36 / 55
社会人編
1、幸せになりたかった。
しおりを挟む
言葉が出てこない。
アコースティックギターを抱えたまま、目黒竜は背中から畳に転がった。振動で弦が揺れて鳴る。ようやく昨晩曲が完成したのに、今度は歌詞が浮かばない。
「(また締切延ばしてもらえるかな…)」
目を閉じると、微かに打ち上げ花火の音が聞こえた。扇風機を止め、窓を開けてみる。と同時に、救急車のサイレンが、目の前の道路をけたたましく通り過ぎた。熱中症で高齢者が倒れたか、川で子どもが溺れたか。夏はよく人が死ぬ。サイレンが聞こえなくなると、再び花火の音が空に響いた。
玄関の扉が開く。
「生きてるかー?」
レジ袋の擦れる音と、冷蔵庫を開け閉めする音が交互に聞こえ、それが静かになると、部屋に空蝉叶夜が入って来た。彼は畳に転がっている竜を見ると、大きなため息をついた。
「…人の顔見て、ため息つくなよ」
「だって、おまえ悟りを開いた表情してる」
「菩薩顔?遂におれも、その域に到達したか」
「おい、めめ。現実逃避してる場合じゃないぞ」
叶夜の指がギターの弦を弾く。
「まあ、まずは夕飯でも食おうぜ。どうせ食ってないんだろ」
「…そうだね…」
いつから食べていないのか、思い出そうとしてやめた。叶夜を怒らせるだけだ。体を起こし、ギターをスタンドに置く。
「じゃーん。スーパーで冷しゃぶサラダが半額になってた」
「…お、美味そう」
「それから、冷やし中華」
「…季節だねぇ」
「あとはおにぎり。鮭とたらこ。これも安くなってた」
「…いいねぇ」
テキトーに相槌を打ちながら、台所で取り分け皿と箸を探す。叶夜はまだなにかを言っている。この賑やかさに、何度救われたことだろう。思わず笑みがこぼれる。
殺風景だった小さなテーブルは、あっという間に食べ物いっぱいになった。
「めめは鮭とたらこ、どっちがいい?」
「…キョーヤは?」
「うーん、実はオレ、たらこ苦手なんだよね」
「…なんで買ってきたんだよ」
「めめの大好物かもと思ってさ」
「博打じゃん」
ふっと肩の力が抜けた。たらこを受け取り、叶夜に箸と皿を渡す。その後ろで花火の上がる音。窓を開けっ放しにしていたことを思い出し、竜はおろしかけた腰を上げた。この部屋は川に近いため、よく虫が出た。先日窓から入ってきた、手のひらサイズの蛾が脳裏をよぎり、思わず顔をしかめる。
「扇風機つけていい?」
「うん」
テーブルにつくと、冷しゃぶサラダと冷やし中華がきれいに取り分けられていた。
「…おれ、おまえと出会えてよかったよ」
「は?なんだよ、急に。死亡フラグか?」
半分冗談、半分本気。こいつがいなかったら、おれは生きてなかったかもしれない。
「明日スタジオに行くの、忘れてないだろうな」
「…あー、…その予定明日だったっけ?」
「めめが『その辺で楽曲を完成させるから大丈夫』って言ったんだが」
大丈夫なわけないだろ、馬鹿が。過去の自分に悪態をつく。カレンダーに目をやると、明日の日付にはしっかりと大きな丸がつけられていた。どうして忘れていたんだろうか。こんな大事な日を。
叶夜が「リスケする?」と言った。反射的に首を振る。
「今晩でなんとか完成させる」
「正気?」
「曲は出来てる。あとは歌詞が書ければ」
「歌詞はあと何割?」
「10割」
おにぎりを口に突っ込み、立ち上がる。歌詞を書き留めているノートに手を伸ばすと、叶夜に腕を掴まれた。
「やめとけって、めめ」
「なにを」
「今から歌詞を全部書き上げるのは無理だろ」
「出来るかもしれないだろ」
「もし歌詞が書けたとしても、徹夜明けでおまえボロボロだぞ。そんな状態で外出したら死ぬぞ」
「大袈裟だな。ダンスレッスンを見に行くだけなんだから、大丈夫だって。最近は調子いいし、そのくらいで倒れたりしない」
「"見に行くだけ"なんだから、明日じゃなくてもいいんだよ。先方も『いつでも見に来てください』って言ってたし。無理することない。予定を変更しよう」
「いや、明日じゃないとダメなんだ」
「は?」
叶夜が眉を顰めた。ノートを広げる。
「…明日は、合同レッスンなんだ。だから、おれが楽曲提供したグループ以外の関係者もスタジオに来る。つまり?」
「"目黒竜"を売るチャンスだと?」
「その通り」
「まじかよ。おまえいつからそんな仕事熱心になった?」
「失礼すぎるだろ」
「オレはてっきり、会いたい人でもいるのかと思ったわ」
それ、正解なんだけど。
口にはせず、鼻で笑う。さすが10年近い付き合いの男だ。おれのことをよくわかっている。
それは、会いたいけど、会いたくなくて、もう会わないと思っているのに、いつだって一番会いたい人。
「でも、現実問題、今晩で完成させるのは無理だな」
「…無理無理言うな」
「こんなところで理想を語ってもしょうがないだろ」
「じゃあどうしろって言うんだよ」
叶夜は片頬を上げて笑った。
「こんな時は奥の手を使うしかない」
「…奥の手?」
「そう。まあ、めめは頻繁に使ってるかもしれないけど」
そう言って叶夜が差し出したのは、竜のスマホだった。
*********
翌日13時。
竜が叶夜とスタジオへ行くと、合同のダンスレッスンは既に始まっていた。
「思ったより人いるな」
「4組合同だから。2人グループと3人グループ、あと4人組が2つだったかな」
「おまえ詳しいな」
「そのくらいの事前準備、当たり前だろ」
担当者に簡単な挨拶をすると、2人は隅に並べられたパイプ椅子に腰かけた。その場所は、レッスンをちょうど真後ろから見られるポジションだった。
「めめが楽曲提供したのは、どのグループ?」
「うーん、後ろ姿じゃわかんないな。T-ROSSOっていう、男2人女2人の4人組グループなんだけど」
「男女混合か。最近増えてきたな」
「叶夜がプロデュースしてるグループは、男だけの5人組だっけ?」
「うーん、やっぱり混合の方が、今の時代は売れるんかなぁ」
腕組みをしながら「うんうん」悩み始めた叶夜を横目に、竜は鏡越しに1人1人の顔を凝視した。1人くらい目が合うかと思ったが、壁一面の鏡を前にした男女たちは、恐ろしいほどの集中力でレッスンに臨んでおり、誰とも全く目が合わなかった。
「(その集中力をおれにも分けて欲しい)」
楽曲提出の締め切りを延ばしてもらって、今日ここへ来ているなんて、口が裂けてもこの人たちには言えない。
「あ」
思わず声が出た。叶夜が「どうした」と零す。
「てぃーなんとか、見つけたか?」
「···ああ」
そう、見つけた。でも、見つけたのはT-ROSSOのメンバーではない。
会いたいけど、会いたくなくて。
もう会わないと思っていたのに、いつだって一番会いたかった人。
竜の目線の先には、あの日病院に置き去りにした、独神流がいた。
To be continued···
アコースティックギターを抱えたまま、目黒竜は背中から畳に転がった。振動で弦が揺れて鳴る。ようやく昨晩曲が完成したのに、今度は歌詞が浮かばない。
「(また締切延ばしてもらえるかな…)」
目を閉じると、微かに打ち上げ花火の音が聞こえた。扇風機を止め、窓を開けてみる。と同時に、救急車のサイレンが、目の前の道路をけたたましく通り過ぎた。熱中症で高齢者が倒れたか、川で子どもが溺れたか。夏はよく人が死ぬ。サイレンが聞こえなくなると、再び花火の音が空に響いた。
玄関の扉が開く。
「生きてるかー?」
レジ袋の擦れる音と、冷蔵庫を開け閉めする音が交互に聞こえ、それが静かになると、部屋に空蝉叶夜が入って来た。彼は畳に転がっている竜を見ると、大きなため息をついた。
「…人の顔見て、ため息つくなよ」
「だって、おまえ悟りを開いた表情してる」
「菩薩顔?遂におれも、その域に到達したか」
「おい、めめ。現実逃避してる場合じゃないぞ」
叶夜の指がギターの弦を弾く。
「まあ、まずは夕飯でも食おうぜ。どうせ食ってないんだろ」
「…そうだね…」
いつから食べていないのか、思い出そうとしてやめた。叶夜を怒らせるだけだ。体を起こし、ギターをスタンドに置く。
「じゃーん。スーパーで冷しゃぶサラダが半額になってた」
「…お、美味そう」
「それから、冷やし中華」
「…季節だねぇ」
「あとはおにぎり。鮭とたらこ。これも安くなってた」
「…いいねぇ」
テキトーに相槌を打ちながら、台所で取り分け皿と箸を探す。叶夜はまだなにかを言っている。この賑やかさに、何度救われたことだろう。思わず笑みがこぼれる。
殺風景だった小さなテーブルは、あっという間に食べ物いっぱいになった。
「めめは鮭とたらこ、どっちがいい?」
「…キョーヤは?」
「うーん、実はオレ、たらこ苦手なんだよね」
「…なんで買ってきたんだよ」
「めめの大好物かもと思ってさ」
「博打じゃん」
ふっと肩の力が抜けた。たらこを受け取り、叶夜に箸と皿を渡す。その後ろで花火の上がる音。窓を開けっ放しにしていたことを思い出し、竜はおろしかけた腰を上げた。この部屋は川に近いため、よく虫が出た。先日窓から入ってきた、手のひらサイズの蛾が脳裏をよぎり、思わず顔をしかめる。
「扇風機つけていい?」
「うん」
テーブルにつくと、冷しゃぶサラダと冷やし中華がきれいに取り分けられていた。
「…おれ、おまえと出会えてよかったよ」
「は?なんだよ、急に。死亡フラグか?」
半分冗談、半分本気。こいつがいなかったら、おれは生きてなかったかもしれない。
「明日スタジオに行くの、忘れてないだろうな」
「…あー、…その予定明日だったっけ?」
「めめが『その辺で楽曲を完成させるから大丈夫』って言ったんだが」
大丈夫なわけないだろ、馬鹿が。過去の自分に悪態をつく。カレンダーに目をやると、明日の日付にはしっかりと大きな丸がつけられていた。どうして忘れていたんだろうか。こんな大事な日を。
叶夜が「リスケする?」と言った。反射的に首を振る。
「今晩でなんとか完成させる」
「正気?」
「曲は出来てる。あとは歌詞が書ければ」
「歌詞はあと何割?」
「10割」
おにぎりを口に突っ込み、立ち上がる。歌詞を書き留めているノートに手を伸ばすと、叶夜に腕を掴まれた。
「やめとけって、めめ」
「なにを」
「今から歌詞を全部書き上げるのは無理だろ」
「出来るかもしれないだろ」
「もし歌詞が書けたとしても、徹夜明けでおまえボロボロだぞ。そんな状態で外出したら死ぬぞ」
「大袈裟だな。ダンスレッスンを見に行くだけなんだから、大丈夫だって。最近は調子いいし、そのくらいで倒れたりしない」
「"見に行くだけ"なんだから、明日じゃなくてもいいんだよ。先方も『いつでも見に来てください』って言ってたし。無理することない。予定を変更しよう」
「いや、明日じゃないとダメなんだ」
「は?」
叶夜が眉を顰めた。ノートを広げる。
「…明日は、合同レッスンなんだ。だから、おれが楽曲提供したグループ以外の関係者もスタジオに来る。つまり?」
「"目黒竜"を売るチャンスだと?」
「その通り」
「まじかよ。おまえいつからそんな仕事熱心になった?」
「失礼すぎるだろ」
「オレはてっきり、会いたい人でもいるのかと思ったわ」
それ、正解なんだけど。
口にはせず、鼻で笑う。さすが10年近い付き合いの男だ。おれのことをよくわかっている。
それは、会いたいけど、会いたくなくて、もう会わないと思っているのに、いつだって一番会いたい人。
「でも、現実問題、今晩で完成させるのは無理だな」
「…無理無理言うな」
「こんなところで理想を語ってもしょうがないだろ」
「じゃあどうしろって言うんだよ」
叶夜は片頬を上げて笑った。
「こんな時は奥の手を使うしかない」
「…奥の手?」
「そう。まあ、めめは頻繁に使ってるかもしれないけど」
そう言って叶夜が差し出したのは、竜のスマホだった。
*********
翌日13時。
竜が叶夜とスタジオへ行くと、合同のダンスレッスンは既に始まっていた。
「思ったより人いるな」
「4組合同だから。2人グループと3人グループ、あと4人組が2つだったかな」
「おまえ詳しいな」
「そのくらいの事前準備、当たり前だろ」
担当者に簡単な挨拶をすると、2人は隅に並べられたパイプ椅子に腰かけた。その場所は、レッスンをちょうど真後ろから見られるポジションだった。
「めめが楽曲提供したのは、どのグループ?」
「うーん、後ろ姿じゃわかんないな。T-ROSSOっていう、男2人女2人の4人組グループなんだけど」
「男女混合か。最近増えてきたな」
「叶夜がプロデュースしてるグループは、男だけの5人組だっけ?」
「うーん、やっぱり混合の方が、今の時代は売れるんかなぁ」
腕組みをしながら「うんうん」悩み始めた叶夜を横目に、竜は鏡越しに1人1人の顔を凝視した。1人くらい目が合うかと思ったが、壁一面の鏡を前にした男女たちは、恐ろしいほどの集中力でレッスンに臨んでおり、誰とも全く目が合わなかった。
「(その集中力をおれにも分けて欲しい)」
楽曲提出の締め切りを延ばしてもらって、今日ここへ来ているなんて、口が裂けてもこの人たちには言えない。
「あ」
思わず声が出た。叶夜が「どうした」と零す。
「てぃーなんとか、見つけたか?」
「···ああ」
そう、見つけた。でも、見つけたのはT-ROSSOのメンバーではない。
会いたいけど、会いたくなくて。
もう会わないと思っていたのに、いつだって一番会いたかった人。
竜の目線の先には、あの日病院に置き去りにした、独神流がいた。
To be continued···
0
お気に入りに追加
52
あなたにおすすめの小説
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
執着攻めと平凡受けの短編集
松本いさ
BL
執着攻めが平凡受けに執着し溺愛する、似たり寄ったりな話ばかり。
疲れたときに、さくっと読める安心安全のハッピーエンド設計です。
基本的に一話完結で、しばらくは毎週金曜の夜または土曜の朝に更新を予定しています(全20作)
モテる兄貴を持つと……(三人称改訂版)
夏目碧央
BL
兄、海斗(かいと)と同じ高校に入学した城崎岳斗(きのさきやまと)は、兄がモテるがゆえに様々な苦難に遭う。だが、カッコよくて優しい兄を実は自慢に思っている。兄は弟が大好きで、少々過保護気味。
ある日、岳斗は両親の血液型と自分の血液型がおかしい事に気づく。海斗は「覚えてないのか?」と驚いた様子。岳斗は何を忘れているのか?一体どんな秘密が?
日本一のイケメン俳優に惚れられてしまったんですが
五右衛門
BL
月井晴彦は過去のトラウマから自信を失い、人と距離を置きながら高校生活を送っていた。ある日、帰り道で少女が複数の男子からナンパされている場面に遭遇する。普段は関わりを避ける晴彦だが、僅かばかりの勇気を出して、手が震えながらも必死に少女を助けた。
しかし、その少女は実は美男子俳優の白銀玲央だった。彼は日本一有名な高校生俳優で、高い演技力と美しすぎる美貌も相まって多くの賞を受賞している天才である。玲央は何かお礼がしたいと言うも、晴彦は動揺してしまい逃げるように立ち去る。しかし数日後、体育館に集まった全校生徒の前で現れたのは、あの時の青年だった──
【BL】国民的アイドルグループ内でBLなんて勘弁してください。
白猫
BL
国民的アイドルグループ【kasis】のメンバーである、片桐悠真(18)は悩んでいた。
最近どうも自分がおかしい。まさに悪い夢のようだ。ノーマルだったはずのこの自分が。
(同じグループにいる王子様系アイドルに恋をしてしまったかもしれないなんて……!)
(勘違いだよな? そうに決まってる!)
気のせいであることを確認しようとすればするほどドツボにハマっていき……。
とある金持ち学園に通う脇役の日常~フラグより飯をくれ~
無月陸兎
BL
山奥にある全寮制男子校、桜白峰学園。食べ物目当てで入学した主人公は、学園の権力者『REGAL4』の一人、一条貴春の不興を買い、学園中からハブられることに。美味しい食事さえ楽しめれば問題ないと気にせず過ごしてたが、転入生の扇谷時雨がやってきたことで、彼の日常は波乱に満ちたものとなる──。
自分の親友となった時雨が学園の人気者たちに迫られるのを横目で見つつ、主人公は巻き込まれて恋人のフリをしたり、ゆるく立ちそうな恋愛フラグを避けようと奮闘する物語です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる