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変わっていくもの

分かれ道

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 若槻がここを出たいと言ってきた。突然の事で理解が追いつかなかった。一番最初に出会い、僕の一番の親友で、誰よりもこの月城音楽ホールで幸せを掴んだ彼が何故…



 勇の推測は正しくあれから数ヵ月後に若槻は照れくさそうに遥との交際を始めたことを明かした。
「別に僕に報告する必要は…」
「なんだ、随分と冷たい対応だな。俺たちは2人きりで演奏もした仲だろう?」
「うん、それは確かだ。」
そうか、人間は大事な仲間に対しては些細なことでも大事なことでもあらゆる報告をするものなのか。
「おめでとう、とは言ってくれないのか?自分で言うのも何だが、バイオリンと生涯を誓ったかのような人間嫌いでも幸せを掴めたんだぜ?」
「真の幸せは結婚ではないのかい?」
「はは、そうきたか。確かに志都の言う通りだ。祝いの言葉はそれまで取っておくということか。」
 立ち去る若槻を眺めているといつの間にか現れた勇と目が合った。彼は”ほら、言った通りでしょう?”と言わんがばかりに僕に向かってウインクをした。彼の観察眼を賞賛する気持ちで僕は彼に微笑みかけた。

 さて、何も若槻と遥は自然と、流れるままに引き合ったわけではないだろう。元々正反対な性格の2人だ、自分にないものに惹かれる気持ちは十分に理解できるが、2人の絆をより深くしたのは月城の楽団が都市の方で開催した演奏会だろう。タイミング的にはそれで間違いないはずだ。
 「…それにしても驚いた。僕の娯楽のために作った楽団がまさか街でこれだけ人を集めて演奏する機会を得るなんて…!一体誰が…?」
「志都にとっては単なる娯楽かもしれないが”お遊びの楽団”などに所属していると思われたら俺たちのプライドに傷がつくからな。」
「若槻…!」
確かに彼は元々街で評判の演奏家だった。僕たちと自由に過ごす彼の楽しそうな様子を見てすっかり忘れていたが、若槻以外のメンバーも現状に物足りなさを感じているのかもしれない。
「ちょっと、淳一!いくらなんでもその照れ隠しは志都さんを傷つけるだけでしょ!」
「は、遥…」
「違うの。これはあたしたちからの恩返し。志都さんにもこの景色を見て欲しかったの。」
「そうだったんだ…。でもそれなら何故若槻は…」
「ああ、これ彼が言い出したことだから。」
「若槻が?」
「ええ。あたしもたくさん手伝ったけどね。彼らしいアイデアだと思ったけど、みーんな大賛成!それはそうよね、ここにいる誰もがあなたにお世話になっているんだもん。」
「そっか…。ありがとう…って、若槻?」
「いつの間にかいなくなってる…。全く素直じゃないんだから…。あたし、探してくるね!」
 …思えばあの時から2人は親しげだったような気がする。人間は好きだけどここまで彼らの輪の中に入ったことはなかったから普通なら気付けるようなことにも気付けなかった。ああ、やはり人間って難しい!

 楽団が最後の盛り上がりを見せたのはちょうど2人が結婚した頃だっただろう。約束通り僕は盛大に親友を祝福したが、その裏では彼がどこか遠くへ行ってしまうのではないかという不安もあった。あの公演以降街に出張する機会も増え、そのせいか昔の感覚に懐かしさを覚えもう一度挑戦したいと言ってうちから離れていくメンバーもちらほらと現れた。もちろん彼らの意志は尊重したいし、僕が彼らを縛っていい理由はない。しかし、その現状がより一層僕の不安を掻き立てているのだ。
 「俺がここを離れる?何を言っているんだ、最初にも言った通り俺はここが自由で美しい場所だから気に入っているんだ。薄汚れ息苦しい都会に自らすすんで帰ろうとするなんて愚かな。…まあ出て行ったやつらのことはとやかく言うつもりはないがな。」
「そっか…ならいいんだ。」
「…俺が最初の1人であり、実力もあるからか?」
「え?」
「…わからないんだ、志都が俺に執着する理由が。」
「執着だなんて…」
いや、彼の言う通り執着なのだろうか。同族とも馬が合わず、人間のことも十分に理解できていない僕にとって親しい友というものがいなかったため、どう接して良いかわからないのだ。だからその”執着”という言葉を否定することも出来なかった。



 …これまでの軌跡の中に彼がここを去る理由はあっただろうか。いや他のメンバーが徐々に立ち去っても彼はここに残ると言ってくれた。新たにここに来る人々は確かに街での公演で”天才若槻淳一の復活”を知って来た者も多く若槻にとってそのような広告塔のような役割が苦痛であったとも考えられる。だがそれも彼がここを出ていく理由としては違うだろう。何故なら…
「…ここではなく街の方でまた活動したいと思ったんだ。だからすまないが…」
「どういうことだい?君は今まで何度も街でのしがらみから解放されるここが良いと言っていたじゃないか!…それともやはり名声が恋しくなったのかい?」
「…そんなものは必要ない。」
「じゃあなんで…」
「出産後遥が体調を崩すことが増えたのは知っているだろう?」
「え、ああ…確かに。振る舞いからは想像がつかないけど彼女は元々身体が弱い方だって勇も言ってたね。最近こちらに来ないのはもしかして…」
「ああ、厄介な病のせいでな。幸い勇と、あいつの恋人が子どもの面倒は見てくれているが…」
「勇に恋人?いつの間に…」
「知らなかったのか?街でちゃっかり捕まえたらしいが。それはさておき、流石に遥の治療費と子どもの養育費を稼ぐには不本意だが…」
「なんだ、物やお金の問題なら別に僕が…」
「…言うと思った。だがそれでは駄目なんだ。」
「どうして?さすがにお金を作ることはできないけど街で換金すればかなりの金額が得られるようなものはいくらでも…。それに薬なんかも作ろうと思えば作れるし…」
「だからそれが駄目なんだよ!」
「…!」
「わかってたさ、元々俺たちは違う、俺は”施される側”、下だってことぐらい!」
「別にそんなつもりじゃ…」
「そのつもりがないなら尚更たちが悪いな。知ってるか?街では”月城のやつらは働かなくても衣食住が保障されている遊び人だ”などと噂されているんだぞ。もちろんここにいる誰もが音楽を楽しみ、一生懸命なのを俺は知っている。だが外から見ればそう見えているんだ。」
「ごめん…僕のせいで…」
「…志都は志都のやり方で俺たちに協力してくれたつもりだったのだろう。別にそれ自体を責めるつもりはない。だが俺たちはあまりにも相性が悪すぎたんだ。…じゃあ。」
「待って…!」
「…」
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