8 / 41
第三章 宮女生活の始まりです
密偵
しおりを挟む
爽やかな朝の光を浴びながら、皇帝陛下は平たい桃を齧る。満開の春牡丹を眺めながら一緒に朝餉をとり、陛下は紫琴宮へと出掛けていく。最近の朝の日常風景は同じ日をすごしているかのように変わり映えしないのだが、今日は違った。
小鳥も囀らぬ早朝に陛下は、「銀貴妃」と呼び起こした。
牡丹坊の中と言えど、まあ誰かが盗み聞いている危険性を鑑みて、陛下は私を本名で呼ばない。だが銀蓮と呼ぶのには抵抗があるのだろう。基本は2人きりなので名前など意味をなさない。皇帝は私を〝そなた〟と呼び、私は〝陛下〟と呼んでいる。
だから、銀貴妃と呼ぶのは、昨日と同じく折り入っての何かがある時なのだ。
「昨日はいつの間にか寝てしまってな、言いそびれたことがあるのだ」
陛下は、少し言い淀んだ。
「銀貴妃の機嫌があまり悪くならなかったら良いのだが…」
言い出しにくいのか私に眼を合わせようとしない。
「今日から宮に嬪が増える」
「気を悪くなどいたしません。」
貴人や答応は毎日増えていくのだから、別に嬪が増えたところで気にならない。
「いや、しかし明日からしばらく来られないのだ。そなたは淋しくないのか」
「お淋しゅうございます」
間髪入れず言ってしまった。少し棒読みだったかもしれない。陛下は私の返答の淡白さに、機嫌を損ねたと勘違いしたのか、抱き寄せると私の髪に撫でる。
「陛下、ご心配なさらないでください。本当に気を悪くなどしておりませんよ。後宮は陛下の為の場所なのですから、お好きになさりませ」
私の言葉に陛下は困ったように笑う。
「それが好きにしてばかりもいられぬのだ。現に今日はもう行かねばならぬ」
陛下は均整の取れた身体に、紫紗の長衣を羽織る。紫の空を望む静寂に満ちた廊下を進んだ。窓からは薄い月と仄かな星が照らしている。
見送りをしようと薄衣だけ纏った私は、少しだけ遅れて陛下の後を着いてゆく。陛下は内扉に手をかけたが、突然振り向き、私を引き寄せ抱きしめる。息も出来ないほどの長い口づけをした。上気した私の頬を撫でながら、深みのある優しい声で言葉を紡ぐ。
「しばらく来られない事情は察してもらいたい。宮女雲泪の活躍を頼りにしているよ」
最後に悪戯っぽく笑うと、去ってしまった。しばらく会えないのなら、なんで最後にこんな口づけをするのよ。陛下のいなくなった牡丹坊は、あまりに広く感じられた。
ふて寝した私が次目覚めたのは、昼過ぎだった。寝ている間に小青が届けてくれたのだろう。卓上の蟠桃が新しく追加されている。陛下がしばらく来ないなら、こんなに桃があっても腐ってしまうだけだわ。私は新しい方の桃を選って、洗濯籠に入れた。
「見たよ、あんた!」
茉莉は洗濯場に現れた私を見るなり、満面の笑みを浮かべる。多分私の配属はもう発表されているのだろう。
「そうなの、茉莉にはお世話になったから挨拶に来たわ」
「嬪が一気に3人も増えたから配属先で宮女皆が今日はてんやわんやだけど、あんたが1番の出世頭だね」
「わかんないわよ、すぐ首になるかも」
私の言葉に豪快に茉莉が笑う。
「銀貴妃はどんな方なんだい?」
「そうねえ、お部屋から出てらっしゃないから、まだ良く分からないわ。でも親切な方よ!」
そう言って私は洗濯籠の中を見せる。
「ひゃっほい。こりゃ確かに親切な方だ」
私たちは、休憩することにした。
「さすが後宮の牡丹坊だねえ、西王母の果樹園で成る伝説の桃みたいだよ」
皇帝陛下のお気に入りの朝食である。間違いなく、この国で1番だろうなと思いながら、私も桃を頬張る。美味しいものはひとりで食べても美味しいが、誰かと一緒に食べる方がもっと美味しい。実家ではひとりぼっちに慣れていたのに、今夜から陛下が来ないかと思うと牡丹坊に帰るのがひどく億劫だった。
「それで、揚東の藍飛と南鞍の梅鳳、それから西楼莎の李娜紗って令嬢が嬪で入ってきたんだよ。今回は、邸付きの入宮だろ?お付きの侍女は勿論みんな実家から連れてきてるが、宮女が足りないってんで取り合いしてるんだよ」
「邸はそんなに人手いるもんなの?」
「そりゃあ、そうだろ。銀貴妃のとこは宮女は何人いるんだい?」
「えっと尚宮の許青さんと…私と、あと3人くらいかな?」
サバを読んで答えたのに、茉莉はこの世の終わりみたいな顔をしている。
「あ、私が挨拶した数だよ?まだ会ってない宮女を含めたらあと10人くらいはいるみたいだわ」
「そりゃあ掃除だけでも10人いなくちゃ回らないだろうよ」
小青に負担かけすぎかなあと急に不安になる。早く帰って邸の仕事を手伝ってあげよう。皇帝陛下も来ないことだし、ゆっくり掃除ができそうだ。
私は桃を食べ終わって洗濯籠を背負った。帰ろうとする私に、茉莉は耳元で囁く。
「しかし、今回はさすがの皇帝陛下も銀貴妃以外にもお通りになるだろうから、あんたも八つ当たりで首にならないように気をつけるんだよ」
胸がチクンと傷んだ。そして、曖昧な笑顔を浮かべ茉莉に手を振ったのだった。
小鳥も囀らぬ早朝に陛下は、「銀貴妃」と呼び起こした。
牡丹坊の中と言えど、まあ誰かが盗み聞いている危険性を鑑みて、陛下は私を本名で呼ばない。だが銀蓮と呼ぶのには抵抗があるのだろう。基本は2人きりなので名前など意味をなさない。皇帝は私を〝そなた〟と呼び、私は〝陛下〟と呼んでいる。
だから、銀貴妃と呼ぶのは、昨日と同じく折り入っての何かがある時なのだ。
「昨日はいつの間にか寝てしまってな、言いそびれたことがあるのだ」
陛下は、少し言い淀んだ。
「銀貴妃の機嫌があまり悪くならなかったら良いのだが…」
言い出しにくいのか私に眼を合わせようとしない。
「今日から宮に嬪が増える」
「気を悪くなどいたしません。」
貴人や答応は毎日増えていくのだから、別に嬪が増えたところで気にならない。
「いや、しかし明日からしばらく来られないのだ。そなたは淋しくないのか」
「お淋しゅうございます」
間髪入れず言ってしまった。少し棒読みだったかもしれない。陛下は私の返答の淡白さに、機嫌を損ねたと勘違いしたのか、抱き寄せると私の髪に撫でる。
「陛下、ご心配なさらないでください。本当に気を悪くなどしておりませんよ。後宮は陛下の為の場所なのですから、お好きになさりませ」
私の言葉に陛下は困ったように笑う。
「それが好きにしてばかりもいられぬのだ。現に今日はもう行かねばならぬ」
陛下は均整の取れた身体に、紫紗の長衣を羽織る。紫の空を望む静寂に満ちた廊下を進んだ。窓からは薄い月と仄かな星が照らしている。
見送りをしようと薄衣だけ纏った私は、少しだけ遅れて陛下の後を着いてゆく。陛下は内扉に手をかけたが、突然振り向き、私を引き寄せ抱きしめる。息も出来ないほどの長い口づけをした。上気した私の頬を撫でながら、深みのある優しい声で言葉を紡ぐ。
「しばらく来られない事情は察してもらいたい。宮女雲泪の活躍を頼りにしているよ」
最後に悪戯っぽく笑うと、去ってしまった。しばらく会えないのなら、なんで最後にこんな口づけをするのよ。陛下のいなくなった牡丹坊は、あまりに広く感じられた。
ふて寝した私が次目覚めたのは、昼過ぎだった。寝ている間に小青が届けてくれたのだろう。卓上の蟠桃が新しく追加されている。陛下がしばらく来ないなら、こんなに桃があっても腐ってしまうだけだわ。私は新しい方の桃を選って、洗濯籠に入れた。
「見たよ、あんた!」
茉莉は洗濯場に現れた私を見るなり、満面の笑みを浮かべる。多分私の配属はもう発表されているのだろう。
「そうなの、茉莉にはお世話になったから挨拶に来たわ」
「嬪が一気に3人も増えたから配属先で宮女皆が今日はてんやわんやだけど、あんたが1番の出世頭だね」
「わかんないわよ、すぐ首になるかも」
私の言葉に豪快に茉莉が笑う。
「銀貴妃はどんな方なんだい?」
「そうねえ、お部屋から出てらっしゃないから、まだ良く分からないわ。でも親切な方よ!」
そう言って私は洗濯籠の中を見せる。
「ひゃっほい。こりゃ確かに親切な方だ」
私たちは、休憩することにした。
「さすが後宮の牡丹坊だねえ、西王母の果樹園で成る伝説の桃みたいだよ」
皇帝陛下のお気に入りの朝食である。間違いなく、この国で1番だろうなと思いながら、私も桃を頬張る。美味しいものはひとりで食べても美味しいが、誰かと一緒に食べる方がもっと美味しい。実家ではひとりぼっちに慣れていたのに、今夜から陛下が来ないかと思うと牡丹坊に帰るのがひどく億劫だった。
「それで、揚東の藍飛と南鞍の梅鳳、それから西楼莎の李娜紗って令嬢が嬪で入ってきたんだよ。今回は、邸付きの入宮だろ?お付きの侍女は勿論みんな実家から連れてきてるが、宮女が足りないってんで取り合いしてるんだよ」
「邸はそんなに人手いるもんなの?」
「そりゃあ、そうだろ。銀貴妃のとこは宮女は何人いるんだい?」
「えっと尚宮の許青さんと…私と、あと3人くらいかな?」
サバを読んで答えたのに、茉莉はこの世の終わりみたいな顔をしている。
「あ、私が挨拶した数だよ?まだ会ってない宮女を含めたらあと10人くらいはいるみたいだわ」
「そりゃあ掃除だけでも10人いなくちゃ回らないだろうよ」
小青に負担かけすぎかなあと急に不安になる。早く帰って邸の仕事を手伝ってあげよう。皇帝陛下も来ないことだし、ゆっくり掃除ができそうだ。
私は桃を食べ終わって洗濯籠を背負った。帰ろうとする私に、茉莉は耳元で囁く。
「しかし、今回はさすがの皇帝陛下も銀貴妃以外にもお通りになるだろうから、あんたも八つ当たりで首にならないように気をつけるんだよ」
胸がチクンと傷んだ。そして、曖昧な笑顔を浮かべ茉莉に手を振ったのだった。
13
お気に入りに追加
181
あなたにおすすめの小説
皇太后(おかあ)様におまかせ!〜皇帝陛下の純愛探し〜
菰野るり
キャラ文芸
皇帝陛下はお年頃。
まわりは縁談を持ってくるが、どんな美人にもなびかない。
なんでも、3年前に一度だけ出逢った忘れられない女性がいるのだとか。手がかりはなし。そんな中、皇太后は自ら街に出て息子の嫁探しをすることに!
この物語の皇太后の名は雲泪(ユンレイ)、皇帝の名は堯舜(ヤオシュン)です。つまり【後宮物語〜身代わり宮女は皇帝陛下に溺愛されます⁉︎〜】の続編です。しかし、こちらから読んでも楽しめます‼︎どちらから読んでも違う感覚で楽しめる⁉︎こちらはポジティブなラブコメです。
後宮の不憫妃 転生したら皇帝に“猫”可愛がりされてます
枢 呂紅
キャラ文芸
旧題:後宮の不憫妃、猫に転生したら初恋のひとに溺愛されました
★第16回恋愛小説大賞にて奨励賞をいただきました!応援いただきありがとうございます★
後宮で虐げられ、命を奪われた不遇の妃・翠花。彼女は六年後、猫として再び後宮に生まれた。
幼馴染で前世の仇である皇帝・飛龍に拾われ翠花は絶望する。だけど飛龍は「お前を見ていると翠花を思い出す」「翠花は俺の初恋だった」と猫の翠花を溺愛。翠花の死の裏に隠された陰謀と、実は一途だった飛龍とのすれ違ってしまった初恋の行く先は……?
一度はバッドエンドを迎えた両片想いな幼馴染がハッピーエンドを取り戻すまでの物語。
ヤンデレストーカーに突然告白された件
こばや
キャラ文芸
『 私あなたのストーカーなの!!!』
ヤンデレストーカーを筆頭に、匂いフェチシスコンのお姉さん、盗聴魔ブラコンな実姉など色々と狂っているヒロイン達に振り回される、平和な日常何それ美味しいの?なラブコメです
さぁ!性癖の沼にいらっしゃい!
【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される
奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。
けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。
そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。
2人の出会いを描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630
2人の誓約の儀を描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」
https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041
耽溺愛ークールな准教授に拾われましたー
汐埼ゆたか
キャラ文芸
准教授の藤波怜(ふじなみ れい)が一人静かに暮らす一軒家。
そこに迷い猫のように住み着いた女の子。
名前はミネ。
どこから来たのか分からない彼女は、“女性”と呼ぶにはあどけなく、“少女”と呼ぶには美しい
ゆるりと始まった二人暮らし。
クールなのに優しい怜と天然で素直なミネ。
そんな二人の間に、目には見えない特別な何かが、静かに、穏やかに降り積もっていくのだった。
*****
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
※他サイト掲載
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
求職令嬢は恋愛禁止な竜騎士団に、子竜守メイドとして採用されました。
待鳥園子
恋愛
グレンジャー伯爵令嬢ウェンディは父が友人に裏切られ、社交界デビューを目前にして無一文になってしまった。
父は異国へと一人出稼ぎに行ってしまい、行く宛てのない姉を心配する弟を安心させるために、以前邸で働いていた竜騎士を頼ることに。
彼が働くアレイスター竜騎士団は『恋愛禁止』という厳格な規則があり、そのため若い女性は働いていない。しかし、ウェンディは竜力を持つ貴族の血を引く女性にしかなれないという『子竜守』として特別に採用されることになり……。
子竜守として働くことになった没落貴族令嬢が、不器用だけどとても優しい団長と恋愛禁止な竜騎士団で働くために秘密の契約結婚をすることなってしまう、ほのぼの子竜育てありな可愛い恋物語。
※完結まで毎日更新です。
地味女で喪女でもよく濡れる。~俺様海運王に開発されました~
あこや(亜胡夜カイ)
恋愛
新米学芸員の工藤貴奈(くどうあてな)は、自他ともに認める地味女で喪女だが、素敵な思い出がある。卒業旅行で訪れたギリシャで出会った美麗な男とのワンナイトラブだ。文字通り「ワンナイト」のつもりだったのに、なぜか貴奈に執着した男は日本へやってきた。貴奈が所属する博物館を含むグループ企業を丸ごと買収、CEOとして乗り込んできたのだ。「お前は俺が開発する」と宣言して、貴奈を学芸員兼秘書として側に置くという。彼氏いない歴=年齢、好きな相手は壁画の住人、「だったはず」の貴奈は、昼も夜も彼の執着に翻弄され、やがて体が応えるように……
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる