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第4局 カラスと棋士が対局したら

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その日の朝草将棋クラブは、いつもより来客が多かった。

棋士の橋田勝吾五段が来る。
それが理由の1つ。
橋田五段がカラスのクロと対戦する。
こっちへの期待も、もう1つの理由。

朝草将棋クラブの席主は「興味本位で広めちゃだめだよ」と言ったものの、人の口には戸が立てられない。早くもインターネットの将棋を話題とした掲示板や、動物を取り上げた掲示板には「将棋を指すカラスがいる」との話題がチラホラ書き込まれていた。

「まあ、いずれは知られるんだけどなあ」
席主は悩まし気な顔をした。

「おはよう!」
朝草将棋クラブに佐倉が顔を見せる。すぐ後ろに眼鏡をかけた短髪の男性が入ってくる。
「バシバシさんだ!」
「橋田五段だ!」
あちこちから声がかかった。握手を求めるクラブの常連客もおり、いずれも橋田は笑顔で応じた。
「迷惑になっちゃいけないよ!」
席主から厳しい声がかかると人波が分かれる。橋田は席主が勧めた椅子に座った。

そんな席主に佐倉が尋ねる。
「馬場さんは?」
「そろそろだと思うけど…」
席主が入り口を見たところで、タイミング良く鳥かごを持った馬場と鈴香が入ってきた。
「あ、バシバシさんだ!」
鈴香はそのまま橋田に駆け寄っていく。
「今日はよろしくお願いします!」
鈴香が元気よく頭を下げると、立ち上がった橋田は「こちらこそよろしく」と会釈する。
鈴香のすぐ後に入ってきた馬場も「無理を言ってすみません」と橋田に深く頭を下げた。
「いえいえ、将棋の強い相手なら大歓迎です」

クラブの真ん中にあるテーブルに橋田と鈴香が腰かける。馬場が鳥かごの扉を開けると、鈴香の膝にクロが跳び乗った。普段は駒音とぼやき声で賑やかなクラブながら、今日は誰も将棋を指さずに2人、もとい1人と1羽が指す将棋の行方を見つめている。クラブの壁際にある将棋の大盤には、席主が用意した“橋田勝吾五段”と“角野クロ”の名札が貼ってあった。

橋田と鈴香が駒を並べ終える。
「クロが先手で良いですか?」
鈴香の問いに橋田は「うん、どうぞ」と応じた。
「クロ、先手だよ」
「クワァ」
クロは「わかった」とのように一声鳴く。
鈴香と橋田が「よろしくお願いします」と言って一礼すると、クロも「クワクワ」と鳴いて頭を下げた。
ちょっと頭をかしげたクロがクチバシで飛車先の歩を突く。
橋田も「うんうん」とうなずいて、同じように飛車先の歩を1つ前に出した。

席主が大盤の右側、つまり先手側に“角野クロ”、左側に“橋田勝吾五段”の名札を貼った。そして盤上の指し手を、そのまま大盤に再現する。
「相かがり…かな」
「クロはオールマイティだってさ」
「俺は振り飛車以外は分からんからなあ」
盤の横で立ち見をする客も多かったが、ゆったりと椅子に座って大盤に見入る常連も少なくない。

パチッ

コツン

パチリ

トンッ

橋田は慎重に手を進めつつ、時折チラリとクロを見る。
クロは先日と変わらない様子で駒を突いたりくわえたりしている。
「うーん」
盤の向こう側に座る相手がカラスである以外は普通の対局と変わりない。
しかし盤面の情勢は、棋士が相手となった対局並みに厳しかった。

大盤前では佐倉や席主が難しい顔をして、あれこれ駒を動かしていた。
「今のところ互角…か」
「ソフトでも?」
「うん」
いつもは手合いを記録するノートパソコンを使って、指し手を将棋ソフトで分析している。
もちろん対局者に聞こえないよう声を抑えており、対局者以上に緊迫した雰囲気が漂っていた。

歩のぶつかり合いから戦いが始まり、桂馬や銀が交換されたことで、一段と局面が激しくなる。
「厳しいなあ」
「同歩?」
「いや、手抜いて飛車成ひしゃなりかも」
「それだと先手が良さそうだ」
「えーっ、まだ互角でしょ」
橋田とクロが指す盤の傍、佐倉ら常連の強豪がやり取りする大盤の前、さらには席主が操作するパソコンの前を行ったり来たりしている常連客もいる。

コチン

パチッ

ツイッ

パチッ

クロの様子は変わらなかったものの、橋田の顔つきが険しくなってきた。
カラスであるクロの実力がかなりのものと佐倉から送られた棋譜で知っていたが、予想以上の厳しい指し手に形勢が不利であることを自覚していた。

『まさか、本当に、カラスに…』

アマチュア強豪だった自分がプロ棋士に勝ってきたことを思い出せば、プロ棋士となった自分がアマ強豪に負けても不思議ではない。それでもカラスに負ける日が来るとは信じられなかった。
盤の横や大盤を見ている常連も、橋田が不利と分かると様子が変わってくる。
「まさか、バシバシさんが…」
そんなつぶやきも聞こえてきた。

コトッ

クロが持ち駒の金を橋田の玉の横に置いた。
「うん、負けました」
橋田が頭を下げると、周囲から「おおっ!」と声が上がった。
「ありがとうございました」
鈴香が頭を下げると、クロも「クワッ」と鳴いて頭をチョコンと下げた。
「どこが悪かったかなあ」
橋田の言葉に佐倉が答える。
「ソフトだと、76手目の角打ちだって」
「そうかあ」
橋田がチョコチョコと角に触れつつ、ジッと目をつむって考える。
「うん、よし」
橋田は駒を並べ直す。
「もう一回良いかな。今度はこっちが先手で」
「はい」
鈴香も駒を並べ直した。
「よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
「クワッ」
2人と1羽が頭を下げる。

パシッ

今度は先手となった橋田が角道を開ける。

コトッ

クロは飛車先の歩を突く。

パチッ

橋田も飛車先の歩を突いた。

「今度はどうなるかなあ」
「クロが連勝するとか?」
「いやいや、さすがに橋田さんも気合を入れ直すでしょ」

周囲がヒソヒソと話をする中でも。1人と1羽の指し手が進む。
角を交換した後、どちらも銀を繰り出していく形となった。

「いやあ、居飛車はさっぱり分からん」
「まるで振り飛車は分かるような言い方だな」
「振り飛車はちょっと分からん」

漫才のようなやり取りをする常連客2人に、席主が「シィーッ」と言って口に人差し指を当てる。
睨まれた2人は首をすくめて盤上を見た。

パチリ

コツン

パチリ

トンッ

橋田とクロの指し手が進む。
先ほど以上に前のめりの姿勢で手を進めていた橋田だが、次第に顔色が悪くなる。やがて一手指すごとに考え込む時間が長くなってきた。時には手を進めようとして駒に触れるものの、「いや」と手を引っ込めることすらもあった。

パチッ

コトッ

クロが竜を寄せたところで、橋田が「負けました」と一礼した。
鈴香は「ありがとうございました」と、クロも「クワクワ」と応じた。

「うーん、完敗だ。ここまでの実力とは…」

その後は大盤を使って2局の内容を振り返った。
橋田五段と佐倉の掛け合いで解説を進めて、そこに席主がソフトの形勢判断を挟む。皆が大盤の前に集まって、橋田と佐倉の解説に聞き入る。
「この局面では、もう厳しいようですね」
佐倉が駒を動かす。
「一手前の銀がはっきり悪手でしたか?」
橋田が尋ねると、パソコンを見た席主が「そうみたいですね」と答えた。

2局の振り返りが終わると、橋田五段の指導対局が始まる。
鈴香も飛車落ちのハンデで橋田と対局し、ヒントを貰いつつ辛勝した。

夕方、いつも通りの将棋クラブに戻った後、橋田は思い切って打ち明ける。
「クロに私の動画に出て欲しいんだけど…」
橋田は佐倉と席主に相談した。
「それはなあ」
佐倉は眉をひそめ、席主も「さて…どうかなあ」と即答を避けた。
「おーい、馬場さん」
席主がクロと常連との対局を見守っていた馬場を呼ぶ。

橋田の誘いを語った。
「どう?」
「いやあ…」
馬場は良い顔をしなかった。どんな形であっても大騒動になるのは避けたいから。
「いずれ世間に知られるなら、橋田さん、場合によっては協会にも間に入ってもらった方が良いんじゃないかな」
「うーむ、それも、そうか…」
佐倉の言葉に馬場も納得する。

協会とは公益社団法人日本将棋協会こうえきしゃだんほうじんにほんしょうぎきょうかいのこと。江戸時代にあった家元制度が明治に入って自然消滅した後、棋士らによって様々な将棋団体ができては消え、集合しては分裂していった。それら団体が昭和初期に1つの団体に統合された後、日本将棋協会と名前を変えて現在に至っている。前出の奨励会や研修会も協会が運営する組織の1つ。

「クロがプロ棋士に…ってのはないだろうね?」
席主が真面目な顔で尋ねる。
「持ち時間の概念が分かれば、あるいは…かなあ」
橋田が答える。
「持ち時間かあ。時計くらいは理解してそうだけど、秒読みは無理そうだな」
佐倉がクロを振り返ると、つられて橋田と馬場と席主もクロの方を見る。
視線を感じたのか、クロが4人のいる方を見て「カア」と鳴いた。

「他の棋士や協会にも話をしてみます。クロがどこまで強いか、私も見てみたいですし」
橋田の言葉に佐倉も馬場も席主も大きくうなずいた。
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