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第4章:俺の声を聴け!

231:金弥の背中

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 八歳の頃、金弥は自転車を持っていなかった。

『おい、キンヤ!お前、チャリは?』
『え、えっと』

 ヒデに『チャリは?』と尋ねられ、口ごもる金弥は、普段からは想像がつかないような曇った顔で俯いた。そんな金弥に、他の友人達も一斉に金弥に詰め寄る。

『今日、隣町のプールまで行くんだぜ?走って行くつもりかよ!』
『もしかして、キンヤ。お前、チャリ乗れねーんじゃねーの?』
『確かにキンヤって、いっつも走って遊びに来てたもんなー』
『二年にもなって、チャリに乗れないなんてダッセー!』

『……ち、ちがう!チャリくらい、乗れるし!』

 小学二年生の夏休み。
 ヒデ達と一緒に隣町のプールまで行こうという話になった。ちょうどその頃、皆、親から自転車を買って貰ったばかりで、遊びの行動範囲が広まりつつある時だったのだ。かくいう俺の自転車も、最近買ってもらった新品である。

『オレは走って行くから大丈夫!』
『はぁ?そんなん時間かかるじゃん!』
『やっぱキンヤ、チャリ乗れないんだ!』

『乗れるって言ってるだろ!』

 ただ、プールの提案が出た時から、俺は少し気になっていた。だって、金弥はまだ自転車を買って貰えていない。金弥の家は貧乏だったから。新しい自転車なんて、すぐ買って貰えるワケがない。
 でも、それを知っているのは、家が隣で幼馴染だった“俺”だけだ。

『……キン』
『ねぇ、サトシ。オレ、チャリ乗れるよね?』

 金弥が悔しそうな声で俺に問いかけてくる。そんな金弥に、俺は自分の跨る新品の自転車を見て、胸が苦しくなるのを感じた。金弥は自転車を持っていない。だから、もちろん乗る事も出来ない。

『そうなの?サトシ』
『でもキンヤがチャリに乗ってるの、オレ一回も見た事ねーよ!』
『キンヤはチャリに乗れねーんだろ!?』

 隣町まで行くとなると、近所で遊ぶのと違って歩いて行くワケにはいかない。だから、絶対に自転車が必要になる事が分かっていたのに、金弥ときたら『いいじゃん!行こうぜ!』なんて二つ返事で応えていた。
 だから、どうするつもりなのだろうと思っていたが――。

『……オレ、ちゃんと乗れるし』

 金弥は新品の自転車にまたがるヒデ達の前で、その小さな拳を握りしめて俯いた。そんな金弥に俺は太陽の照り付ける中、小さく息を吐いた。

『キンのチャリさ。今、こわれてんだよ』
『そうなん?』
『うん、だから修理に出してるんだ。なぁ、キン?』

 俺が問いかけると、それまで俯いていた金弥が勢いよく顔を上げた。そして、そのまま大きく頷いてみせる。

『そう!だから今日はたまたまねーの!大丈夫!走ってついて行くから!オレ足速いし、普通にチャリで皆行ってていいから!』

 まったく、本当に金弥のヤツは何も考えていなかったらしい。それでよく、あんな自信満々に『行く!』なんて言えたもんだ。

『先に行っててもいいって……』
『ぜってームリだろ』
『大丈夫だって!オレ、三年より足速いし!すぐ追いつく!』

 三年より足が速くても、さすがに隣町の市民プールまで走るなんて無茶だ。それでも、きっと金弥は走って付いて来ようとするのだろう。この夏の暑い中を。コイツはそういうヤツだ。

『キン、今日はオレの後ろに乗って行けよ』
『へ?サトシの?』
『おい、サトシ。お前二人乗りなんて出来んのかよ』
『出来るし。でも時間がかかるだろうから、ヒデ達は先に行ってろよ』

 俺がそう言うと、ヒデ達はやっと納得したのか自転車に乗って先にプールへと向かった。この暑さだ。もともと早くプールに行きたかったのが、その遠のく背中からも分かる。普段なら、ヒデも皆も金弥にあんな言い方はしない。

『……サトシ』
『キン、行くぞ』

 どこか気まずそうに此方を見てくる金弥に対し、俺は金弥の前に自転車で回り込んだ。

『キン、乗れ』
『……どうやって?』

 ヒデ達が居なくなった途端、金弥の口調が一気に保育園の頃みたいになった。最近ではあまり聞かなくなった。まだ金弥が自分の事を「キン君」と呼んでいた時の喋り方だ。
 金弥は自転車を持っていない。だからもちろん、自転車には乗れない。二人乗りも、初めてだ。それは、俺も同じ。

『多分、ここに足をかけて……ここに座る。で、オレの肩に掴まって』
『……できるかな?』
『やってみよう』

 そうやって道の脇で、何度か二人乗りを試みた。でも、無理だった。

『うわっ!』
『いたっ!』

 新しい、乗り慣れていない自転車。まだまだ体の小さな俺。それを同じ背丈の人間を後ろに乗せて自転車を漕ぐなんて、そもそも無理な話だったのだ。バランスを取る事はおろか、漕ぐなんて考えられない。

『イタたっ』
『……サトシ、もういいよ。きん君、走るから』
『キン』

 いつの間にか、自分の呼び方が“オレ”から“きん君”に変わっていた。熱いアスファルトの上で、体操座りをしたまま俯く金弥は、本当にいつもの“主人公”みたいな金弥とは似ても似つかなかった。

『きん君、かっこわるいね』

 金弥の顔が見えない。でも、なんだか金弥には申し訳ないが、出会った頃みたいな金弥の姿に、俺は少しホッとしていた。最近、俺はいつも金弥に置いていかれているような気がしていたから。金弥も、まだまだ俺が居なきゃダメなんだって思えて嬉しかった。

『キン、お前格好良いよ。オレと同じくらいな』
『……うそ』
『ウソじゃない。なぁ、キン。一緒に公園行こう』
『なんで?』

 金弥は未だに俯いたまま体操座りをしている。表情は見えない。どうやら完全にスネてしまったらしい。
 まぁ、気持ちは分からなくもない。だって、自転車が買って貰えないのは金弥のせいではないのだから。もちろん、お母さんのせいでもない。誰のせいでもないから、金弥も悔しいのだ。

『キンがチャリに乗れるようになる為に練習すんの』
『なんで?きん君、どうせ自転車持ってないのに』
『だからだよ』

 俺は倒れた自転車を起こすと、体操座りでスネる金弥の前に手を出した。チラと金弥の控えめな視線が、俺の手へと向けられる。

『キンなら、すぐに自転車に乗れるようになるだろ?そしたら、キンが自転車を漕いで俺を後ろに乗せて走ったらいいじゃんか』
『え?』
『キンは体育得意だし、三年より走るの早いだろ?だから、自転車もすぐ乗れると思うし、上手だと思うんだ』
『う、うん』
『そしたら、オレを後ろに乗せてキンがチャリをこぐんだ』

 金弥の顔が俺の方を向いた。その顔は、真っ赤。あぁ、これは暑いからじゃない。金弥は嬉しいと顔が真っ赤になるんだ。ほらな、金弥の機嫌は完全に直った。

『な、良いアイディアだろ?』

 ポイントは金弥をちゃんと褒める事。体育が上手くて、三年より足が速い事は金弥の自慢だ。まぁ、それが無くても俺を乗せて二人乗りしようって言ったら、金弥は絶対に機嫌を直すって分かってた。
 だって、金弥は俺に格好良いところを見せたいっていつも思ってるから。体育が上手なのも、三年より足が速いのも、全部俺に格好つけたくて頑張ってるんだ。

『きん君が、サトシの後ろに乗るんじゃなくて……オレの後ろに、サトシが乗るの?』
『そう』

 自分の呼び方が『きん君』から『オレ』に戻った。
 そうそう、俺を後ろに乗せる為には、金弥がまず自転車に乗れるようにならなければならない。

『サトシ!公園に行こ!自転車乗る練習しないと!』
『おう!』

 先程まで拗ねて座り込んでいたのが嘘のように、金弥は一気に立ち直った。ピョンと軽やかに立ち上がり、そのまま俺の隣を駆け抜けて公園へと走って行く。そんな金弥の背中を、俺は自転車に乗って追う。自転車だから、すぐに隣に追いついた。


 そこから、金弥は俺と一緒に自転車に乗る練習を始めた。

『オレが後ろ持っててやるから、キンはたくさんこげ!』
『うん!』

 俺は、練習の時にお父さんにして貰ったように自転車の後ろを掴んで一緒に走った。フラつく金弥の背中を見ながら、俺は走る。


『サトシー。まだ持ってるー?』
『持ってるー!』


 金弥に置いていかれているようで、背中を見るのは嫌だったけど……こういう背中は嫌じゃないな、と俺は思った。


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