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第一章 ヒトラー暗殺計画
ハンス・ユンゲの手記(1)
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一九四三年五月二〇日のこと。
ヒトラー総統の従卒である私ことハンス・ユンゲがこのような記録を残していることは、誰も想像していないだろう。
世間から見る限り、私の人物像は、ヒトラー総統を起こし、新聞を渡し、報告を告げ、毎日の食事や服装を決めるという、いわゆる小間使いだ。
だが、私の目下の関心ごとは、少なくとも今は総統の健康状態ではない。帝国を襲う新たな危機からの回避だ。この事件があまりにも異様だったため、どうしても残しておきたく、こうしてペンを取ることにした。
話の発端は、総統が日課としていた少人数の昼食どきであった。
この時期、総統はドイツ国防軍の指揮のため、占領下にあるポーランドで作戦行動を指導するための指揮所にいた。東プロイセン州のラステンブルクの森林に建設されたこの本営は、ヴォルフスシャンツェ(狼の巣)と呼ばれていた。
ここに作られた大きな食堂で、私は部屋の外で警備についていた。いつものとおり金髪をオールバックに整えてフィールドグレーの野戦服を着用し、左腕に鷲章といった、ナチス・ドイツの武装親衛隊を示す軍服を身につけ、部屋の外に直立していた。
総統は政治と関係ない、自分の青春時代について話していた。いつもよりのんびりしているようで、まだ作戦会議にやってくる将軍を迎えにいく必要はなさそうだ。
私は同僚たちの会話に耳を移したが、彼らの関心ごとはいつも同じで、もっぱらイタリアの戦況だった。
「アルニム上級大将が降伏した。脱出した残存戦力も西部戦線へと移った」
同僚は鉄を削るような苦い声を出していた。
「また負けたのか」
隣からも似た色の声が返ってくる。
「結局イタリアは俺たちの足を引っ張るだけだ」
タバコの煙にいら立ちが混じる。
「北アフリカは無理だな」
「無理だ。ムッソリーニもかなり衰弱しているらしい」
同僚はそうイタリアのトップを呼び捨てた。イタリアが関わるニュースはどれを聞いてもろくなものがなかった。ヒトラー総統は個人的にムッソリーニをドゥーチェと呼び、熱い友情を抱いていたが、我々の知るイタリア軍とは戦いの素人とほぼ同義だ。イタリアの話題を出すということは、つまりは悪口だった。
もっと強力な同盟国がいれば。そういう話題はたびたび出た。
イタリアだけではない。ヴィシーフランスもルーマニアもフィンランドも、局地的な意味では味方だったが、戦争全体を支えているのは常にドイツだ。その事実は戦争が進むにつれ、全員の肩を圧迫していた。だが、そうした我々の認識は概ね当たってはいたにせよ、真実ではなかった。我々には東の果てにもう一国、強大な味方がいたからだ。
その国のことを思い出すきっかけになったのが、この日の事件だった。
総統が陽気な話し声を抑え、食事に集中し始めた時だ。ガシャンと遠くで窓が割れる音が、静かな空気を打ち破った。我々は口を閉じ、静かに立ち上がってそれぞれの目を廊下へ向けた。
「行くぞ」
私たちは陽の光が差し込んでくる場所に移動した。風の音はほとんど聞こえない。窓が割れるとすれば、誰かが意図的にやったということになる。
壁の上に我々の影が映った。誰の姿もない。割れた窓を踏むと、それは小さな音を立てた。
「風か」
同僚が小さな声をあげた。そうかと思ったが、窓の外から流れこむ空気は感じられなかった。
妙な気がした。使わない方角の廊下だったのでほこりが漂っていたが、その流れはどこか不自然に思えた。意図的に動いているような気がするのだ。
続いて奇妙な気配を感じた。同僚との距離が離れているわりに、不自然な温度が肌に届く。暖かい。そして湿気を帯びている。
「風ではないな」
私はつぶやき、拳銃のホルスターに手をすべらせた。どうしてそんなことをしたのか、自分でも説明がつかなかった。
「ユンゲ、何をしてる?」
一人が言った。もう一人は何も言わなかった。だけではない。奇妙に背をのけぞらせてうめき声を出している。
両手を喉の前で握りしめていた。
「どうした!」
私が言うと同時に、ドンと肉を打つような音が廊下に響いた。彼に近づいた将校が突然、ばったりと倒れた。うめき声を出していた男も、もがきながら床に転がった。
「毒ガスだ!」
状況からそうとしか思えず、あらんかぎりの声で叫んだ。応じて警備兵が集まってきた。倒れた二人も立ち上がって駆け寄ってきた。
「窓を開けろ! 風を入れろ!」
言いながら窓を開いた。だが、私の上げようとした腕は立ち上がった同僚に抑えられた。
「やめろ。毒ガスではない。首を絞められた」
立ち上がった同僚が咳き込みながらつぶやいた。
「誰に?」
「見えなかったのか?」
言いながら彼は腰に手をやり、それからぎょっとして視線を落とした。
「しまった」
「どうした?」
「拳銃がない」
「落としたのか?」
「落とした? まさか……いや、留め金がはずれている」
一同が廊下を見た。
拳銃はどこにもなかった。陰のない一本道の廊下だ。何かが落ちていれば確実に見つけられるはずだ。
カーテンがかかった方角へ懐中電灯を走らせて角度を挙げた。
その光の中。
空中にピストルが浮かんでいた。糸で吊っているかのように、何もない場所にルガーP08が漂っている。
「なんだ?」
言葉が終わるより銃声が先だった。
二度。
三度。
光の中に浮いた鋼鉄が、私の同僚を屍に変えていった。
ヒトラー総統の従卒である私ことハンス・ユンゲがこのような記録を残していることは、誰も想像していないだろう。
世間から見る限り、私の人物像は、ヒトラー総統を起こし、新聞を渡し、報告を告げ、毎日の食事や服装を決めるという、いわゆる小間使いだ。
だが、私の目下の関心ごとは、少なくとも今は総統の健康状態ではない。帝国を襲う新たな危機からの回避だ。この事件があまりにも異様だったため、どうしても残しておきたく、こうしてペンを取ることにした。
話の発端は、総統が日課としていた少人数の昼食どきであった。
この時期、総統はドイツ国防軍の指揮のため、占領下にあるポーランドで作戦行動を指導するための指揮所にいた。東プロイセン州のラステンブルクの森林に建設されたこの本営は、ヴォルフスシャンツェ(狼の巣)と呼ばれていた。
ここに作られた大きな食堂で、私は部屋の外で警備についていた。いつものとおり金髪をオールバックに整えてフィールドグレーの野戦服を着用し、左腕に鷲章といった、ナチス・ドイツの武装親衛隊を示す軍服を身につけ、部屋の外に直立していた。
総統は政治と関係ない、自分の青春時代について話していた。いつもよりのんびりしているようで、まだ作戦会議にやってくる将軍を迎えにいく必要はなさそうだ。
私は同僚たちの会話に耳を移したが、彼らの関心ごとはいつも同じで、もっぱらイタリアの戦況だった。
「アルニム上級大将が降伏した。脱出した残存戦力も西部戦線へと移った」
同僚は鉄を削るような苦い声を出していた。
「また負けたのか」
隣からも似た色の声が返ってくる。
「結局イタリアは俺たちの足を引っ張るだけだ」
タバコの煙にいら立ちが混じる。
「北アフリカは無理だな」
「無理だ。ムッソリーニもかなり衰弱しているらしい」
同僚はそうイタリアのトップを呼び捨てた。イタリアが関わるニュースはどれを聞いてもろくなものがなかった。ヒトラー総統は個人的にムッソリーニをドゥーチェと呼び、熱い友情を抱いていたが、我々の知るイタリア軍とは戦いの素人とほぼ同義だ。イタリアの話題を出すということは、つまりは悪口だった。
もっと強力な同盟国がいれば。そういう話題はたびたび出た。
イタリアだけではない。ヴィシーフランスもルーマニアもフィンランドも、局地的な意味では味方だったが、戦争全体を支えているのは常にドイツだ。その事実は戦争が進むにつれ、全員の肩を圧迫していた。だが、そうした我々の認識は概ね当たってはいたにせよ、真実ではなかった。我々には東の果てにもう一国、強大な味方がいたからだ。
その国のことを思い出すきっかけになったのが、この日の事件だった。
総統が陽気な話し声を抑え、食事に集中し始めた時だ。ガシャンと遠くで窓が割れる音が、静かな空気を打ち破った。我々は口を閉じ、静かに立ち上がってそれぞれの目を廊下へ向けた。
「行くぞ」
私たちは陽の光が差し込んでくる場所に移動した。風の音はほとんど聞こえない。窓が割れるとすれば、誰かが意図的にやったということになる。
壁の上に我々の影が映った。誰の姿もない。割れた窓を踏むと、それは小さな音を立てた。
「風か」
同僚が小さな声をあげた。そうかと思ったが、窓の外から流れこむ空気は感じられなかった。
妙な気がした。使わない方角の廊下だったのでほこりが漂っていたが、その流れはどこか不自然に思えた。意図的に動いているような気がするのだ。
続いて奇妙な気配を感じた。同僚との距離が離れているわりに、不自然な温度が肌に届く。暖かい。そして湿気を帯びている。
「風ではないな」
私はつぶやき、拳銃のホルスターに手をすべらせた。どうしてそんなことをしたのか、自分でも説明がつかなかった。
「ユンゲ、何をしてる?」
一人が言った。もう一人は何も言わなかった。だけではない。奇妙に背をのけぞらせてうめき声を出している。
両手を喉の前で握りしめていた。
「どうした!」
私が言うと同時に、ドンと肉を打つような音が廊下に響いた。彼に近づいた将校が突然、ばったりと倒れた。うめき声を出していた男も、もがきながら床に転がった。
「毒ガスだ!」
状況からそうとしか思えず、あらんかぎりの声で叫んだ。応じて警備兵が集まってきた。倒れた二人も立ち上がって駆け寄ってきた。
「窓を開けろ! 風を入れろ!」
言いながら窓を開いた。だが、私の上げようとした腕は立ち上がった同僚に抑えられた。
「やめろ。毒ガスではない。首を絞められた」
立ち上がった同僚が咳き込みながらつぶやいた。
「誰に?」
「見えなかったのか?」
言いながら彼は腰に手をやり、それからぎょっとして視線を落とした。
「しまった」
「どうした?」
「拳銃がない」
「落としたのか?」
「落とした? まさか……いや、留め金がはずれている」
一同が廊下を見た。
拳銃はどこにもなかった。陰のない一本道の廊下だ。何かが落ちていれば確実に見つけられるはずだ。
カーテンがかかった方角へ懐中電灯を走らせて角度を挙げた。
その光の中。
空中にピストルが浮かんでいた。糸で吊っているかのように、何もない場所にルガーP08が漂っている。
「なんだ?」
言葉が終わるより銃声が先だった。
二度。
三度。
光の中に浮いた鋼鉄が、私の同僚を屍に変えていった。
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