結合される。
「は、じめ……」
 深く深く繋がり、穿ち、かき混ぜられ。
「えんど……えんどぉ、えんど……ぉっ!」
「はじめ……肇っ!」
 喉が枯れるほど、遠藤を呼び、求め続けた。
 遠藤はずっと、それに応えてくれる。
「あっ、えんどぉ……えんどぉ、あ、えんど、あぁあああああああっ!」
 意識が飛ぶ最後の最後まで、それは何度も続いた。

   ※※※

「う、ん……」
 全身に残る、違和感。
 特に下半身。
 その不快感に顔を歪ませながら、ゆっくりと意識が引き戻されていく。
「――起きたか」
 何かが、頬に触れた。
 遠藤の指。
 遠藤は、俺の側に座っていた。
 ここは――布団の上。
 知らない布団から、どこか安心するような、覚えのある匂いを感じる。
 ああ、遠藤のだ。
 そこでやっと、気が付いた。
 遠藤の布団に、俺は寝かされていた。
 傍らには覗き込むようにして、遠藤がいる。
 そうか。
 俺、風呂場で遠藤に……
 それで気絶して、ここに運ばれたのか。
 遠藤は、ずっとついててくれたのか。
 ぼんやりと遠藤の方を見る。
「え、んど……あ、れ?」
 遠藤は、唇を引き結び――まるで、泣きそうな顔をしていた。
「――悪かった」
 遠藤は俺に視線を合わせないまま、頭を下げた。
 深く深く、畳みに額がつくまで。
「あ、え……」
 一体何が、と聞こうとして身体の一部分に残る痛みで気が付いた。
 ああ、昨晩の。
 酔って動けなくなった俺を家に連れ込んで、更にはシャワーとかを使って散々……
「お、お前……ふざけんな」
 思い出した途端、身体が熱くなってきた。
 それを誤魔化すように、口調が鋭くなる。
 遠藤はそれを受けて、大きな身体を縮こませる。
「ああ、本当に、悪かった。もう、何も弁解できないし、するつもりもない」
 心からすまなさそうに謝るその様子は、いつもの遠藤だった。
 昨日の、謝らないぞと言って俺を襲った時の様子は微塵もない。
 それを見ていると、次第に俺も落ち着いてきた、が、同時に沢山の事も思い出されてくる。
 この部屋に連れて来られたこと。
 潰れてからの、会話。
「バイトも辞める。もう、お前とは会わない。それに――」
「あ……」
 遠藤の謝罪を聞いているうちに、ふいにある台詞が頭をよぎった。
「いや……いや!」
 そして同時に理不尽な怒りが湧きあがる。
「お前、何値切ってんだよ!」
「……え?」
「3000円って、桁が違うだろ!」
「え、何の話を……」
 困惑する遠藤を前に、俺は自分の荷物を探る。
 あった。
 手に入れてからは肌身離さず持ち歩いている、あるものを取り出した。
 それを、遠藤に投げつける。
「俺は、ちゃんと貯めたのに」
「え……!?」
 札束。
 1万円札が、100枚。
「何だ、何で、これ……」
「……これで、お前と、映画に行きたかったんだ」

「……」
「……」
 絶句する遠藤を前に、俺も何も言えなかった。
 ああ。
 思わず勢いで札束を投げつけちまった。
 100万で、って、まるでホストを買うみたいに。
 あいつは、遠藤で、エンドじゃないのに。
 どんなに金を出したって、それであの笑顔が俺に買えるわけじゃないのに。
「――俺も」
 後悔が渦巻き始めた頃、遠藤が口を開いた。
「俺も、貯めようと思ったんだ」
 苦しげに、懺悔でもするかのような重い口調で。
「でも、3000万円はさすがにすぐには無理で。そんな時、お前があいつと……都城さんと仲良さそうにしてるのを見て、どうにも我慢できなかったんだ」
 ……まあ、100万と違って普通に働いて稼げるかどうかも分からない額だよな。
 少し同情的な気持ちになった俺に、遠藤は更に続けた。
「まあ、以前から3000円でもなんとかなりそうな雰囲気を作る為に、たまに100円を100万とか言って伏線を張って――」
「そんな前からかよ!」
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「そ、それにさ、俺、100万貯めても使えなかったんだぞ。なんか、金で買ったら、やっと俺に向けて笑ってくれたお前が、また笑ってくれなくなるかもしれないと思って――」
 思わず、隠していた気持ちがぽろぽろと零れる。
「俺もだ。お前、やっと俺に向かって笑ってくれるようになったろ。覚えてるか? コンビニで、真正面から俺に向かって笑って、あれ、どんなに嬉しかったか」
 忘れるわけ――ない。
 俺だって、間近で遠藤の笑顔が見れた瞬間だったんだから。
 照れたような遠藤の顔を見て胸が弾んだが、次の瞬間、遠藤の笑顔はふいに固まる。
「けどさ。お前――都城、さんを見て、笑ってたな」
「え?」
「元恋人のあいつに、ずっとあの笑顔が向けられていたと思ったら。これからも、ずっとあいつに向かうと思ったら……いや」
 遠藤は拳を握りしめる。
「お前の笑顔が他の奴に向かうくらいなら、たとえ消えてもいい。独占したいと、思ったんだ」
 悪かったと再び頭を下げる遠藤を、ただ茫然と見ていた。

 どうしたら、いいんだろう。
 どういう感情を持てばいいのか、分からなかった。
 独占したいと知って、嬉しかった。
 笑顔を見たいと言われて、嬉しかった。
 だけど、3000円。
 だけど、無理矢理な凌辱。
 つい先程までの行為は、重苦しく引っ掛かっていて。
「――俺、お前と映画に行きたかったんだ」
「……ああ」
「シュウとは、何もない。シュウとじゃない、お前と」
「――俺もっ」
 遠藤はがばと顔を上げる。
「俺も、3000万円貯める! そしたら、お前と――」
「無理だろ」
「……」
 冷たく言い捨てる。
 3000万円なんて、決心してすぐ貯まる額じゃない。
 唇を噛む遠藤の顔を、まじまじと見つめる。
 後悔と、苦渋と、その他悲痛な感情が全て混じったような顔。
 ――ああ。
 俺、こいつのこんな顔は見たくない。
 俺が見たいのは…… いつも脳裏に浮かぶ、こいつの表情が思い浮かぶ。
 同時に、どうすればそうなるのか、はっきりと気が付いた。
「あ、後払いで、構わない――」
 遠藤の目が、驚きで見開く。
 その表情も悪くないなと、ふと思う。
 ――そして、俺の方から唇を重ねた。

 わずかな接触の後、身体を離す。
「……あ」
 驚きで硬直していた遠藤の顔が、ゆっくりと解れていく。
 驚愕――困惑――期待――後悔――希望――歓喜。
 ああ、こいつの表情は、なんでこんなに見ていて飽きないんだろう。
 俺の前で変わっていく表情に、広がっていく笑顔に、目を奪われる。
「じ、じゃあ、肇……っ」
「――お前、ずるい」
「は?」
 遠藤は笑顔のまま、俺の不機嫌そうな台詞を聞いて首を傾げる。
「その、顔。笑ってる顔……それを見てると、なんかもう何でもお前の希望を叶えたくなるから」
「いや、え、そ、そうなのか?」
 首を傾げながらそれでも俺の言葉に目を輝かせる。
 そんな遠藤を恨みがましくじろりと睨む。
「ホストの時も、その笑顔で他の奴も手玉に取ってたんじゃないのか?」
「い、いや」
 遠藤は慌てた様子で、やや大げさに手を振って否定する。
「店長に、厳命されてたんだよ。俺は、笑うなって」
「はあ?」
 意外な言葉に、今度は俺の方が困惑する。
「その、俺の笑顔は下品だそうで……エンドのイメージが壊れるから、客相手にまともに笑うなって」
「――お前、俺の払った金返せ」
「え、ええ!? いや返したけど。31回の個別指名分から経費を抜いた3000万円……」
「あれは俺の購入代だろ。別の取引だ。だいたい、前は30回って聞いたぞ!」
 ううううう。
 俺のあの努力は、金は、何だったんだ!
 頭を抱える俺に、遠藤の心配そうな視線が降りかかる。
 視線だけじゃない。
 手が、腕が、遠藤自身が、俺に近付いて。
「あのさ」
 熱い息を、間近で感じる。
 俺の顔の目の前に遠藤の顔があった。
 すいこまれそうなその熱っぽい瞳に、呼気に、くらくらする。
 遠藤はそのままじっと俺を見つめる。
 笑顔、のような物を作ろうとしたんだろうが、その表情は何処か強張っていた。
 だけど、エンドの皮肉気な笑みと違って、吸い込まれるように引き付けられて――
「俺の笑顔を見てると、なんでも希望を叶えたくなるって言ってたよな」
「ああ」
「今でも?」
「……最初っから、そうだ」
「じゃあ……」
 遠藤の手が、俺に伸びる。
 頬に触れ、喉に、首筋につたう。
「……んっ」
 更に深い所へ伸びそうになったその瞬間。
 俺の携帯の着信音が響いた。

 見ると、バイト先の店の番号。
「あ……えええ!?」
 ついでに点灯する時間表示を見て、声を上げた。
 いつの間にか、午後4時過ぎ。
 もうバイトが始まってる時間じゃないか!
 慌てて携帯を取ると、開口一番謝罪に入った。
「すいません! ちょっと具合が悪くて……」
『今、大丈夫?』
「シュウ!」
 電話口から聞こえる意外な相手の声に、思わず大きな声が出た。
 ある意味今一番聞きたくない声。
 その俺の声に、目の前の遠藤の表情が強張る。
 どうしようと困惑していると、電話口のシュウは意外な言葉を告げてきた。
『そこに、遠藤君もいる?』
 遠藤?
 たしかにいるけど、なんでシュウが……
 驚いて口籠る俺に、更にシュウは問いかける。
『どうなの?』
「あ、うん、いるけど、なんで分かるの……?」
『飲み会の誘いを二人してドタキャンした挙句、二人揃って遅刻してたら、そりゃもうねえ……』
「す、すいません……」
 どこか笑みを含んだ呆れ声に、思わず居住まいを正して謝罪する。
『まあ、今の今まで遠藤君が一緒で良かったよ』
 久しぶりに間近で聞くシュウの声は相変わらず優しく、だけどどこか寂しげな気もした。
『これで――肇が一人きりで遅刻するような状況だったら、遠藤君には辞めて貰ってたかもしれない』
「は、はは……」
 遠藤、やばかったな……
 優しい声のまま、シュウは本気なのか冗談なのか洒落にならない事を言う。
『じゃあ、遠藤君に代ってくれるかな?』
「は、はい!」
 慌てて携帯を遠藤に差し出す。
「あ、都城さん、どうも――はい、はい!」
 怪訝な顔で携帯を受け取った遠藤もまた、耳にした瞬間慌てて正座して謝罪し始める。
「はい、どうもすいません……あ、いえそこまでは……いや確かにそうですが……はい、はい分かりました!」
 数回のやり取りの後、切った携帯を俺に返して立ち上がる。
「じゃあ……俺、行ってくる」
「え、どこへ?」
「バイト。あ、お前は来なくていいってさ」
「どういうこと!?」
 急いで支度を始める遠藤の肩を掴む。
「いや、なんか都城さんが、お前は休んでおけって」
「いらないよそんな余計な気遣い!」
 変に気を回してくれたシュウを恨みながら、慌てて俺も遠藤の後に続いた。

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