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第三章 宮女生活の始まりです

密偵

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爽やかな朝の光を浴びながら、皇帝陛下は平たい桃を齧る。満開の春牡丹を眺めながら一緒に朝餉をとり、陛下は紫琴宮ズーチンゴンへと出掛けていく。最近の朝の日常風景は同じ日をすごしているかのように変わり映えしないのだが、今日は違った。

小鳥もさえずらぬ早朝に陛下は、「銀貴妃イングイフェイ」と呼び起こした。

牡丹坊ムータンファンの中と言えど、まあ誰かが盗み聞いている危険性を鑑みて、陛下は私を本名で呼ばない。だが銀蓮インリェンと呼ぶのには抵抗があるのだろう。基本は2人きりなので名前など意味をなさない。皇帝は私を〝そなた〟と呼び、私は〝陛下〟と呼んでいる。

だから、銀貴妃イングイフェイと呼ぶのは、昨日と同じく折り入っての何かがある時なのだ。

「昨日はいつの間にか寝てしまってな、言いそびれたことがあるのだ」
陛下は、少し言い淀んだ。
銀貴妃イングイフェイの機嫌があまり悪くならなかったら良いのだが…」
言い出しにくいのか私に眼を合わせようとしない。
「今日から宮にビンが増える」
「気を悪くなどいたしません。」
貴人グイレン答応ダーインは毎日増えていくのだから、別にビンが増えたところで気にならない。

「いや、しかし明日からしばらく来られないのだ。そなたは淋しくないのか」
「お淋しゅうございます」
間髪入れず言ってしまった。少し棒読みだったかもしれない。陛下は私の返答の淡白さに、機嫌を損ねたと勘違いしたのか、抱き寄せると私の髪に撫でる。

「陛下、ご心配なさらないでください。本当に気を悪くなどしておりませんよ。後宮は陛下の為の場所なのですから、お好きになさりませ」
私の言葉に陛下は困ったように笑う。
「それが好きにしてばかりもいられぬのだ。現に今日はもう行かねばならぬ」

陛下は均整の取れた身体に、紫紗の長衣を羽織る。紫の空を望む静寂に満ちた廊下を進んだ。窓からは薄い月と仄かな星が照らしている。

見送りをしようと薄衣だけ纏った私は、少しだけ遅れて陛下の後を着いてゆく。陛下は内扉に手をかけたが、突然振り向き、私を引き寄せ抱きしめる。息も出来ないほどの長い口づけをした。上気した私の頬を撫でながら、深みのある優しい声で言葉を紡ぐ。
「しばらく来られない事情は察してもらいたい。宮女雲泪ユンレイの活躍を頼りにしているよ」

最後に悪戯っぽく笑うと、去ってしまった。しばらく会えないのなら、なんで最後にこんな口づけをするのよ。陛下のいなくなった牡丹坊ムータンファンは、あまりに広く感じられた。

ふて寝した私が次目覚めたのは、昼過ぎだった。寝ている間に小青シャオチンが届けてくれたのだろう。卓上の蟠桃が新しく追加されている。陛下がしばらく来ないなら、こんなに桃があっても腐ってしまうだけだわ。私は新しい方の桃を選って、洗濯籠に入れた。

「見たよ、あんた!」
茉莉ムオリーは洗濯場に現れた私を見るなり、満面の笑みを浮かべる。多分私の配属はもう発表されているのだろう。
「そうなの、茉莉ムオリーにはお世話になったから挨拶に来たわ」
ビンが一気に3人も増えたから配属先で宮女皆が今日はてんやわんやだけど、あんたが1番の出世頭だね」
「わかんないわよ、すぐ首になるかも」
私の言葉に豪快に茉莉ムオリーが笑う。
銀貴妃イングイフェイはどんな方なんだい?」
「そうねえ、お部屋から出てらっしゃないから、まだ良く分からないわ。でも親切な方よ!」
そう言って私は洗濯籠の中を見せる。
「ひゃっほい。こりゃ確かに親切な方だ」

私たちは、休憩することにした。
「さすが後宮の牡丹坊ムータンファンだねえ、西王母の果樹園で成る伝説の桃みたいだよ」
皇帝陛下のお気に入りの朝食である。間違いなく、この国で1番だろうなと思いながら、私も桃を頬張る。美味しいものはひとりで食べても美味しいが、誰かと一緒に食べる方がもっと美味しい。実家ではひとりぼっちに慣れていたのに、今夜から陛下が来ないかと思うと牡丹坊ムータンファンに帰るのがひどく億劫だった。

「それで、揚東ヤンドン藍飛ランフェイ南鞍ナンアン梅鳳メイフォン、それから西楼莎シーロウサー李娜紗リナーシャって令嬢がビンで入ってきたんだよ。今回は、邸付きの入宮だろ?お付きの侍女は勿論みんな実家から連れてきてるが、宮女が足りないってんで取り合いしてるんだよ」
「邸はそんなに人手いるもんなの?」
「そりゃあ、そうだろ。銀貴妃イングイフェイのとこは宮女は何人いるんだい?」
「えっと尚宮の許青シューチンさんと…私と、あと3人くらいかな?」
サバを読んで答えたのに、茉莉ムオリーはこの世の終わりみたいな顔をしている。
「あ、私が挨拶した数だよ?まだ会ってない宮女を含めたらあと10人くらいはいるみたいだわ」
「そりゃあ掃除だけでも10人いなくちゃ回らないだろうよ」

小青シャオチンに負担かけすぎかなあと急に不安になる。早く帰って邸の仕事を手伝ってあげよう。皇帝陛下も来ないことだし、ゆっくり掃除ができそうだ。

私は桃を食べ終わって洗濯籠を背負った。帰ろうとする私に、茉莉ムオリーは耳元で囁く。

「しかし、今回はさすがの皇帝陛下も銀貴妃イングイフェイ以外にもお通りになるだろうから、あんたも八つ当たりで首にならないように気をつけるんだよ」

胸がチクンと傷んだ。そして、曖昧な笑顔を浮かべ茉莉ムオリーに手を振ったのだった。
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