ロングロード

酒原美波

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第二章 愛の意味

ロングロード

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1.新たな魔術師
「ここへ自力へたどり着いた以上、君は私の弟子だ。君の子供ともども、歓迎しよう。新たな仲間として、我が塔へようこそ」
 ディアーヌ小塔の長はベッドの上で起き上がって胃に優しい食事を取っているフリージアに言った。ディアーヌ小塔の長は、茜色の髪を結い上げた豊満な美女だが、研究がてら農作業をしているので作業着を着ており、腕には筋肉がついていた。
「はい、こちらこそ行き場のない私達を受け入れてくださり、ありがとうございます」
 フリージアはホープを腕に抱きながら、笑顔で礼を言った。まだベッドから出られるほど体力は戻っていないが、ベルンスタイン家で泣いてばかりで、それでも自己主張をしなかったときとは大違いだ。
「ところで名前のことだが、いい名前ではあるが、ショウコ・アヤノコウジってのは言いにくいね。ショウ・アヤノで構わないかい?」
「あの、出来れば違う名で。ショウ・アヤノコウジは前世の名前ですから。息子がホープですから、私もそれと似たような名前にしたいなぁと考えているのですが」
「それはいいかもね。ベッドで寝ているだけなのも暇だろうし、納得いくまで考えてればいいよ」
 ディアーヌ小塔の長は、フリージアが食べ終えた食器を下げた。食器と共にディアーヌ小塔の長がで出ていってしばらくすると、この塔所属の魔術師であるガーベラ・スバルと、エイプリル・ブラッサムがきた。2人は共に元人間だったが、花の魔術師の才能を見出されて入塔を認められた。
「ショウコ、赤ちゃんを抱かせて。塔では赤ちゃんを見る機会が滅多にないのよ。だいぶ昔に、カーネーション小塔のハンナが旦那さんとの間に子供を作って以来かな。塔で結婚する者はいても、子供を作る夫婦は珍しいの。あー、可愛い。プニプニホッペ!」
 エイプリルは手慣れた調子でホープを抱き上げて頬ずりをする。天上界に来てから恋人も夫もいないが、前世では5人の子供の母親だったというから赤子の世話も手際よく手伝ってくれる。
「こんな可愛い子を見ると、私も欲しくなっちゃうわ。でも魔術師やってるとどうしても、出会いの場は小塔の中か、買い物先など限られた場所ぐらいしかないし」
 ガーベラはため息をつく。そしてエイプリルと「ウチの塔の男どもはダサいのばっかでさー」と愚痴を並べ始めた。
 フリージアが話の合間に、自分の名前について相談する。すると普通の元人間が、どうやって名前をつけるかを教えてくれた。
「私らは、最初は記憶がないから、天上界でまず仮の名前をつけられるわけよ」
「で、大半は適性のある天上界へ送られるけど、私やエイプリルのように魔術持ちと判定されると、軍人か魔術師になるか選別されるために特殊学園入りするわけ。学園入学のときにはある程度記憶が戻って知識もあるから、自分で考えた名前をつけるの」
「面倒がって、そのまま天上界からもらった名前のままの人も居たわよ。大抵は男子だったけど」
「ショウコも、自分の好きな名前をつければいいわ。自分の名前を考えるって、楽しいわよ」
 赤子をあやしながら口々にアドバイスした後、先輩魔術師から「早く仕事へ行け」とドア越しに叱られて、ガーベラとエイプリルはフリージアの部屋から出ていった。
「名前かぁ。私は前世でも結婚や出産には無縁だったし、飼ってた猫の名前しかつけたことないわ。タマ、ミケ、トラ…センスのなさが伺える」
 フリージアは眠ってしまった我が子を抱いてベッドヘッドに寄りかかり、カーテンを開けて階下の庭園を眺めた。
 花の研究所だけあって、小塔といえどとにかく花畑が広い。地平線の向こうまで畑が広がっていて、草花や花木がパッチワークのように広がり、そこへ点々と温室がある。畑で働いている人もチラホラ居れば、温室や研究室に籠もっている魔術師達も多いという。畑作業をしているのは、見習い魔術師や魔術師助手として雇った者が大半だとか。
「名前…好きな植物は庭の梅や牡丹だったわね。でもこの世界で和風の名前はそぐわない気がする。かというって薔子だからローズというのも柄じゃないし」
 フリージアは考え込む。前世で好きな花は沢山あった。そう言えば、大軍団世界のベルンスタイン邸の窓からオレンジの巨木を見てオランジェなんて考えたこともあったっけ。でもあの家のことは、ホープのこと以外は全て忘れたい。思い出すだけで、まだ回復しきっていないにも関わらず魔力が暴走しそうだ。
「夏のはじまりの、散歩中に嗅いだスイカズラの花。藤の花に似たニセアカシアの花、好きだったな。早春の野原のタンポポ、スミレ、クローバー」
 思い起こすと、人間だった当時の幸せだった思い出と共に好きだった花が記憶に蘇る。派手派手しい花より、可憐な花が好きだった。

「私、アカシア・スワローにします。名前、被った方は居ますか?」
 夜、訪ねてきたディアーヌ小塔の長に告げると、「いいじゃないか」と褒められて、フリージアは『アカシア・スワロー』と中洲世界に登録されることになった。
「体力が戻ったら、まず魔術制御から教えないとね。怒りの度に、塔を揺らすのは勘弁して欲しいから」
 おどけてディアーヌ小塔の長は言ったが、フリージアからショウコ、そしてアカシアへ名前を変えたアカシア・スワローは顔を赤くして俯いた。
「そんな深刻にならなくていいさ。君はそれだけ辛い思いしてきたのだし。感情を整える鍛錬も兼ねて、魔術制御を覚えていけばいい」
 ディアーヌ小塔の長は微笑んだ。
 後日、フリージアが考えていたニセアカシアと、本物のアカシアは全く別物と判明した。ニセアカシアの花は白くトゲが鋭いが、本物のアカシアはミモザに似た黄色の花だった。

 アカシアがベッドから出られるようになったのがここへ着てから半月、部屋を出て基礎魔術をディアーヌ小塔の長から学び始めるまでには1か月かかった。
 ホープは平均より発育が遅く、いまだ授乳を必要としている。天上界人に生まれた子供の成長はマチマチというが、成長が遅いのは魔力量が多い子供の特徴なのだそうで、現にディアーヌ小塔の長が鑑定したら、高レベルの魔力量を保持しており、成長したら正式に中洲の魔術師の資格が得られると言われた。父親がもともと魔力量が多いから遺伝したのだろうが、アカシアとしては魔術師になるならともかく、軍に志願したいと言われたらと思うと心中複雑だ。
 ディアーヌ小塔の長の指導は厳しかったが、アカシアは楽しみながら必死に食らいついた。「もう私は人形じゃない!」と、喜びを込めて。
 ちなみにホープは、スノードロップ小塔の女魔術師のアイドルで、皆がこぞって世話をしたがるものだから、アカシアは心置きなく魔術訓練に励むことが出来た。

2.後悔
 話はアカシアこと、フリージアが大軍団世界のベルンスタイン侯爵邸の一部を破壊して逃亡した頃まで遡る。
 異変に気づいて駆けつけたルシアードは、フリージアの魔力残滓から、彼女こそが宿命の相手だったのだと気づいた。すぐさま最上級魔術師たちが暮らす中洲へ駆け込んだが、まず最初の結界に阻まれた。ルシアードは懸命に妻との面会を望んだが、中洲世界は彼を拒絶した。
「本質を見ようともせず、自分のやらかした罪に向き合えぬ者に、中洲が受け入れた新たな魔術師に会う資格はない」
 中洲全体の統治者であるアンブラル陽の大塔の長の念話が直接ルシアードの頭の中に響いた。
 ルシアードはそれでも諦めずに何度も懇願したが、中洲の強固な結界は、ルシアードでも破ることは出来なかった。

「そりゃ、おまえの自業自得だな。子供まで作ったのに側室にさえせず、欲望のはけ口にしかしていなかったら、そりゃ相手の女性も怒るに決まってるだろ。猛省することだな」
 相談に乗った親友のアベル第8騎士団長は呆れ返って言った。
「まさか後天的に宿命相手だと分かるなんて、誰が見越せるっていうんだ。こんな事例、今まで聞いたことないぞ!」
 ルシアードは悔しさを込めてテーブルを叩いた。アベルが事前に察して、テーブルの上のティーセットや花瓶を宙に浮かせていなければ、紅茶は飛び散りカップは床に落ちて割れていただろう。
 アベルは眉をひそめたが、それはルシアードに対してではなかった。
「常々、俺はあの選定神殿制度には反対だったんだ。元人間から記憶を抜いて感情をなくし、娼婦娼夫の役割を延々とさせるなんて正気の沙汰じゃない。もしかしたら、これまでも宿命相手と出会っても気づかなかった、気づけなかった事例はあったかもしれない。なにしろ相手は生き人形にされていたんだから」
 アベルはティーセットと花瓶をテーブルに戻し、ミルクティーを飲んだ。次にアベルは、ルシアードへ苦言を呈する。
「せめて、おまえがお気に入り女性を側室にして誠心誠意尽くしていれば、自然と枷は外れて彼女は本当の姿を見せたかもしれない。だが、これまでの状況を振り返ってみて、おまえは彼女に何した?どう扱った?その結果が魔力爆発を起こして中洲へ逃げ込んだ結果だ。よく反省しろ」
 アベルの言葉は全てルシアードの胸に突き刺さった。ルシアードは、フリージアを欲望のはけ口としか見ていなかった。放置と嫉妬をフリージアにぶつけて傷つけてきた。それがこの結果だ。
「…まあ、相手も覚醒した以上、遠からず体の制御は効かなくて地獄の苦しみを味合うことになるだろう。そうなったらおまえのもとへ戻るしかない。その時は、宿命の妻として丁重に扱え。これまでの謝罪も含めてな」
 アベルは紅茶を飲み干して立ち上がる。
「これまでにも相手の人権を無視して、結局は相手の心を壊して取り返しのつかない事例になった件も多い。彼女自身を失わず、中洲に逃げ込んでくれただけ感謝するんだな」
 アベルはそう言い残して、第8騎士団棟の応接室から出ていった。
 アベルの言う通りだった。ルシアードは、フリージアに酷い仕打ちしかしてこなかった。相手が反論しない従順な娘で、しかも選定神殿出身というのを見下していた。娼婦に堕ちるところを救ってやったと、ルシアードは救世主気取りにもなっていた。それがこの結果だ。
 戻って来るのを待ちわびるしかない。頭ではそれが分かっている。だがフリージアが宿命の妻だと分かった以上、その日が来るまで耐えるなど到底無理だった。
「あの美しく儚げな姿に恋をする男どもも多いはず。そんなの嫌だ。俺以外をその瞳に映し、笑顔を見せるなんて許せない!」
 ルシアードは再び中洲世界へと向かった。今度は力ずくでフリージアを取り戻すために。しかし中洲の張った3重の強固な結界を、魔力量豊富なルシアードさえ破ることは出来なかった。

3.副作用
 アカシアは、ホープをおんぶ紐で背負ったり、仲間の志願による子守で、魔術師見習いとしてスノードロップ小塔の花の世話をしていた。前世は花を見るは好きだったが、花を育てようと思ったことはなかった。虫、特に芋虫や毛虫の類が苦手だったからだ。
 だが実際にやってみると楽しかった。これが1人で黙々とする作業なら嫌になるかもしれないが、沢山の魔術師見習いや魔術師助手と和気あいあいしながらやれたから楽しかったのだろう。それでもごくたまに、毛虫と「こんにちは」して絶叫するアカシアだったが。
 記憶を消されていた選定神殿も、大軍団世界のベルンスタイン侯爵邸でも庭園散策さえ認められなかった。だから外の空気が心地よくて、燻っていたルシアードへの憎しみが和らいでいくのを感じる。
 当初は男性が近づくと条件反射で身構えていたものの、最初に仲良くなった元人間魔術師のガーベラやエイプリルの仲介で、まず女魔術師から、それから魔術師見習い、魔術師助手など輪を広げていって、男魔術師たちとも身構えずに立ち話できるようになった。
 体を動かす仕事は精神的にもよく、夜中の授乳は欠かせないが、仕事を始めるようになってから、エイプリルとガーベラがアカシアの寝室にベッドを運び込み、交代で泊まり込んでアカシアが眠るようにしてくれた。アカシアが疲れ果てているときは、友人のどちらかが赤子用のミルクを作って哺乳瓶で飲ませたり下の世話をしたりしてくれて、アカシアは休息を充分取ることが出来た。
 穏やかな日々の中で、暗い過去は忘れられると思っていた。だが心身がほぼ回復した頃からアカシアに異変が起こり出した。
 最初は体の火照りを感じていたが、夢でルシアードと交わるのを見て飛び起き、体が欲情していた痕跡があることが汚らわしくて慌てて浴室に向かった。夢だけでもなく日中もルシアードとの幻覚が出てくるようにかり、作業に支障をきたすようになった。
「覚醒前だったとはいえ、宿命の相手と関係を持ってしまったのがマズかったな。覚醒して、本格的に発情が始まってしまったのだろう」
 ルシアードを求める体と、拒絶する心とのせめぎ合いで、アカシアはとうとう倒れてしまった。
 ディアーヌ小塔の長は事態を重く見て、自分の寝室の隣の客用寝室にアカシアを運び込んだ。
「中洲の魔術師は日々の生活で少しずつ『澱』を燃やしているんだ。だが君のように発情が始まってしまった場合は、陽の大塔で魂が消滅するギリギリまで聖なる炎で宿命そのものを燃やすしかない。それを使えば消し炭となって、7割は消滅。仮に命を取り留めたとしても、少なくとも1年は特殊カプセルで黒焦げ仮死状態で寝たきりだ。魔力量にもよるが、完全再生復帰まで少なとも約5年はかかる。愛する子供がいる君に、その選択を選べるかい?」
 アカシアはギュッと息子を抱きしめて首を振る。まだホープは離乳の段階ではないし、そもそも聖なる炎で肉体を焼くのは相当のリスクがあって、必ず成功するとは限らないのであれば、ホープは1人きりなるか、あるいは父親に引き取られる2択となる。まだここで育ててもらえれば幸せだが、未だ宿命の相手が見つかっておらず、側室も置いていないルシアードにとってホープは今のところ唯一の血の繋がった息子となるわけだから、軍人にさせよう強制するかもしれない。
 それに宿命相手の運命を聞かされて、アカシアはゾッとした。一度結ばれた宿命の絆は、最初の後継嫡子を生む役目を果たさない限りは、聖域の聖なる泉に永久封印でもされない限り、転生しても再び同じ相手と宿命で結ばれるのだという。それは仮に魂が消滅しても、塵一つ分の魂の欠片さえあれば続く、まさに呪いの輪廻転生。
「治験段階だが、これまでより強力に発情を抑える薬が薬師の大塔世界で開発されている。しかし、まだ治験者が少ないため、どんな副作用がでるか分からない。第一、君は授乳をしているから服薬は無理だろう」
「ではどうすれば…」
「少なくともホープが成長して通常の食事を取れるようになるまでは、ひたすら耐えるか、宿命相手に体を鎮めてもらうしかないな。いや、君がこの状態なら向こうはもっと酷い状態だろうから、直ぐに後継嫡子を孕まされることになるだろう。このままホープを育てたいなら、部屋に閉じこもって耐えるしかない。出来るかい?」
「もちろん、耐えます。そしてホープが育ったら治験薬でまず発情を抑え、この子が独り立ちできるようになったら、陽の大塔で宿命そのものを焼いてもらいます」
「失敗するリスクが高くても?」
「可能性に賭けます。私は息子のために、必ず生き残りますから!」
「そうか…」
 ディアーヌ小塔の長はため息をつく。「中洲がもっと早く君に魔術師の才能があるのを見抜いていればな」とため息をつくと共に、ブラックコーヒーを飲む。
 前世から無類のコーヒー好きだったアカシアはツバを飲み込むが、ホープを育てるためにカフェイン飲料は我慢していた。アカシアにはサイドテーブルに、ハーブティーが置かれている。
「もしも発情が耐えきれないほど辛い時の方法を一つだけ教えておくよ。その場しのぎの頓服みたいなものだが、他の男性と関係を持つことだ。まあ君のことだから、それをするぐらいならナイフで太腿を刺してでも耐えきると思うが、一応のアドバイスだ」
 ディアーヌ小塔の長は、アカシア親子を残して客用寝室を出た。

 花の大塔世界は、植物繋がりで薬師の大塔世界とも関わりが深い。アカシアの友人たちは、知り合いの薬師魔術師に相談をして、授乳に影響のない発情抑制のハーブティーを調合してもらった。気休め程度だが、それでも多少は楽になった気がする。
 中洲の魔術師はあらゆる耐性を身に着けているので影響がないが、見習い魔術師や魔術師助手だと発情期の影響がでるため、アカシアの庭園仕事は禁止となった。
 アカシアはこの機会に、花について本格的に勉強しようと塔の蔵書を片っ端から読み始めた。幻覚は気を抜くと不意に出てくる。そんな時は息子を抱きしめて、現実に縋りついた。

 スノードロップ小塔に指折りの魔術師がいた。セシル・レイヴンという漆黒の髪と灰色の瞳をした青年で(魔術師は自在に容姿年齢を変えられる)、彼は青い百合の研究をしていた。野生では薬効成分の高い幻とも呼ばれる青い百合は、畑や温室で育てると途端に効果が1割まで下がる。見た目も神秘的なので、効果が薄くても需要は高いが、セシルは幻の青い百合の薬効を既に野生種の5割まで高めることに成功した。目標はもちろん野生と変わらないほぼ十割の薬効成分を保持した栽培種の開発。
 温室の中で青い百合は夕方から夜半までに咲き、薬となるのは花粉。花粉は上級ポーションの材料になるので、野生より5割劣るにしても、薬師の大塔世界から注文が殺到していた。花粉を取った花も小塔直営の花屋に卸すと飛ぶように売れる。
 これだけの資金源となる温室は規模も大きく、通常の正規魔術師なら1つの温室が与えられるところを、セシルは3つの温室の所持を許可されていた。本来なら魔術師見習いか助手に手伝わせないと追いつかないが、貴重な研究材料兼スノードロップ小塔の大きな資金源でもあった栽培種の青い百合を盗み出した裏切り者がいて、その者は花の大塔世界から追放処分になった。警戒心の強いセシルはそれ以降、温室には誰にも入れなかった。
 そんなセシルが、花粉集めの作業助手としてアカシアを指名した。小塔の長が暮らす塔の上から、窓越しにいつも羨ましげに畑を眺めているアカシアを、セシルは何度も見ていたのだ。
 前述の通り、正規の魔術師はあらゆる耐性を身につけている。見習いや助手のいない畑の一画にある温室の中なら、仮にアカシアが発情で苦しんでもセシルなら魔力で制御することが出来る。
 最初にこの話を持っていったとき、アカシアは躊躇った。男性と二人での仕事ということもあるが、貴重な青い百合の温室の中で発情が暴走するのが怖かった。
 するとホープの面倒は、引き続きガーベラとエイプリルが交代してみるからと申し出た。2人はアカシアが職員が寝起きする館から、小塔の長の居住区である塔の上に移されて以降も、赤子の世話と発情で苦しむアカシアの世話を焼いてくれた。ディアーヌ小塔の長も、「気分転換に丁度いい」と、アカシアを半ば追い出す形で、人が引き揚げた薄暗い畑へ追いやった。

 セシルは寡黙だが的確な指示をする人で、博識だった。百合の温室と聞いた時はむせ返るほど匂うのではないかと案じたが、香りはむしろ鼻腔だった。その匂いも花に顔近づけないと嗅げない程度で、不思議に思っていると「野生の青い百合は、動物に捕食されないよう、自己防衛本能から香りが少ないんだ」と教えてくれたり、「この花粉は回復系ポーションの材料となる」など、簡単な薬学講義もしてくれた。
 懸念した通り、たまにアカシアの持病が出た時には「毒ではないから」と、独自調合した紅茶を飲ませてくれた。スッキリした味わいのそれを飲むとたちまち回復したので「何を使ったのですか?」とアカシアが尋ねると、「青百合の花粉とレモンミント、そこの一画にある無農薬栽培の青バラの実を紅茶にブレンドした」と、青百合の温室の片隅に20鉢ほどある青バラを示した。温室最奥にあるので、アカシアはこれまで気づいていなかった。
「青バラって、結実しにくいと言われてませんでしたが?」
 アカシアは蔵書室で本で、それを読んで知っていた。
「俺もその作用は期待していなかった。ただ青バラを置くと成長促進に良いことは、他の植物で立証済みだから、もしかしたら青百合にも効くかと思って置いてみたんだ。青百合の成長にもよいし、花粉の薬効成分も5%ほどだが上がった。青バラが結実まで始めたのは、予想外の相乗効果だな」
 セシルは丁寧に開花したばかりの青百合から花粉をハサミで切り落とし、瓶に入れた。乾燥させるよりも真空保存したほうが薬効成分が保てるのだとか。
「青バラの実にも、何か効能はあるのですか?」
「むしろいま、青百合の花粉よりも、そっちに薬師の魔術師たちは着目している。上級ポーションは貴重な薬草を何種類も大量に使うが、青バラの実を少し混ぜると薬草の量を三分の一まで抑えられることが分かったらしい。効能というか、他の薬効成分を上げる媒体の役目が高いようだ。だがどの青バラでもいいわけではなく、『蒼穹』という原種に近い品種の青バラが一番効果があるのが研究で判明した。改良種は色鮮やかで香りもいいが、薬効となるとリラクゼーションぐらいだからな。ああ、そうか。おまえの部屋にも改良種の青バラを飾ったらいい。香油だと赤子に悪いが、生花ならウチだとシャルルが育ててるから、販売用にならないものなら、タダでくれるぞ」
 花の大塔世界では、どこの小塔でも運営資金のために切り花や鉢植えを売っている。青バラは天上界でも人気だが栽培が難しいので、花の大塔世界へ貴族から多くの注文が殺到しているのだ。そのため人気品種を大量生産している小塔もあれば、新品種改良に力を入れている小塔も多い。スノードロップ小塔は、『スカイブルー』という明るい青で香りも爽やかな人気品種を育てて販売しているが、改良着手は今のところしていない。青バラの品種改良はとても難しいので、スノードロップ小塔では他と同じことをしても意味がないと、別の色のバラの品種改良が盛んに行われていた。
「それだけ薬学にお詳しいのに、薬師の魔術師になろうとは思わなかったのですか?」
「調合魔法は難しいし、それに薬師の大塔世界はどこの小塔もヒマがないほど忙しいぞ。なにしろ軍をはじめ様々な場所からポーションだけでなく、薬の調合注文も多く入ってくるからな。勧誘はされたが、勧誘に来た奴が目の下に大きなクマを作って『楽しいですよ』と言われても、ドン引きするしかないだろう」
「先輩は、生粋の天上界人なのですか?」
「両親とも中洲の魔術師だ。両親は陽の大塔世界の魔術師で、兄姉弟妹も、どっかしらの中洲の大塔世界に点在しているな」
「トップエリートの家系なんですね。凄いです」
「ああ、凄いぞ。家族が喧嘩を始めると、家だけじゃなく土地ごと吹き飛ぶ。まあ陽の大塔世界なんていつも何処かで爆発しているから珍しくもないが、だからこそ子供達の巣立ちも早いんだ。静かな環境で暮らしたいという理由でな。それでも両親は子供好きで、いま末っ子は5歳かそこらだと思う。ウチの兄弟の暗黙の約束で、末っ子のすぐ上の子供は、末っ子を守るために次子が産まれるまで家に留まらねばならない。いま残っているのは弟のネイトか。あいつ、早く独立したいとこの間も手紙を送ってきたな」
 セシルの話を聞いて、『中洲』の魔術師は偉いほど、常識がぶっ壊れてると言うのが真実なんだと、アカシアは改めて思った。
 3つの温室から花粉を採取し終えた頃には、夜が明け始めていた。アカシアはそのまま塔へ戻り、セシルは引き続き今度は花屋に卸す切り花作業に入るという。手伝いたいのは山々だったが、「早く子供のところへ帰って寝ろ」とセシルに命じられて戻った。
 久々の仕事は楽しかったなぁと、昨夜の世話役だったガーベラからホープを受け取ると、眠っていた息子は母親の腕に抱かれるなり目を覚まして「キャッキャッ」と嬉しそうな声を上げた。

4.初恋
 アカシアが夜間仕事に出るようになって1か月が経過した。セシルの調合した薬草茶のお陰でこれまで順調に作業できたが、日毎に発情が酷くなるのをアカシア自身も自覚していた。セシルは調合を微妙に変えつつ、発作が起こった時は冷静に薬草茶をアカシアに飲ませた。
 そんな寡黙な優しさにアカシアが惚れないわけがない。いつ頃からか、夢に出てくる相手がルシアードではなくセシルに変わっていた。お陰で仕事場でセシルと顔を合わせるのが恥ずかしくなった。
「そう言えばウチの子、やっと歯が生えてきたんです。まだ暫くは哺乳瓶で飲ませる必要がありますが、やっと薬が服用できる先が見えてきました」
 ホープに歯が生え始めたのに気づいたのは、仕事から戻った今朝のことだった。いつも通りの授乳の際に齧られてつい悲鳴を上げた。
「ぼちぼち離乳を始めないと、アカシアも辛いだろうね。まずは授乳を今日で終わりにして、哺乳瓶ミルクに切り替えよう」
 ディアーヌ小塔の長が塗り薬を患部に塗って、アカシアに言った。アカシアは寂しさを覚えつつも、あの激痛にずっと耐えるのは辛いと思って、今日で授乳は終わらせることにした。今日は授乳を終えるたびに、ディアーヌ小塔の長から貰った軟膏を患部に塗りつけた。
「そうか。よく我慢したな」
 セシルは言葉少なく微笑んだが、彼の脳裏には「離乳が一番大変なんだよなぁ」と弟妹たちの当時の様子を思い浮かべた。ともかく急に断乳されると、愛らしい赤子はギャン泣きで、母親はもちろん家族も夜はろくに眠れない。どんなに叫んで無理なものは無理と自覚させるまで、この泣き声地獄は続く。
「これまでの薬草茶と違って、抑制薬を使えばだいぶ楽になれるし、昼間も皆と一緒に仕事ができるだろう。良かったな」
「ありがとうございます。でもお一人での摘み取り作業、大変ではありませんか?お手伝いが必要なら、私、引き続きやりますよ?」
「それは平気だ。見習いや助手は入れないが、これまでも悪友どもには手伝わせてきたから。アイツラにはコッチも貸しが溜まっているから、こき使ってやらないと」
 セシルは笑う。優雅とは懸け離れているが、心からの笑みだ。
 ルシアードが美しいヒョウだとしたら、セシルは狼だった。それぐらい対照的な容姿だが、中身はルシアードが猫科特有の気まぐれな猛獣系で、セシルは警戒心が強いが一旦懐に入れた者にはとことんまで優しく他者の気持ちに寄り添える寛大さを持っていた。
(本当に、この人が私の宿命の相手だったら良かったのに。生粋の中洲の魔術師の出自からして、宿命の相手はもともと必要ないけれど)
 アカシアは物思いに耽りながら、花粉の摘み取りを行った。

 ホープの離乳は意外とあっさり終わった。元々が通常の赤子の3倍ほど授乳していたこともあってか、ホープ自身も執着はなかったようだ。ドロドロの離乳食を与えると、頬を両手に当てて喜ぶ。これ、エイプリルの癖が移ってる。エイプリルも美味しいものを食べると両手を頬に当てて感激するのだ。
 翌日からアカシアは、抑制剤を服用することになった。
(今夜で、セシルとのお仕事もおしまいね)
 人が消えた畑の露地を歩き、行き慣れたセシルの温室に向かった。今夜は半月。それでも前世の人間界にいた時より、星は夜空に多く瞬いているのが見えた。
「あ、流れ星。天上界でも流星は見れるのねぇ」
 妙な感動を覚えながら、セシルの温室へ「本日も宜しくお願いします」と声をかけて入った。

 セシルとはこれっきりかと思っていたが、「抑制剤の効果出てからでいいから、今度は早朝に切り花を手伝ってくれ」と言われて、アカシアは心の中で歓喜した。
 抑制剤は副作用もなく効果を発揮し、あれほど辛かった症状から解放されて、アカシアは晴れ晴れとした気分だった。
 数日後の早朝から、通い慣れたセシルの温室へ出向き、花粉を採取した青い百合を切ってバケツに入れていき、花屋へと往復した。この作業は重労働なので、他の正規魔術師も参加していた。初めて入った小塔直営の花屋には、温室や畑で育った花がところ狭しと並んでいた。だが青い百合は全て、隣の花の貯蔵庫に収納するよう指示された。全て予約売約済みで、店頭に並ぶことほぼないそうだ。
 花屋は正規魔術師女性がローテーションで行う。研究が佳境になった者は外されるが、大抵は三人一組で花屋を切り盛りする。とはいえ、花は飛ぶように売れていくので、昼には完売して閉店となるのだとが。
 アカシアは見習いの段階だが、ガーベラとエイプリルと組んで花屋のローテーションに入った。2人と組んでいたプリシラが、ハエトリソウの花の改良の佳境に入ったというので、抜けた穴にアカシアが入ったわけだ。
「花屋での仕事の良さは、お茶とお菓子が食べ放題なところよ」
 エイプリルは、頬に手を当てて嬉しげに説明する。
 人気品種の花は事前予約で従者が取りに来るが、花の大塔世界の珍しい品種を求めてやってくる花好きの貴族夫人や令嬢のために、花屋の一画には座り心地の良いソファとテーブル、そしてミニキッチンが併設されていた。花屋の歓談室の大きな窓からは塔の中の畑の様子も見えるので、一般人立ち入り禁止の小塔の畑の光景を見学できるのもサービスの一環だ。
 茶菓子は保存が効く焼き菓子だが、貴族の御婦人方に給仕するだけに最高級のものを揃えている。紅茶も極上品で、花屋で働く正規魔術師がまず仕込まれるのは美味しい紅茶の淹れ方だった。
 アカシアの役目は給仕と片付のみ。花の説明や長持ちさせるコツ、ブーケ作りも正規魔術師であるガーベラとエイプリルの仕事だ。
 花屋には、売り物にならない花で作った香油も販売されていて、こちらも美容液や香水代わりに買っていく高貴な方々が多い。

 思いがけない客が来たのは、アカシアが店頭に出始めて何週間目の事だっただろうか。
 客人は私服姿の紳士とご目の覚めるような美しい夫人だった。だから見た目では分からなかった。
 紅茶とお菓子を給仕して立ち去ろうとしたとき、花屋の隅の揺りかごで寝ていたホープが急に泣き出した。普段は滅多になかない子だったので、慌ててアカシアが駆け寄って抱き上げると、いつの間にか付いてきていた紳士が、母親の胸に顔を当ててしゃくり上げる赤子を覗き込む。
「その子がルシアードの子供か。もう歩ける頃だと思ったけど、魔力量がそれだけあれば成長が遅いのも当然か」
「あの…貴方はどちら様ですか?」
 アカシアはホープを抱きしめる力を強くして後ずさる。エイプリルとガーベラも、ご夫人の相手そっちのけで駆けつけ、アカシアを守るように立ちはだかった。
「天上界守護第一軍団の第8騎士団長のアベル・ゲイル閣下ですね。お花をお求めでないのなら、お引き取り願いますか?」
 ガーベラは膝を震わせながらも毅然とした態度で言い放った。
「ここにある花は全て言い値で買うよ。そちらの親子もろともね。まったく、宿命の相手が判明しているのが分かっていて匿うとは、中洲も天上界守護軍団へ喧嘩売っているのかねぇ」
 言葉は呑気だが、アカシアに向ける視線は鋭い。
「あの馬鹿の宿命相手だったことには、心から同情するよ。だが君が逃げたお陰で、ルシアードの状態は酷い。理性は完全に吹き飛び、手負いの獣状態で、軍の最下層牢獄に繋いで元帥閣下が魔術で眠らせている。このままだと、聖域で千年間封印だ。あの馬鹿の千年の不在が、天上界がどうなるか考えたことがあるかい?」
 アカシアは挑むような目でアベルを睨みつけたまま反応しなかった。
「あいつは立場こそ副騎士団長だが、元帥閣下の懐刀と異名を持つほどの騎士だ。あいつの存在が、暗躍する反逆者の抑止力となっている。あいつが後継嫡子を得るためにかかる時間がおよそ150年から200年。それをしのぐのさえ我々は頭を痛めているのに、千年も聖域に封じられるなんて、天上界にどれほど被害が出るか。大人しく、君は我々と帰ってもらう」
「聞き捨てならないね。彼女は既に私の直属魔術師として契約している。対してそちらはどうだ?宿命相手とかほざいているが、子をなしたにも関わらず正妻どころか側室にすらしていない。単なる愛人扱いして捨てた女が、今ごろになって宿命相手だったから返せなんて言っても、そうですかと首を縦に振るとともうか、ハゲ!」
 エイプリルが緊急ボタンを密かに推していたので、ディアーヌ小塔の長をはじめとする屈強な魔術師達が花屋に押し寄せてきた。
「そもそも騎士1人で左右される世界ってなんだよ。そこまで軍は地に堕ちていますと宣伝か?」
 煽ってきたのはセシルだった。
 不思議なことに、セシルを見てアベルは後ずさる。後で聞いた話だが、両親が中洲の魔術師であるセシルは、兄弟の中でも一番の魔力を有しており、レベル的にもアベルが戦って勝てる相手ではない。更に言うと親元から自立するの際には軍団からも熱烈なラブコールが来ていたという。「軍に入るぐらいなら、陽の塔の魔術師になった方がマシだ」という捨て台詞も有名らしい。そもそも次代の花の大塔の長に内定していると言うから驚きだ。
「さっさと帰れ。ちゃちゃっと調べたところによると、おまえ、部下の名前と証明書で中洲に入り込んでるじゃないか。そっちの奥方役も偽物だな。ベルンスタイン侯爵一派は中洲へ出禁処理されているのに、これは抗議を申し立てないと」
 セシルは空中で中洲のマザーコンピュータにアクセスして、情報を引き出してニヤリと笑う。元が人相悪いので、こういう笑みがよく似合う。
「少なくとも、ウチから青い百合で調合した上級ポーションが第一軍団に渡らないよう、薬師の大塔世界に圧力をかける。そのぐらいのペナルティー承知で、こんな茶番をやらかしたんだろ?」
 ディアーヌ小塔の長は見下す。騎士団長と小塔の長、地位からすると小塔の長のが上だ。
 だがアベル騎士団長に狼狽の気配はなかった。
「ポーションなど軍でも作ってるから、中州のものより多少の劣化はするが構わんさ。俺はあの馬鹿の悪友として、そこの女に一言言いたかっただけだ。どれほど足掻こうとも、宿命からは逃れられない。おまえだって、薬で辛うじて発情を封じ込めているだけだろう。根本解決には至っていない」
「私は!子供の成長を見届けたら、いつか宿命を断ち切る手段を使うわ。あいつの元へは絶対に帰らない!」
「中洲の最終奥義、陽の大塔で宿命を燃やす方法か。だがあれは聞くところによると、宿命相手と出会う以前なら宿命を断ち切れるが、出会ってしまった以上は効かないのではないか?」
「そんなこと…長、ウソですよね?」
 アカシアはディアーヌ小塔の長に縋り付く。ディアーヌはアカシアに振り返り、つらそうな顔をした。
「嘘と本当、半々だ。正直に言うと、相手と出会ってしまった後では、宿命を燃やし尽くすことは出来ない。ましてや発情まで始まってしまった以上、あの手段を使えば命を落とすリスクがより高くなった。出来れば、宿命相手のもとに戻って後継嫡子を生んだほうが危険は少ない。後継嫡子さえ生めば、宿命から解放する手だてはいくらでもあるから」
「そんな…」
 アカシアは息子を抱いたまま、その場に崩れるように座り込む。蘇るのは、フリージアとして都合のいい性欲のはけ口にされた思い出しかない。あのときの苦しみを思い出すと、絶望と吐き気しかない。
「宿命ってのは、我々貴族にとっても厄介な代物だ。君がルシアードと出会う前に中洲の魔術師として覚醒していたら、宿命は断ち切られて第二候補が宿命相手に上がってきただろうがな」
 アベルは、いつの間にか隣立っていた貴婦人を見る。銀色の直毛と灰色の瞳をした正統派美人。彼女はアカシアに向かって会釈する。それだけで、彼女がルシアードの恋人であるプリズム・ヘラー女騎士であることが察せられた。
「女性として、貴女には残酷なことをお願いします。彼を救ってください。貴女が宿命相手だと判明する前から、ルシアードは意識せずとも貴女を愛していた。私を抱いても以前のような情熱はなく、貴女の身代わりとして抱かれていたのを誤魔化せるとでも思っていたのかしらね。それでも彼を助けて欲しいと、私は身勝手なことしか言えない。あんなロクデナシでも、私は彼を愛しているから…」
 この美人騎士は、愛されていないと断言しつつ、それでもルシアードを心から愛していた。
 プリズム・ヘラーも、見えないところで何度も泣き明かしたのだろうか?
「もうこの辺でいいだろう。そっちの都合ばかりベラベラと!まだ傷の癒えていない彼女には時間が必要なんだ!これ以上、彼女を追い詰めるな!」
 ディアーヌ小塔の長は、アベル騎士団長とプリズム・ヘラーを追い出した。そしてセシルに振り返る。
「薬師の大塔世界へ、天上界守護大軍団へのポーション出荷の停止を通達しろ。さもなくば我が塔の青い百合の花粉は譲らないと付け加えておけ。それと中洲の出入り照合システムの強化の苦情を出せ。あんな奴らを平気で通すとは、ザルもいいところじゃないか!」
「既に行っています。これからは血液認証も視野に入れた方が良さそうですね。まあ、軍閥貴族の連中は幾らでも侵入経路があるので厄介ですが、やらないよりはマシです」
 セシルは、仲間と協力のもと、各方面に天上界守護軍団幹部の中州の侵入禁止を要請した。中州全体にそれが適応されるのは無理があるが、少なくとも花の大塔世界への出禁は受理されるだろう。
「アカシア」
 ディアーヌ小塔の長は屈み込んで、絶望に打ちひしがれるアカシアを子供ごと抱きしめた。
「辛いことばかりだね。だけど、今は出来なかったことが、明日か明後日か、それとも千年後には変わっているかもしれない。希望を持ちなさい。どんな事があっても、君が私の弟子であることは揺るがない事実なのだから」
 ディアーヌ小塔の長は慰めた。その温かさにアカシアは、いまはただ身を委ねていたかった。

5.遠い約束
 アカシアは、アベルとプリズムと出会ったことで、体内バランスを崩した。抑制剤が効かない。苦しくて体が熱くて、今にもあの憎んでも憎しみ足りない男の元へ飛んで行きそうだ。抑制剤で押さえつけていた分、反動が強くでたのだ。
 正気を保とうと、ナイフを手にする。痛みで気が紛れれば、少しはこの苦しみから逃れられかもしれない。
 だがナイフは弾き飛ばされた。それと同時に体が浮き上がる。
「俺相手じゃ嫌だろうが、今夜のことは記憶から消してやるから。アカシア、おまえは何も悪くない」
 名前で呼ばれてドキリとする。セシルが自分を抱き上げて、セシルの部屋に向かっている。廊下にいた魔術師たちは2人のために道を開けた。

 蔵書が寝室内にも山積みの簡素な部屋だった。ヘッドは清潔に整えられているが、夜も昼も寝ている形跡のないセシルは、そもそもヘッドを使っているのだろうか?
「最初に言っておく。俺は女とも男とも経験がない。本による知識しかないから、満足させるのは到底無理だろう。それでも構わないか?」
 セシルは顔を赤らめて視線を外し、恥ずかしげに言うが、アカシアはセシルの首に抱きついてキスをする。
「好きなんです。いつからか分からないけれど、セシル様が好きでたまらない。だからあなた以外に抱かれるぐらいなら、どんなリスクがあっても、たとえそれで塵も残らぬほど消滅しても悔いはない。むしろ全て消えてしまったほうがー」
「やめろ。そんな不吉なことを言うなら、今すぐ宿命相手のもとへ放り出すぞ」
「嫌、それたけはー」
「なら、絶望するな。おまえが消滅したら…俺はどうすればいい。この想いを抱えて、長い時間を生きろと残酷なことを言うのか?」
「セシル様、それってー」
「いいなら、もう黙れ。俺は本の通りにしか出来ないからな、それだけは勘弁しろよ!」
 寝台に横たえたアカシアの服を、ぎこちないが丁寧に脱がしていく。セシルは本当にマニュアル通りにしか出来なかった。
 行為そのものは、遊び人だったルシアードには到底敵わない。だがアカシアは、愛し合う喜びを初めて知った。体を駆け巡っていた熱が引いていく。地上で溺れているような苦しさは退いた。
 だが別の炎が2人について、ぎこちない同士で何度も愛し合った。
「私…セシル様と出会えて本当に良かった」
「なにを遺言めいたことを」
 セシルはアカシアを抱きしめて、彼女の黒髪を撫でる。アカシアの赤かった瞳が、いつの間にか黒褐色に戻っていた。
「…宿命を片付けなければ未来がないなら、私は落とし前をつけにいかねばなりません。セシル様は、お怒りになられますか?」
 セシルの胸に顔を埋めながら、勇気を振り絞ってアカシアは言う。
「いつまでも待つよ。それが何百年後かの遠い約束でも」
 セシルはアカシアの頭頂部にキスを落として言う。その言葉に続く「宿命が断ち切れなくて、君と会うのがこれで最後だとしても、ずっと好きだよ」とは伝えなかった。約束が重荷となって彼女を縛り付けたくはなかったからだ。
「セシル様は優し過ぎる。なんで私はセシル様ではなく、あんなのと宿命で結ばれてしまったのだろう?」
「何か俺たちには分からない、深い意味があったのかもしれないな。少なくとも、選定神殿から出してくれたことだけは、副騎士団長には感謝しておくよ。あそこは中州からも、さんざん潰すよう要請しているのに、軍部や貴族たちが反対して言うことを聞かないんだ」
「あそこでのことは、本当に何も憶えてしません。わたしは人間として亡くなって、気づいた時は侯爵家に囲われていましたから」
「抹消された記憶が戻ることはあり得ないんだが、それでもアカシアは記憶を取り戻した。本当に、今の常識が未来には覆ることもあるのかもしれないな」
「その研究のために、中州は研究を進めていらっしゃるのでしょう?」
 ようやくセシルの胸から顔を上げて、アカシアは微笑みかける。セシルは強くアカシアを抱きしめた。
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