2 / 14
第二章 死の淵からの生還
月下美人
しおりを挟む
1.2005年9月
この年のメモ帳だけが無い。あまり辛く絶望的なことを書き殴っていたため、翌年に処分してしまったのだ。だが翌年のメモ帳に、年末のことは簡単に書かれていた。
最初は足の腫れからだったと思う。母は不審に思い、近所のクリニックばかりか、駅近くの専門病院系列のクリニックまで足を運んだ。だが結果は異常なし、「何処かでぶつけたのでしょう」と言う結論だった。確かに足の腫れは退いた。
しかしその週の日曜日、母は高熱を出した。兄の運転で、休日診療当番のクリニックへ母を連れていき、点滴と解熱薬が処方された。休日診療のため細かい検査が出来ないので、翌日に改めて来るか、かかりつけ医に受診するかしてくださいと言われた。
点滴で一旦熱は下がって楽になった。だが夜に再び高熱がでる。解熱剤も効果がない。
翌日、父の通院先である個人病院へ、父の運転で連れて行った。ここは父が勤めていた会社の健康診断を請け負っている病院だった。老医師は、丁寧な診断の末、腹部の異常に気づいた。ここでは対処しきれないため、より細かく検査のできる消化器専門病院へ紹介状を書いてくれ、翌日朝一番で診察を受けるように言われた。そして解熱止めの点滴をしてくれた。
点滴後は熱も下がって、母は「もう、大丈夫」と言って、帰宅後にはお腹がすいたと食事もとった。だが、夜中に再び高熱。
翌日、老医師の指示通りに朝一番で消化器専門病院へ来院し、紹介状を提出した。精密検査の結果、急性胆嚢炎と診断された。見せられた胆嚢の画像は、通常の倍以上に腫れていた。その場で緊急入院が決定。すぐに点滴が開始された。
同時に、医師から「胆嚢炎は繰り返すため、腫れが治まったら、胆嚢摘出をおすすめします」と言われた。父はその場で、手術承諾書にサインした。
父を先に帰宅させ、私は病院近くの大型スーパーで寝巻きを含む入院道具一式を購入すると、大部屋病室へ持っていった。立て直されたばかりの病院は綺麗で明るく、確か4人部屋だったような気がする。スペースが広く取られ、収納棚も大きかった。私はこれまで、入院の世話をしたことがない。父はたびたび骨折や大腸癌摘出などで入院していたが、その手続きは全て母が行っていた。
病院看護師も若く明るい人が多く、朝食のパンは院内の焼き立てが出るとかで、母はいたく気に入っていた。
しかしこの病院にはMRIがなかったため、母の病状がある程度落ち着くと、病院専用バスに乗って他の入院患者と共に、かなり離れたMRI専門施設まで行くことになった。もちろん私も同行。病院の施設ではないので、診察料を払わねばならず、年配者の場合は同行人が推奨されていた。
入院約半月後、ようやく手術可能なぐらいまで胆嚢の腫れは治まった。入院当初の同部屋患者は全員退院して、新たな患者が入っている。向かいのベッドの陽気なオバアちゃんは、入院翌日に手術して1週間かからず退院していった。
胆嚢摘出すれば、母もまもなく帰宅できるだろう。私もたびたび通院せずに済む。父がたまに送迎してくれたが、基本はバスで着替えを持っていくのが常だった。病院購買で手術に必要な一式を購入、あとは手術を待つばかりとなった。
だが手術予定日直前、医師から呼び出されて、手術中止が告げられた。リウマチ反応が急上昇したというのだ。「これはリウマチ専門病院で診察を受けた方が良い」と言われた。
…このとき、この検査結果を疎かにせず、遠くともリウマチ専門病院を受診していれば、後に母はあれほど苦しまず、寛解させることが出来たかもしれない。だが市内にリウマチ専門病院はない。大学病院系列の病院は2つあってリウマチ診療科はあったものの、いずれも常駐医はなく、新規患者の受け入れは出来ない状態だった。消化器専門病院から地区最大の病院の紹介状を渡され、そちらに赴いたが、近隣市町村の核となる病院のため、外来ならともかく、新規入院には1ヶ月程度のベッド待ちを要するとのことだった。
そこで友人のアドバイスに従い、リウマチ専門医は常駐していないが、診察は可能という病院に転院することにした。季節は11月になっていた。兄の運転する車で、母を転院先に連れて行く。1ヶ月以上の入院で、足腰の筋肉は若干衰えた。だが病院の主義で、補助に看護師を使ってでもなるべく歩かせる方針のお陰で、長い入院でも歩けたのだと今なら分かる。
2.母、危篤
都道府県をまたぐことになったが、消化器専門病院より交通の便はむしろ便利になった。年季の入った6人部屋には荷物を置けるスペースが少なく、かなり荷物を削らねばならない。その分、着替えを持っていく回数を増やさねばならなくなった。
また、病院も病院ごとに入院担当医システムが違うのだなと、初めて知った。消化器専門病院では、担当の医師が決まっていて、担当医が居ないときは別の医師が診察することになっていた。だが今回の総合病院は3人体制で、リーダー核の医師の下にサブリーダー、若い医師がついた。主に病状説明は、サブリーダー医師が担当した。
検査結果は『偽痛風』。リウマチではなく、胆嚢の異常もないということで、もう少し検査したら退院しても良いと言うことになった。転院して10日ほどのことだった。ただ退院間近ということに、母が大喜びしていた記憶は鮮明だ。転院して以来、元気がなくなっていたので、久々の晴れやかな顔は私もホッとした。
帰宅して父に知らせると、父も前祝いだと翌日にはステーキ肉を買いに出かけた。そして買い物から帰宅後、悪夢の電話が鳴る。母の容体が急変して、危篤状態なので直ちに来てくださいとの、病院からの指示だった。
昨日、退院を喜んでいた母が一転して危篤。私は「嘘でしょ、ねぇ嘘でしょ?」しか言葉が出なかった。父は車を出し、直ちに総合病院へ向かう。方向音痴な父が、このときばかりは迷わず病院に到着した。
ICUは満杯ということで、個室がICU代わりとなっていた。母は意識がなく、両手と足首からも点滴がされている。血圧は100を切っていた。時たま響く血圧危険値警告音。看護師は懸命に鼻から痰を吸引する。
11月18日、『診断、緑膿菌感染』
何処で感染したかルートは不明だと言う。ただ長い入院生活で免疫力が低下し、普段は感染しない菌でも発病することがあると説明された。
いつ最悪な状態になるか分からないため、私は病院にそのまま泊まり込むことになり、肩を落とした父を1人で家に帰すのは心配だったが、仕方がない。母の状態は心配だったが、取るものもとりあえず駆けつけたので、夕飯用のパンと飲料水、それとタオルなどを病院周辺の店で買い求めた。購買がこの病院の何処かにあったはずだが、そこまで気が回らなかった。
母は意識がなかったが、痰の吸引の際には無意識ながら猛烈に暴れた。看護師2人では抑えが利かないので、私も母の頭を抑える。痰の入った瓶は次第に真っ赤になっていった。響く警告音。簡易ベッドが運ばれたが、眠れる状況ではない。30分ことに行われる吸引の補助。鳴りやまない警告音。
そして日付が変わる頃、夜勤の医師に呼び出された。血液製剤の使用許可書のサインを求められる。血液製剤には、AIDSに感染するリスクもある。それを承知の上で使用するサインだった。私は迷わずサインした。リスクよりも、今は母を助けるのが第一だったからだ。
3日間、私は病院に泊まり込んだ。母の意識は戻らないが、とりあえず一番の山は乗り越えたということで、帰宅して休むよう指示された。私は3日間、ほぼ眠っていなかった。
帰宅すると、台所は散々たる状態だった。危篤の報がきた朝に炊いたご飯が、炊飯器にそのまま残っていた。私はシャワーを浴びてすぐ、台所を片付ける。父もこの3日間、スーパーのお惣菜で済ませていたようで、有り合わせでおかずを作った。前祝い用のステーキ肉は、冷凍保存したままだった。とてもじゃないが、肉を食べる気分ではなかった。
夜、床についても頭の中に血圧計の警告音が鳴り響いて、なかなか寝付けない。それでもいつの間にか朝を迎えていた。その日は兄が、会社は休みだから付き添いをしてくると言って、病院に向かった。私は母の2人の弟に母の状態を知らせる電話をかけた。
翌日、私が病院に着くと、入れ違いに長男叔父が見舞いに来ていたらしい。見舞いの品に、豪華な果物籠が置かれていた。血圧の警報音は止まったが、母の意識は戻らない。この日から3日間また泊まり込んだ。
翌日、次男叔父夫婦が見舞いに来てくれた。懸命に呼びかけているが、母の反応はない。
「おまえ、お袋(祖母)の写真立てを持ってきたのか」
次男叔父はいち早く気づいた。色褪せた祖母の写真を、テーブルに飾っていた。母をまだそちらに呼ばないように、母の意識が戻るよう祈りを込めて。
危険な山は超えたと言われた。もう泊まり込みをする必要はないと、告げられる。
だが相変わらず母の意識は戻らない。私は父の昼食、夕食を作って毎日、面会に赴いた。
サブリーダー医師から「このまま意識が戻らないかもしれない」と告げられたとき、私は病室の外のベンチで泣いた。
私は母に、幼少の頃から泣くなと躾けられていたので、年に一度、泣くか否かだ。友達と出かけた感動映画でも、映画館の女性は友人を含めて全員が泣いたが、私だけは泣かなかった。そもそも恋愛悲劇の実写という時点で、私好みではなく、俳優のあら捜しばかりしていた。友人には「冷血漢」とまで言われたが、その冷血漢を最初に映画に誘ったのが、私というのが間違いの元だろう。映画の話を聞きつけて、別の友人2人が加わったので、私が行く必要もなかった。だがその後のランチとショッピングは行きたかったので、彼女たちに同行したに過ぎない。
恐らく私がこのとき泣いたのは、初代愛犬が虹の橋を渡って以来だろう。私がうつむき、声を殺して泣いていたので、どの看護師かまで気づかなかったが、看護師が「大丈夫だから」と、懸命に背を撫でてくれた。
私が泣き止む頃には看護師は去っていたので、お礼が言えなかったのは残念だ。虚ろな目をした私の視界に、サブリーダー医師が手袋をはめながら、病室に入っていくのが見えた。
数時間後、母は意識を取り戻した。サブリーダー医師が、鼻の中へ器具の装着を試したと言っていた。
しかし意識が戻っても、母の認知機能は誤作動を起こしていた。今では『せん妄』という言葉が定着しているが、当時はその概念がなく、認知症の病院への転院を勧められた。
父と相談の末、とりあえず地元の大学病院へ転院させようということになった。大学病院へ連絡するとまず紹介状を持参して、ご家族だけでも事情の説明のため来てくださいとのこと。
入院先の医師に紹介状を書いてもらい、大学病院の医師に相談。確か内科だったと思う。ただベッドの空きがないので半月は待つことになること、緑膿菌感染者であることから、個室になるとのことだった。
3.クリスマスの奇跡?
そして、12月になった。いつもは心を弾ませる街中に溢れるクリスマスソングを、虚しい気持ちで聞いてた第1週目。
突然、母はスイッチが入ったように、完全に正気を取り戻した。少し早いが、最大のクリスマスプレゼントだった。
正気に戻ったのはいい。だがこの入院期間で、母は体重が70キロから40キロまで激減した。小太りな割に、かかりつけ医の指導で、1人で長い散歩をしていたため筋肉はあった。その筋肉貯金も、既にない。それに気づかずベッドから下りようとして転倒したことで、次に来院したときには、母はベッドに拘束されていて、私を見るなり泣き出した。あの母が、強気で勝ち気な母が泣くなど、人生で初めて見た気がする。愛犬が死んだときでさえ、もしかしたら隠れて泣いていたかもしれないが、決して人前で涙を見せなかった。本人曰く、「涙は母(祖母)が亡くなったときに、使い果たした」と。
看護師が、「ご家族の付き添いがあるときのみ、拘束を外します」と言って、拘束を外した。母が喜ぶが、父の事あるので一日おきにしか来れないが、面会時間ギリギリまで付き添った。母の意識が安定して、看護師の言う事を守るようになると、拘束は外された。そしてリハビリが開始される。
医師から「このままこの病院で退院まで見るから」と言われ、大学病院転院は取り消した。
この当時、病院に療養病棟の設置が政府から推奨された。後に取り消されて、在宅医療に切り替わる。母の帰宅に向けて、介護保険審査を申し込む。介護保険制度が立ちあがったばかりで、右も左も分からないため、四苦八苦した記憶が強い。
母はすぐにでも退院したいと訴えたが、食欲が戻らない。何を食べても美味しくないと言う。医師から、「好物を持ってきて食べさせてほしい」と言われる。
母に「何が食べたい?」と聞くと、「スイカ」と答える。クリスマスシーズンにスイカ。帰路のデパートで見たら、8分の1でもべらぼうなお値段。だが仕方がないと、スイカを購入。帰宅後、父からは「贅沢品だが、食べたいというなら仕方がないな」と呆れた顔で言われた。
そして翌日、タッパーにスイカを入れて持っていくと、喜んで食いついた母。看護師が集まってきて、「スイカだよ!」「この時期にスイカ!」と騒ぐ。既に大部屋へ移されていたので、他の入院患者の視線が痛かった。一度に食べきれないので、個別冷蔵庫で保管する。スイカの次は、ブドウ。冬に果物を買うのは、いま以上に大変だった。ミカンは駄目なのかと聞いても、「食べたくない」と。健康だった頃は、手が黄色くなるまで食べていたというのに。
母の容体が安定したので、療養病棟へ移された。ここは一般病棟よりも看護体制が低いが、その分、大部屋患者は伸び伸びしている。
担当医師は引き続き3人体制だが、私はリーダー格の先生を数えるほどしか見たことがないし、若い先生は一度も会ったことがなかった。兄が付き添いのときに、3人目の先生と話したらしいが、美人な先生だったと喜んでいた。
脳の活性化のために、車椅子で院内散歩も勧められた。こき使ってくれるものだと思いつつ、購買に連れて行くと「ジュース飲みたい、シャーベットが食べたい」と言うので購入する。たまに外来を終えたサブリーダー医師とブッキングすることがあり、買い物袋の中身に気まずい思いもしたが、「食べたいものがあってよかったね」と母に声をかけて去ってくれたのでホッとした。
クリスマスには毎年、母がスーパーで数日前に購入して味付けして寝かせたチキンを、オープンで焼くのが恒例だった。しかしチキンを焼く暇などない。
父と兄は、ならケンタッキーフライドチキンがいいという。クリスマスイブにケンタッキー、地獄だ。結論から言うと、買えなかった。病院近くのケンタッキーは、予約客のみ。帰路のデパート内のケンタッキーは3時間待ちだった。デパ地下の総菜はどこも混んでいたが、比較的空いていた店でチキンとオードブルセットを購入。酒の肴にして、父と兄は喜んで食べた。母がいないので、この年はシャンメリーは買わなかった。母の大好きな季節限定飲み物なのだが。
クリスマスイブの日の病院食には、ケーキがついていた。同部屋の人達は真っ先に食べたが、母は食べようとしない。「勿体ないから娘さんが食べなさい」と看護師に言われたが、早めのランチを食べてから病院に来たので、ケーキを胃に入れる余裕はなかった。面会時間は、平日は13時からだが、土日祝日は12時からだった。この日は土曜日だった。
年が明けて、お試し外泊ということで、1月14日から15日の一時帰宅が許された。しかし車椅子がないと、数歩程度の移動ならともかく、長い距離の移動は難しい。
そこで病院から紹介された大手介護レンタル会社から、車椅子を借りた。まだ介護保険の認定が出てないので実費だったが、移動に使う車椅子が有る無しでは雲泥の差がある。
4.一時帰宅
本来、入院患者は別のクリニックでの処方は受けられない。だが入院していた総合病院に眼科がなく、ダメ元でクリニックに一時帰宅途中の母を車椅子に乗せて連れて行ったら、臨時の眼科医が「特別ですよ」と言って目薬を処方してくれた。
これがまたハンサムな先生だったので、「あー、この人が噂の」と思った。母の眼科通院付き添いで、たまに代診でハンサムな先生が来ると、患者仲間のお婆さん達が話しているのを耳にしたことがあったのだ。
私がこの先生を見たのは後にも先にも一度きりだが、後年、その先生がクリニックに出没しなくなったため、お婆さんが「◯◯先生、最近見かけなくなったけど、どうしたの?」と受付に尋ね、「◯◯先生なら独立して〇〇町で開業しましたよ」と、答えていた。あの受付嬢、顧客(患者)を横流しする手助けをしたとしか思えないが。
そう言えば、母から入院している総合病院にも凄いハンサムな先生がいて、この先生が来ると、お婆さん達の黄色い声が上がるのだとか。母も一度、診察を受けたとかで、ドキドキしたと言っていた。どんな俳優に似てるか聞いても、例えられないと言う。それなら一度お目にかかりたいと思ったが、縁がなかったのは残念だ。
総合病院には、男性介護士がいた。なかなかの顔立ちだったので、人気があった。母が「◯◯さん、洗髪してもらっているときに、甘えた声出すのよ」と母は言っていたが、たまたま院内散歩中に声をかけられたとき、母の声もワンオクターブ上がっていた。幾つになっても、女性はハンサムに弱い。
眼科近くのスーパーで買い物をして、帰宅した。母はそれまで布団で寝ていたが、一時帰宅が決まった日に慌てて家具店に駆け込んで、通常型のベッドを、一時帰宅前日に届けてもらった。
後に手摺をネット通販で購入して、母の退院直前に兄と二人がかりで取り付けたのも、いい思い出だ。そう言えば、ベッドをトイレ近くに設置するため、リビングにあったタンスを二階に兄と運んだときには、タンスに潰されて死ぬかもと本気で思った。兄が上を持ち上げます、私が下から運んだため、重量が一気に私に来たのだ。今、同じことをしろと言われても、絶対に無理だ。若いって良かったなぁと、いま心から思う。
母はベッドなんて無駄遣いしてと、帰宅後にブツブツ言っていたが、やはりベッドなしでは立ち上がることも出来なかった。帰宅して母の好物を出しても、食事量はほんの少し。ただし梨だけは夕飯で半分完食した。
翌日、兄の運転で病院に戻る際、どうしても同部屋の部屋の人にお土産を買うこだと言う事を聞かない。仕方なく市内の和菓子屋に立ち寄って饅頭を人数分購入した。入院部屋に戻って饅頭を配ると、和気あいあいと、和菓子話で盛り上がった。食事制限がどうなっているか知らないが、ともかく皆が饅頭を食べていた。
私は病棟看護師に、一時帰宅中の食事の内容と量を書き込んだレポートを提出した。「この時期に梨ですか!」と驚かれたが、私も梨の値段には目玉が飛び出そうになりましたとも。母が、帰宅したら梨を食べたいと言うので、一時帰宅記念で、お祝いのつもりで買ったけれど。
母に季節外れの果物を提供する役割を果たした、市内のデパートの果物店が撤退してから、もう何年経っただろうか?
最初の一時帰宅中に問題がなかったので、1月28日29日に、二度目の一時帰宅を行った。療養型病棟に移ったので、まだ入院は続けてリハビリを行った方がとも言われたが、母の強い希望で退院する日を決めた。ただ懸念される要因があった。久しく母に便通がなかったのだ。
医師は大腸内視鏡検査を、退院前に行なうことを決めた。しかし結論から言うと、内視鏡カメラは腸の半分までしか入らなかったらしい。それでも異常はないということで、2月11日、母はやっと退院して自宅に戻った。
5.再入院
退院後の母は、意識不明の際の痰の吸引で暴れたため、右足に傷が出来ていたのと、内科的診察が必要なため、自宅からバスで通える距離の病院へ通院することとなった。
母の食欲は相変わらず戻らず、便通もない。退院処方の薬が切れる頃、紹介状を持って新たな病院へ向かった。新たな、といっても私には馴染のある病院だった。二度目の拒食症を20歳手前で発症した際、体に色々と弊害が出たので、脳検査や婦人科検査などを行い、一時期通院していたからだ。
まず外来医師は、紹介状の内容の他に気になることはないか尋ねた。私が母の便通のことを話すと、医師は看護師に浣腸を指示、そして内科的処方薬の他に強めの下剤が処方された。
翌朝、2月24日。荒川静香選手が、フィギュアスケートで初の金メダルを獲得した。その興奮沸き上がるニュースやワイドショーを母と観ていたとき、病院から電話があった。便通の有無を確かめるものだった。出ていないと答えると、直ちに入院準備をして母を連れてくるよう指示された。
前日に看護師が浣腸を2度行っても出なかったのに加えて、強力な下剤も効果無しとなれば、当然のことかもしれない。
むしろ、確かめてくれた新たな主治医には感謝しかない。結局、母は退院して2週間経たずに再入院となった。
この病院での病棟主治医は、外来と同じ先生だった。病院到着後、私は改めて医師からこれまでの事を、尋ねられ、大腸内視鏡検査のカメラが半分しか通らなかった話をすると、主治医は「その病院の医師は何をしていた!」と怒った。
診断『腸閉塞』。
この病院はオムツの持ち込みは禁止で、寝巻きも確かレンタルだったと記憶する。タオルなどの持ち込みは許された。点滴や浣腸などを繰り返し、ようやく便を出し切った。
だが様々な検査が必要とのことで、便を出し切っても、入院は延長された。母は帰りたいと、私に訴える。食欲は相変わらずなく、看護師からゼリーの持ち込みを許可された。だが前の病院のように個人冷蔵庫がないため、薬品保管用冷蔵庫で保管するとのことだった。
余談だが、この病院の近くには珍しい魚介類を扱う魚屋があった。病院帰りに珍しい白身魚の刺し身を父の夕飯用に購入して帰宅。何度か様々な白身魚の刺し身を持って帰ると、父は自ら母の面会に行くと言い出した。下着の着替えとタオルを持たせて、送り出す。帰宅した父は、ポケットマネーで、高級魚の刺し身を買って帰ってきた。
「あの魚屋、品数が半端ないな」
と、興奮して話す父。肝心の母の汚れ物は持って帰ってこない。翌日、私が汚れ物を取りに行く羽目になる。父はその後も率先して見舞いに出向き、ポケットマネーで刺し身や鍋具材高級魚を買ってきた。汚れ物は相変わらず忘れている。
母も「お父さんが来ても、何の役にも立たない。来てもすぐに帰るんだもの」と、ぼやいていた。まあ、確かに。見舞いではなく、魚屋目的で通っているのだから。
入院からかなり時間が過ぎて、ようやく主治医からの病状説明あるというので呼び出された。当初指定された時間は夜19時だったが、外来が押していたとかで、結局はよる20時から説明が始まった。これまで2つの病院の担当医師から説明を聞いたが、ここの主治医の説明はとても分かり易かった。この先生なら、人気なのも納得だ。1時間の説明の後、今後もう少し検査をしたいと言っていたが、母のメンタルが限界だったので退院を希望した。
主治医も家族の意向なら仕方がないと、母の退院は認められた。ただし今後の診察は、近所のクリニックで行なうよう通告された。母の体力でここまで来させて、2時間以上の外来診察待ちは無理だと言う、もっともな判断だった。
そう、本当に的確な判断である。私が近所のクリニックの院長を天敵認定しているのを除けば。
3月20日、母は退院した。
6.天敵先生
3つ目の病院でのリハビリ訓練のお陰で、母の歩行距離も伸びた。食事に関しては、主治医が母に「ちゃんと食べないと、また入院ですからね」と、脅しをかけた。
何がきっかけで食欲スイッチが入るか分からない。母の歩行訓練を私も主治医からきつく言い渡されていたため、ゆっくりながらも杖を使ってスーパーの買い物に付き合わせた。あるとき、母がお惣菜コーナーで、鮭の幕の内弁当が食べたいと言い出した。魚の骨が引っかからないか懸念もあったが、食べたいと言うのであればと、購入した。三分の一でも食べてくれれば良いと思ったが、完食したのにはびっくりした。
それ以来、母の食欲は戻った。いや、戻りすぎた。当初は食べてくれたのに喜んだが、ちょっと食べ過ぎじゃないかと思うぐらい、何を出しても「美味しい、美味しい」と、こちらが驚くほどの食欲ぶり。
一年と経たないうちに、母は元の体重に戻った。それと共に、風呂の介助も必要なくなり、いつの間にか朝食は自分で食事を作るようになった。私が作り始める7時からだとお腹がすくと、朝6 時前には台所に立って作り始めるのだ。父も私の作った病院からの指示による減塩薄味味噌汁より、母の作る赤出汁の塩気の強い味噌汁に喜んだ。夕飯は引き続き私が、私と母の昼食はどちらかが台所占有権者が作るが習慣化した。
病院の処方薬が切れる頃、気が重いながらも近所のクリニックに母を受診させた。私はこの先生が苦手だった。母には優しいが、私に対して「そんなこと、聞いたことがありませんね」が口癖のように発せられる。
また、私はここのクリニックの薬との相性がとても悪かった。
開業当初、近くにクリニックが出来たことを喜んだ。しかし風邪で受診したとき出された薬が合わずに蕁麻疹発症。院長は私に何を食べたか尋ねる。私は食欲が失せると、レトルトコーンスープやお吸い物に、ご飯やパンを入れて食べていた。胃が風邪でやられているときは、味噌汁は吐き気を催すので駄目だった。私が「薬が合わないのではと」と尋ねると、「そんなことは、ありえませんね」との返答。そして蕁麻疹を抑える点滴を看護師に指示した。
ここの看護師と私の血管の相性も悪かった。他のクリニックや病院でも採血には苦労していたが、それでも丹念に血管を探し当て、一度で採血を成功させていた。だがここでは両腕をブスブス刺された挙げ句、手の甲から点滴開始。地味に痛い。そして蕁麻疹は治まらない。
3度ほど点滴を続けた挙げ句、私は子供の頃から通っていた、病気の時は少々つらい距離の医院へ、クリニックの薬を持って来院した。馴染の老医師は「どれも蕁麻疹疑いのある薬だし、単なる風邪でこんなに薬を出すのもおかしい」と驚いていた。確かに漢方薬やドロップを含めて、8種類ほど出ていたのではないか。
そしてクリニックの風邪薬は処分するよう言われ、医院の薬が処方された。クリニックは1週間分の薬を処方したが、この医院は昔から3日分。患者の体質に薬が合うか確かめるためと、そして最低限の薬で充分という考え方からだった。少なくとも2度は通わなければならないため、高熱のときは、かなり辛い。そして粉薬はとても苦い。薬は扁桃腺の腫れが酷いとき以外は2種類しか出さない。
だが昔なじみの薬に変えたら、たちまち蕁麻疹は消えた。「やっぱ薬が原因じゃないか」。私はそれ以来、両親の付き添いに近所のクリニックは行っても、ここの処方薬は絶対に飲まないと決めて、ずっと守り通している。
そう言えば、子供の頃も似たような事があった。癖の強い院長と母は相性が悪く、風邪を引くと高熱をすぐに出す私を、あるときバスで離れた医院へ連れて行った。ここの砂薬は甘くて美味しかったが、服薬後に腕が赤く腫れ上がった。もう一度受診したときには「リンゴ病」と診断され、別の薬が出されたが効かない。そして体が、しんどい。母は仕方なく、馴染の医院に出向き、私を受診させた。たちまち腫れは退いて、風邪からも解放された。「あんたは、あそこの薬じゃないと無理なのね」と、母は悔しさと苛立ちを隠せなかった。
喧嘩の原因は、確か小学生にもなって母が付き添いで診察に入ってきてベラベラ話すのを、院長が「私は患者から病状を聞きたいんだ、親は出ていきなさい」と注意されたことだったと思う。
クリニックの天敵先生は、母の窶れように驚いていた。そして紹介状の凄腕医師の指示通りの処方薬が出された。私はまあ、いつものごとく、母の生活習慣に気を配るよう、延々と注意された。いや、もうそれ、凄腕医師から耳にタコができるほど聞かされているんだけど?
ゴールデンウィークには、家族全員で父方の墓を墓参した。杖は手放せないが、細く急な階段も上り下り出来ほど、母は回復した。
7.バナナ
我が家の2代目愛犬は、バナナという。父の知り合いの獣医から無償で譲られた保護犬で、既に名前がバナナとつけられていた。獣医のもとでは手を付けられないほどお転婆(メス犬)とのことだったが、居場所を転々とした挙げ句、やっと我が家が終の棲家になると気づいたときには、とても愛らしくて家族の言う事をよくきく忠犬となっていた。
母の帰宅をバナナも喜んだ。母のリハビリ散歩にも、バナナは歩調を合わせ、ときおりリードを持つ私や母を見上げてニコッと笑う。この頃、10歳の老齢期に入っていたが、まだまだ元気だった。
だが母が急速に体調を戻していくのに対して、バナナは次第に変な咳をするようになった。初代愛犬が虹の橋を渡る前、よくこんな咳をしていた。
近所の獣医に連れていき、薬が処方されたが治らない。むしろ咳は酷くなり、散歩途中に歩けなくなって、抱きかかえて連れ帰ることも増えた。父と相談して、バナナをもらい受けた獣医に診せることにした。
車に乗ったバナナは、いつもの水遊び場所へ連れて行ってくれるのだと思って、私の足元でニコッと笑っていた。
バナナをもらった10年前、山梨県で開業していた獣医は、ごく最近、本院を私たちが住む同市に移した。実はこの獣医、父の会社の同僚さんの息子さんで、父は同僚さん経由でバナナをもらい受けたのだ。この市に本院を建てたのも、高齢化した父の同僚さん夫妻と同居するためだった。
最新鋭の機器が揃った動物病院で検査の結果、バナナは心臓病、「僧帽弁閉鎖不全症」と診断された。初代の愛犬の教訓でフィラリア薬は欠かさなかったので、フィラリアには感染していなかった。
入院を勧められたので、お願いした。初代のときは自宅で看取ったが、あのとき、もっと設備の整った動物病院に診せればもっと延命できたのではないかと、家族で悔やんだからだった。だが入院させる選択は、バナナに生きる気力を失わせた。面会に出向いても、ケージの中で点滴されて横たわったまま、こちらを見ようともしない。バナナを退院させようとした矢先、7月3日朝8時、バナナ死去の連絡が動物病院から来た。
独りでこの世から旅立たせた後悔は、初代愛犬を見送ったときよりも、家族の胸をえぐった。
亡骸を玄関に安置して祭壇を作り、動物霊園で荼毘に付すまで安置した。私たちはバナナの死を悼みつつ、同じことを考えていた。
「バナナ、母さんの身代わりに天へ旅立ったんだね」
バナナの体調変化が、母の回復とあまりにリンクし過ぎていた。今もバナナは、あのときの母を救ってくれた忠犬だと信じている。
それと同時に、後悔も大きかった。バナナがあれほど愛した我が家で、家族の見守る中、旅立たせてやれなかったことに。
大きな選択ほど、間違える。家は火が消えたかのように静かになった。
この年のメモ帳だけが無い。あまり辛く絶望的なことを書き殴っていたため、翌年に処分してしまったのだ。だが翌年のメモ帳に、年末のことは簡単に書かれていた。
最初は足の腫れからだったと思う。母は不審に思い、近所のクリニックばかりか、駅近くの専門病院系列のクリニックまで足を運んだ。だが結果は異常なし、「何処かでぶつけたのでしょう」と言う結論だった。確かに足の腫れは退いた。
しかしその週の日曜日、母は高熱を出した。兄の運転で、休日診療当番のクリニックへ母を連れていき、点滴と解熱薬が処方された。休日診療のため細かい検査が出来ないので、翌日に改めて来るか、かかりつけ医に受診するかしてくださいと言われた。
点滴で一旦熱は下がって楽になった。だが夜に再び高熱がでる。解熱剤も効果がない。
翌日、父の通院先である個人病院へ、父の運転で連れて行った。ここは父が勤めていた会社の健康診断を請け負っている病院だった。老医師は、丁寧な診断の末、腹部の異常に気づいた。ここでは対処しきれないため、より細かく検査のできる消化器専門病院へ紹介状を書いてくれ、翌日朝一番で診察を受けるように言われた。そして解熱止めの点滴をしてくれた。
点滴後は熱も下がって、母は「もう、大丈夫」と言って、帰宅後にはお腹がすいたと食事もとった。だが、夜中に再び高熱。
翌日、老医師の指示通りに朝一番で消化器専門病院へ来院し、紹介状を提出した。精密検査の結果、急性胆嚢炎と診断された。見せられた胆嚢の画像は、通常の倍以上に腫れていた。その場で緊急入院が決定。すぐに点滴が開始された。
同時に、医師から「胆嚢炎は繰り返すため、腫れが治まったら、胆嚢摘出をおすすめします」と言われた。父はその場で、手術承諾書にサインした。
父を先に帰宅させ、私は病院近くの大型スーパーで寝巻きを含む入院道具一式を購入すると、大部屋病室へ持っていった。立て直されたばかりの病院は綺麗で明るく、確か4人部屋だったような気がする。スペースが広く取られ、収納棚も大きかった。私はこれまで、入院の世話をしたことがない。父はたびたび骨折や大腸癌摘出などで入院していたが、その手続きは全て母が行っていた。
病院看護師も若く明るい人が多く、朝食のパンは院内の焼き立てが出るとかで、母はいたく気に入っていた。
しかしこの病院にはMRIがなかったため、母の病状がある程度落ち着くと、病院専用バスに乗って他の入院患者と共に、かなり離れたMRI専門施設まで行くことになった。もちろん私も同行。病院の施設ではないので、診察料を払わねばならず、年配者の場合は同行人が推奨されていた。
入院約半月後、ようやく手術可能なぐらいまで胆嚢の腫れは治まった。入院当初の同部屋患者は全員退院して、新たな患者が入っている。向かいのベッドの陽気なオバアちゃんは、入院翌日に手術して1週間かからず退院していった。
胆嚢摘出すれば、母もまもなく帰宅できるだろう。私もたびたび通院せずに済む。父がたまに送迎してくれたが、基本はバスで着替えを持っていくのが常だった。病院購買で手術に必要な一式を購入、あとは手術を待つばかりとなった。
だが手術予定日直前、医師から呼び出されて、手術中止が告げられた。リウマチ反応が急上昇したというのだ。「これはリウマチ専門病院で診察を受けた方が良い」と言われた。
…このとき、この検査結果を疎かにせず、遠くともリウマチ専門病院を受診していれば、後に母はあれほど苦しまず、寛解させることが出来たかもしれない。だが市内にリウマチ専門病院はない。大学病院系列の病院は2つあってリウマチ診療科はあったものの、いずれも常駐医はなく、新規患者の受け入れは出来ない状態だった。消化器専門病院から地区最大の病院の紹介状を渡され、そちらに赴いたが、近隣市町村の核となる病院のため、外来ならともかく、新規入院には1ヶ月程度のベッド待ちを要するとのことだった。
そこで友人のアドバイスに従い、リウマチ専門医は常駐していないが、診察は可能という病院に転院することにした。季節は11月になっていた。兄の運転する車で、母を転院先に連れて行く。1ヶ月以上の入院で、足腰の筋肉は若干衰えた。だが病院の主義で、補助に看護師を使ってでもなるべく歩かせる方針のお陰で、長い入院でも歩けたのだと今なら分かる。
2.母、危篤
都道府県をまたぐことになったが、消化器専門病院より交通の便はむしろ便利になった。年季の入った6人部屋には荷物を置けるスペースが少なく、かなり荷物を削らねばならない。その分、着替えを持っていく回数を増やさねばならなくなった。
また、病院も病院ごとに入院担当医システムが違うのだなと、初めて知った。消化器専門病院では、担当の医師が決まっていて、担当医が居ないときは別の医師が診察することになっていた。だが今回の総合病院は3人体制で、リーダー核の医師の下にサブリーダー、若い医師がついた。主に病状説明は、サブリーダー医師が担当した。
検査結果は『偽痛風』。リウマチではなく、胆嚢の異常もないということで、もう少し検査したら退院しても良いと言うことになった。転院して10日ほどのことだった。ただ退院間近ということに、母が大喜びしていた記憶は鮮明だ。転院して以来、元気がなくなっていたので、久々の晴れやかな顔は私もホッとした。
帰宅して父に知らせると、父も前祝いだと翌日にはステーキ肉を買いに出かけた。そして買い物から帰宅後、悪夢の電話が鳴る。母の容体が急変して、危篤状態なので直ちに来てくださいとの、病院からの指示だった。
昨日、退院を喜んでいた母が一転して危篤。私は「嘘でしょ、ねぇ嘘でしょ?」しか言葉が出なかった。父は車を出し、直ちに総合病院へ向かう。方向音痴な父が、このときばかりは迷わず病院に到着した。
ICUは満杯ということで、個室がICU代わりとなっていた。母は意識がなく、両手と足首からも点滴がされている。血圧は100を切っていた。時たま響く血圧危険値警告音。看護師は懸命に鼻から痰を吸引する。
11月18日、『診断、緑膿菌感染』
何処で感染したかルートは不明だと言う。ただ長い入院生活で免疫力が低下し、普段は感染しない菌でも発病することがあると説明された。
いつ最悪な状態になるか分からないため、私は病院にそのまま泊まり込むことになり、肩を落とした父を1人で家に帰すのは心配だったが、仕方がない。母の状態は心配だったが、取るものもとりあえず駆けつけたので、夕飯用のパンと飲料水、それとタオルなどを病院周辺の店で買い求めた。購買がこの病院の何処かにあったはずだが、そこまで気が回らなかった。
母は意識がなかったが、痰の吸引の際には無意識ながら猛烈に暴れた。看護師2人では抑えが利かないので、私も母の頭を抑える。痰の入った瓶は次第に真っ赤になっていった。響く警告音。簡易ベッドが運ばれたが、眠れる状況ではない。30分ことに行われる吸引の補助。鳴りやまない警告音。
そして日付が変わる頃、夜勤の医師に呼び出された。血液製剤の使用許可書のサインを求められる。血液製剤には、AIDSに感染するリスクもある。それを承知の上で使用するサインだった。私は迷わずサインした。リスクよりも、今は母を助けるのが第一だったからだ。
3日間、私は病院に泊まり込んだ。母の意識は戻らないが、とりあえず一番の山は乗り越えたということで、帰宅して休むよう指示された。私は3日間、ほぼ眠っていなかった。
帰宅すると、台所は散々たる状態だった。危篤の報がきた朝に炊いたご飯が、炊飯器にそのまま残っていた。私はシャワーを浴びてすぐ、台所を片付ける。父もこの3日間、スーパーのお惣菜で済ませていたようで、有り合わせでおかずを作った。前祝い用のステーキ肉は、冷凍保存したままだった。とてもじゃないが、肉を食べる気分ではなかった。
夜、床についても頭の中に血圧計の警告音が鳴り響いて、なかなか寝付けない。それでもいつの間にか朝を迎えていた。その日は兄が、会社は休みだから付き添いをしてくると言って、病院に向かった。私は母の2人の弟に母の状態を知らせる電話をかけた。
翌日、私が病院に着くと、入れ違いに長男叔父が見舞いに来ていたらしい。見舞いの品に、豪華な果物籠が置かれていた。血圧の警報音は止まったが、母の意識は戻らない。この日から3日間また泊まり込んだ。
翌日、次男叔父夫婦が見舞いに来てくれた。懸命に呼びかけているが、母の反応はない。
「おまえ、お袋(祖母)の写真立てを持ってきたのか」
次男叔父はいち早く気づいた。色褪せた祖母の写真を、テーブルに飾っていた。母をまだそちらに呼ばないように、母の意識が戻るよう祈りを込めて。
危険な山は超えたと言われた。もう泊まり込みをする必要はないと、告げられる。
だが相変わらず母の意識は戻らない。私は父の昼食、夕食を作って毎日、面会に赴いた。
サブリーダー医師から「このまま意識が戻らないかもしれない」と告げられたとき、私は病室の外のベンチで泣いた。
私は母に、幼少の頃から泣くなと躾けられていたので、年に一度、泣くか否かだ。友達と出かけた感動映画でも、映画館の女性は友人を含めて全員が泣いたが、私だけは泣かなかった。そもそも恋愛悲劇の実写という時点で、私好みではなく、俳優のあら捜しばかりしていた。友人には「冷血漢」とまで言われたが、その冷血漢を最初に映画に誘ったのが、私というのが間違いの元だろう。映画の話を聞きつけて、別の友人2人が加わったので、私が行く必要もなかった。だがその後のランチとショッピングは行きたかったので、彼女たちに同行したに過ぎない。
恐らく私がこのとき泣いたのは、初代愛犬が虹の橋を渡って以来だろう。私がうつむき、声を殺して泣いていたので、どの看護師かまで気づかなかったが、看護師が「大丈夫だから」と、懸命に背を撫でてくれた。
私が泣き止む頃には看護師は去っていたので、お礼が言えなかったのは残念だ。虚ろな目をした私の視界に、サブリーダー医師が手袋をはめながら、病室に入っていくのが見えた。
数時間後、母は意識を取り戻した。サブリーダー医師が、鼻の中へ器具の装着を試したと言っていた。
しかし意識が戻っても、母の認知機能は誤作動を起こしていた。今では『せん妄』という言葉が定着しているが、当時はその概念がなく、認知症の病院への転院を勧められた。
父と相談の末、とりあえず地元の大学病院へ転院させようということになった。大学病院へ連絡するとまず紹介状を持参して、ご家族だけでも事情の説明のため来てくださいとのこと。
入院先の医師に紹介状を書いてもらい、大学病院の医師に相談。確か内科だったと思う。ただベッドの空きがないので半月は待つことになること、緑膿菌感染者であることから、個室になるとのことだった。
3.クリスマスの奇跡?
そして、12月になった。いつもは心を弾ませる街中に溢れるクリスマスソングを、虚しい気持ちで聞いてた第1週目。
突然、母はスイッチが入ったように、完全に正気を取り戻した。少し早いが、最大のクリスマスプレゼントだった。
正気に戻ったのはいい。だがこの入院期間で、母は体重が70キロから40キロまで激減した。小太りな割に、かかりつけ医の指導で、1人で長い散歩をしていたため筋肉はあった。その筋肉貯金も、既にない。それに気づかずベッドから下りようとして転倒したことで、次に来院したときには、母はベッドに拘束されていて、私を見るなり泣き出した。あの母が、強気で勝ち気な母が泣くなど、人生で初めて見た気がする。愛犬が死んだときでさえ、もしかしたら隠れて泣いていたかもしれないが、決して人前で涙を見せなかった。本人曰く、「涙は母(祖母)が亡くなったときに、使い果たした」と。
看護師が、「ご家族の付き添いがあるときのみ、拘束を外します」と言って、拘束を外した。母が喜ぶが、父の事あるので一日おきにしか来れないが、面会時間ギリギリまで付き添った。母の意識が安定して、看護師の言う事を守るようになると、拘束は外された。そしてリハビリが開始される。
医師から「このままこの病院で退院まで見るから」と言われ、大学病院転院は取り消した。
この当時、病院に療養病棟の設置が政府から推奨された。後に取り消されて、在宅医療に切り替わる。母の帰宅に向けて、介護保険審査を申し込む。介護保険制度が立ちあがったばかりで、右も左も分からないため、四苦八苦した記憶が強い。
母はすぐにでも退院したいと訴えたが、食欲が戻らない。何を食べても美味しくないと言う。医師から、「好物を持ってきて食べさせてほしい」と言われる。
母に「何が食べたい?」と聞くと、「スイカ」と答える。クリスマスシーズンにスイカ。帰路のデパートで見たら、8分の1でもべらぼうなお値段。だが仕方がないと、スイカを購入。帰宅後、父からは「贅沢品だが、食べたいというなら仕方がないな」と呆れた顔で言われた。
そして翌日、タッパーにスイカを入れて持っていくと、喜んで食いついた母。看護師が集まってきて、「スイカだよ!」「この時期にスイカ!」と騒ぐ。既に大部屋へ移されていたので、他の入院患者の視線が痛かった。一度に食べきれないので、個別冷蔵庫で保管する。スイカの次は、ブドウ。冬に果物を買うのは、いま以上に大変だった。ミカンは駄目なのかと聞いても、「食べたくない」と。健康だった頃は、手が黄色くなるまで食べていたというのに。
母の容体が安定したので、療養病棟へ移された。ここは一般病棟よりも看護体制が低いが、その分、大部屋患者は伸び伸びしている。
担当医師は引き続き3人体制だが、私はリーダー格の先生を数えるほどしか見たことがないし、若い先生は一度も会ったことがなかった。兄が付き添いのときに、3人目の先生と話したらしいが、美人な先生だったと喜んでいた。
脳の活性化のために、車椅子で院内散歩も勧められた。こき使ってくれるものだと思いつつ、購買に連れて行くと「ジュース飲みたい、シャーベットが食べたい」と言うので購入する。たまに外来を終えたサブリーダー医師とブッキングすることがあり、買い物袋の中身に気まずい思いもしたが、「食べたいものがあってよかったね」と母に声をかけて去ってくれたのでホッとした。
クリスマスには毎年、母がスーパーで数日前に購入して味付けして寝かせたチキンを、オープンで焼くのが恒例だった。しかしチキンを焼く暇などない。
父と兄は、ならケンタッキーフライドチキンがいいという。クリスマスイブにケンタッキー、地獄だ。結論から言うと、買えなかった。病院近くのケンタッキーは、予約客のみ。帰路のデパート内のケンタッキーは3時間待ちだった。デパ地下の総菜はどこも混んでいたが、比較的空いていた店でチキンとオードブルセットを購入。酒の肴にして、父と兄は喜んで食べた。母がいないので、この年はシャンメリーは買わなかった。母の大好きな季節限定飲み物なのだが。
クリスマスイブの日の病院食には、ケーキがついていた。同部屋の人達は真っ先に食べたが、母は食べようとしない。「勿体ないから娘さんが食べなさい」と看護師に言われたが、早めのランチを食べてから病院に来たので、ケーキを胃に入れる余裕はなかった。面会時間は、平日は13時からだが、土日祝日は12時からだった。この日は土曜日だった。
年が明けて、お試し外泊ということで、1月14日から15日の一時帰宅が許された。しかし車椅子がないと、数歩程度の移動ならともかく、長い距離の移動は難しい。
そこで病院から紹介された大手介護レンタル会社から、車椅子を借りた。まだ介護保険の認定が出てないので実費だったが、移動に使う車椅子が有る無しでは雲泥の差がある。
4.一時帰宅
本来、入院患者は別のクリニックでの処方は受けられない。だが入院していた総合病院に眼科がなく、ダメ元でクリニックに一時帰宅途中の母を車椅子に乗せて連れて行ったら、臨時の眼科医が「特別ですよ」と言って目薬を処方してくれた。
これがまたハンサムな先生だったので、「あー、この人が噂の」と思った。母の眼科通院付き添いで、たまに代診でハンサムな先生が来ると、患者仲間のお婆さん達が話しているのを耳にしたことがあったのだ。
私がこの先生を見たのは後にも先にも一度きりだが、後年、その先生がクリニックに出没しなくなったため、お婆さんが「◯◯先生、最近見かけなくなったけど、どうしたの?」と受付に尋ね、「◯◯先生なら独立して〇〇町で開業しましたよ」と、答えていた。あの受付嬢、顧客(患者)を横流しする手助けをしたとしか思えないが。
そう言えば、母から入院している総合病院にも凄いハンサムな先生がいて、この先生が来ると、お婆さん達の黄色い声が上がるのだとか。母も一度、診察を受けたとかで、ドキドキしたと言っていた。どんな俳優に似てるか聞いても、例えられないと言う。それなら一度お目にかかりたいと思ったが、縁がなかったのは残念だ。
総合病院には、男性介護士がいた。なかなかの顔立ちだったので、人気があった。母が「◯◯さん、洗髪してもらっているときに、甘えた声出すのよ」と母は言っていたが、たまたま院内散歩中に声をかけられたとき、母の声もワンオクターブ上がっていた。幾つになっても、女性はハンサムに弱い。
眼科近くのスーパーで買い物をして、帰宅した。母はそれまで布団で寝ていたが、一時帰宅が決まった日に慌てて家具店に駆け込んで、通常型のベッドを、一時帰宅前日に届けてもらった。
後に手摺をネット通販で購入して、母の退院直前に兄と二人がかりで取り付けたのも、いい思い出だ。そう言えば、ベッドをトイレ近くに設置するため、リビングにあったタンスを二階に兄と運んだときには、タンスに潰されて死ぬかもと本気で思った。兄が上を持ち上げます、私が下から運んだため、重量が一気に私に来たのだ。今、同じことをしろと言われても、絶対に無理だ。若いって良かったなぁと、いま心から思う。
母はベッドなんて無駄遣いしてと、帰宅後にブツブツ言っていたが、やはりベッドなしでは立ち上がることも出来なかった。帰宅して母の好物を出しても、食事量はほんの少し。ただし梨だけは夕飯で半分完食した。
翌日、兄の運転で病院に戻る際、どうしても同部屋の部屋の人にお土産を買うこだと言う事を聞かない。仕方なく市内の和菓子屋に立ち寄って饅頭を人数分購入した。入院部屋に戻って饅頭を配ると、和気あいあいと、和菓子話で盛り上がった。食事制限がどうなっているか知らないが、ともかく皆が饅頭を食べていた。
私は病棟看護師に、一時帰宅中の食事の内容と量を書き込んだレポートを提出した。「この時期に梨ですか!」と驚かれたが、私も梨の値段には目玉が飛び出そうになりましたとも。母が、帰宅したら梨を食べたいと言うので、一時帰宅記念で、お祝いのつもりで買ったけれど。
母に季節外れの果物を提供する役割を果たした、市内のデパートの果物店が撤退してから、もう何年経っただろうか?
最初の一時帰宅中に問題がなかったので、1月28日29日に、二度目の一時帰宅を行った。療養型病棟に移ったので、まだ入院は続けてリハビリを行った方がとも言われたが、母の強い希望で退院する日を決めた。ただ懸念される要因があった。久しく母に便通がなかったのだ。
医師は大腸内視鏡検査を、退院前に行なうことを決めた。しかし結論から言うと、内視鏡カメラは腸の半分までしか入らなかったらしい。それでも異常はないということで、2月11日、母はやっと退院して自宅に戻った。
5.再入院
退院後の母は、意識不明の際の痰の吸引で暴れたため、右足に傷が出来ていたのと、内科的診察が必要なため、自宅からバスで通える距離の病院へ通院することとなった。
母の食欲は相変わらず戻らず、便通もない。退院処方の薬が切れる頃、紹介状を持って新たな病院へ向かった。新たな、といっても私には馴染のある病院だった。二度目の拒食症を20歳手前で発症した際、体に色々と弊害が出たので、脳検査や婦人科検査などを行い、一時期通院していたからだ。
まず外来医師は、紹介状の内容の他に気になることはないか尋ねた。私が母の便通のことを話すと、医師は看護師に浣腸を指示、そして内科的処方薬の他に強めの下剤が処方された。
翌朝、2月24日。荒川静香選手が、フィギュアスケートで初の金メダルを獲得した。その興奮沸き上がるニュースやワイドショーを母と観ていたとき、病院から電話があった。便通の有無を確かめるものだった。出ていないと答えると、直ちに入院準備をして母を連れてくるよう指示された。
前日に看護師が浣腸を2度行っても出なかったのに加えて、強力な下剤も効果無しとなれば、当然のことかもしれない。
むしろ、確かめてくれた新たな主治医には感謝しかない。結局、母は退院して2週間経たずに再入院となった。
この病院での病棟主治医は、外来と同じ先生だった。病院到着後、私は改めて医師からこれまでの事を、尋ねられ、大腸内視鏡検査のカメラが半分しか通らなかった話をすると、主治医は「その病院の医師は何をしていた!」と怒った。
診断『腸閉塞』。
この病院はオムツの持ち込みは禁止で、寝巻きも確かレンタルだったと記憶する。タオルなどの持ち込みは許された。点滴や浣腸などを繰り返し、ようやく便を出し切った。
だが様々な検査が必要とのことで、便を出し切っても、入院は延長された。母は帰りたいと、私に訴える。食欲は相変わらずなく、看護師からゼリーの持ち込みを許可された。だが前の病院のように個人冷蔵庫がないため、薬品保管用冷蔵庫で保管するとのことだった。
余談だが、この病院の近くには珍しい魚介類を扱う魚屋があった。病院帰りに珍しい白身魚の刺し身を父の夕飯用に購入して帰宅。何度か様々な白身魚の刺し身を持って帰ると、父は自ら母の面会に行くと言い出した。下着の着替えとタオルを持たせて、送り出す。帰宅した父は、ポケットマネーで、高級魚の刺し身を買って帰ってきた。
「あの魚屋、品数が半端ないな」
と、興奮して話す父。肝心の母の汚れ物は持って帰ってこない。翌日、私が汚れ物を取りに行く羽目になる。父はその後も率先して見舞いに出向き、ポケットマネーで刺し身や鍋具材高級魚を買ってきた。汚れ物は相変わらず忘れている。
母も「お父さんが来ても、何の役にも立たない。来てもすぐに帰るんだもの」と、ぼやいていた。まあ、確かに。見舞いではなく、魚屋目的で通っているのだから。
入院からかなり時間が過ぎて、ようやく主治医からの病状説明あるというので呼び出された。当初指定された時間は夜19時だったが、外来が押していたとかで、結局はよる20時から説明が始まった。これまで2つの病院の担当医師から説明を聞いたが、ここの主治医の説明はとても分かり易かった。この先生なら、人気なのも納得だ。1時間の説明の後、今後もう少し検査をしたいと言っていたが、母のメンタルが限界だったので退院を希望した。
主治医も家族の意向なら仕方がないと、母の退院は認められた。ただし今後の診察は、近所のクリニックで行なうよう通告された。母の体力でここまで来させて、2時間以上の外来診察待ちは無理だと言う、もっともな判断だった。
そう、本当に的確な判断である。私が近所のクリニックの院長を天敵認定しているのを除けば。
3月20日、母は退院した。
6.天敵先生
3つ目の病院でのリハビリ訓練のお陰で、母の歩行距離も伸びた。食事に関しては、主治医が母に「ちゃんと食べないと、また入院ですからね」と、脅しをかけた。
何がきっかけで食欲スイッチが入るか分からない。母の歩行訓練を私も主治医からきつく言い渡されていたため、ゆっくりながらも杖を使ってスーパーの買い物に付き合わせた。あるとき、母がお惣菜コーナーで、鮭の幕の内弁当が食べたいと言い出した。魚の骨が引っかからないか懸念もあったが、食べたいと言うのであればと、購入した。三分の一でも食べてくれれば良いと思ったが、完食したのにはびっくりした。
それ以来、母の食欲は戻った。いや、戻りすぎた。当初は食べてくれたのに喜んだが、ちょっと食べ過ぎじゃないかと思うぐらい、何を出しても「美味しい、美味しい」と、こちらが驚くほどの食欲ぶり。
一年と経たないうちに、母は元の体重に戻った。それと共に、風呂の介助も必要なくなり、いつの間にか朝食は自分で食事を作るようになった。私が作り始める7時からだとお腹がすくと、朝6 時前には台所に立って作り始めるのだ。父も私の作った病院からの指示による減塩薄味味噌汁より、母の作る赤出汁の塩気の強い味噌汁に喜んだ。夕飯は引き続き私が、私と母の昼食はどちらかが台所占有権者が作るが習慣化した。
病院の処方薬が切れる頃、気が重いながらも近所のクリニックに母を受診させた。私はこの先生が苦手だった。母には優しいが、私に対して「そんなこと、聞いたことがありませんね」が口癖のように発せられる。
また、私はここのクリニックの薬との相性がとても悪かった。
開業当初、近くにクリニックが出来たことを喜んだ。しかし風邪で受診したとき出された薬が合わずに蕁麻疹発症。院長は私に何を食べたか尋ねる。私は食欲が失せると、レトルトコーンスープやお吸い物に、ご飯やパンを入れて食べていた。胃が風邪でやられているときは、味噌汁は吐き気を催すので駄目だった。私が「薬が合わないのではと」と尋ねると、「そんなことは、ありえませんね」との返答。そして蕁麻疹を抑える点滴を看護師に指示した。
ここの看護師と私の血管の相性も悪かった。他のクリニックや病院でも採血には苦労していたが、それでも丹念に血管を探し当て、一度で採血を成功させていた。だがここでは両腕をブスブス刺された挙げ句、手の甲から点滴開始。地味に痛い。そして蕁麻疹は治まらない。
3度ほど点滴を続けた挙げ句、私は子供の頃から通っていた、病気の時は少々つらい距離の医院へ、クリニックの薬を持って来院した。馴染の老医師は「どれも蕁麻疹疑いのある薬だし、単なる風邪でこんなに薬を出すのもおかしい」と驚いていた。確かに漢方薬やドロップを含めて、8種類ほど出ていたのではないか。
そしてクリニックの風邪薬は処分するよう言われ、医院の薬が処方された。クリニックは1週間分の薬を処方したが、この医院は昔から3日分。患者の体質に薬が合うか確かめるためと、そして最低限の薬で充分という考え方からだった。少なくとも2度は通わなければならないため、高熱のときは、かなり辛い。そして粉薬はとても苦い。薬は扁桃腺の腫れが酷いとき以外は2種類しか出さない。
だが昔なじみの薬に変えたら、たちまち蕁麻疹は消えた。「やっぱ薬が原因じゃないか」。私はそれ以来、両親の付き添いに近所のクリニックは行っても、ここの処方薬は絶対に飲まないと決めて、ずっと守り通している。
そう言えば、子供の頃も似たような事があった。癖の強い院長と母は相性が悪く、風邪を引くと高熱をすぐに出す私を、あるときバスで離れた医院へ連れて行った。ここの砂薬は甘くて美味しかったが、服薬後に腕が赤く腫れ上がった。もう一度受診したときには「リンゴ病」と診断され、別の薬が出されたが効かない。そして体が、しんどい。母は仕方なく、馴染の医院に出向き、私を受診させた。たちまち腫れは退いて、風邪からも解放された。「あんたは、あそこの薬じゃないと無理なのね」と、母は悔しさと苛立ちを隠せなかった。
喧嘩の原因は、確か小学生にもなって母が付き添いで診察に入ってきてベラベラ話すのを、院長が「私は患者から病状を聞きたいんだ、親は出ていきなさい」と注意されたことだったと思う。
クリニックの天敵先生は、母の窶れように驚いていた。そして紹介状の凄腕医師の指示通りの処方薬が出された。私はまあ、いつものごとく、母の生活習慣に気を配るよう、延々と注意された。いや、もうそれ、凄腕医師から耳にタコができるほど聞かされているんだけど?
ゴールデンウィークには、家族全員で父方の墓を墓参した。杖は手放せないが、細く急な階段も上り下り出来ほど、母は回復した。
7.バナナ
我が家の2代目愛犬は、バナナという。父の知り合いの獣医から無償で譲られた保護犬で、既に名前がバナナとつけられていた。獣医のもとでは手を付けられないほどお転婆(メス犬)とのことだったが、居場所を転々とした挙げ句、やっと我が家が終の棲家になると気づいたときには、とても愛らしくて家族の言う事をよくきく忠犬となっていた。
母の帰宅をバナナも喜んだ。母のリハビリ散歩にも、バナナは歩調を合わせ、ときおりリードを持つ私や母を見上げてニコッと笑う。この頃、10歳の老齢期に入っていたが、まだまだ元気だった。
だが母が急速に体調を戻していくのに対して、バナナは次第に変な咳をするようになった。初代愛犬が虹の橋を渡る前、よくこんな咳をしていた。
近所の獣医に連れていき、薬が処方されたが治らない。むしろ咳は酷くなり、散歩途中に歩けなくなって、抱きかかえて連れ帰ることも増えた。父と相談して、バナナをもらい受けた獣医に診せることにした。
車に乗ったバナナは、いつもの水遊び場所へ連れて行ってくれるのだと思って、私の足元でニコッと笑っていた。
バナナをもらった10年前、山梨県で開業していた獣医は、ごく最近、本院を私たちが住む同市に移した。実はこの獣医、父の会社の同僚さんの息子さんで、父は同僚さん経由でバナナをもらい受けたのだ。この市に本院を建てたのも、高齢化した父の同僚さん夫妻と同居するためだった。
最新鋭の機器が揃った動物病院で検査の結果、バナナは心臓病、「僧帽弁閉鎖不全症」と診断された。初代の愛犬の教訓でフィラリア薬は欠かさなかったので、フィラリアには感染していなかった。
入院を勧められたので、お願いした。初代のときは自宅で看取ったが、あのとき、もっと設備の整った動物病院に診せればもっと延命できたのではないかと、家族で悔やんだからだった。だが入院させる選択は、バナナに生きる気力を失わせた。面会に出向いても、ケージの中で点滴されて横たわったまま、こちらを見ようともしない。バナナを退院させようとした矢先、7月3日朝8時、バナナ死去の連絡が動物病院から来た。
独りでこの世から旅立たせた後悔は、初代愛犬を見送ったときよりも、家族の胸をえぐった。
亡骸を玄関に安置して祭壇を作り、動物霊園で荼毘に付すまで安置した。私たちはバナナの死を悼みつつ、同じことを考えていた。
「バナナ、母さんの身代わりに天へ旅立ったんだね」
バナナの体調変化が、母の回復とあまりにリンクし過ぎていた。今もバナナは、あのときの母を救ってくれた忠犬だと信じている。
それと同時に、後悔も大きかった。バナナがあれほど愛した我が家で、家族の見守る中、旅立たせてやれなかったことに。
大きな選択ほど、間違える。家は火が消えたかのように静かになった。
1
お気に入りに追加
3
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
蘇生魔法を授かった僕は戦闘不能の前衛(♀)を何度も復活させる
フルーツパフェ
大衆娯楽
転移した異世界で唯一、蘇生魔法を授かった僕。
一緒にパーティーを組めば絶対に死ぬ(死んだままになる)ことがない。
そんな口コミがいつの間にか広まって、同じく異世界転移した同業者(多くは女子)から引っ張りだこに!
寛容な僕は彼女達の申し出に快諾するが条件が一つだけ。
――実は僕、他の戦闘スキルは皆無なんです
そういうわけでパーティーメンバーが前衛に立って死ぬ気で僕を守ることになる。
大丈夫、一度死んでも蘇生魔法で復活させてあげるから。
相互利益はあるはずなのに、どこか鬼畜な匂いがするファンタジー、ここに開幕。
令嬢の名門女学校で、パンツを初めて履くことになりました
フルーツパフェ
大衆娯楽
とある事件を受けて、財閥のご令嬢が数多く通う女学校で校則が改訂された。
曰く、全校生徒はパンツを履くこと。
生徒の安全を確保するための善意で制定されたこの校則だが、学校側の意図に反して事態は思わぬ方向に?
史実上の事件を元に描かれた近代歴史小説。
GAME CHANGER 日本帝国1945からの逆襲
俊也
歴史・時代
時は1945年3月、敗色濃厚の日本軍。
今まさに沖縄に侵攻せんとする圧倒的戦力のアメリカ陸海軍を前に、日本の指導者達は若者達による航空機の自爆攻撃…特攻 で事態を打開しようとしていた。
「バカかお前ら、本当に戦争に勝つ気があるのか!?」
その男はただの学徒兵にも関わらず、平然とそう言い放ち特攻出撃を拒否した。
当初は困惑し怒り狂う日本海軍上層部であったが…!?
姉妹作「新訳 零戦戦記」共々宜しくお願い致します。
共に
第8回歴史時代小説参加しました!
校長先生の話が長い、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
学校によっては、毎週聞かされることになる校長先生の挨拶。
学校で一番多忙なはずのトップの話はなぜこんなにも長いのか。
とあるテレビ番組で関連書籍が取り上げられたが、実はそれが理由ではなかった。
寒々とした体育館で長時間体育座りをさせられるのはなぜ?
なぜ女子だけが前列に集められるのか?
そこには生徒が知りえることのない深い闇があった。
新年を迎え各地で始業式が始まるこの季節。
あなたの学校でも、実際に起きていることかもしれない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる