[BL]デキソコナイ

明日葉 ゆゐ

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学生編

30、MOTHER。

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 空素沼に住み始めてから、1ヶ月が経った。

 季節は移り変わり、紅葉していた木々は色鮮やかだった葉を落とし、日はすっかり短くなった。

 早朝のランニングが習慣になった流は、川沿いの道を走りながら、徐々に朝の空気が冷たくなってくるのを感じていた。

「(ここは、雪が積もるのかな)」

 今見ている景色が雪に覆われるのを想像する。真っ白で冷たい雪は、寂しさを感じさせるから好きではない。それでも、溺れるような感覚に陥る雨よりはずっとましだ。少なくとも、雪の降る音は流を狂わせはしない。

「今日は、久し振りにバスで遠出しない?」

 家を出ようとした流に、エプロン姿の竜が言った。

「今まで話せなかったこと、話したいから」

 ランニングシューズの靴紐を結びながら、流は「わかった」と返した。

 この1ヶ月、2人の関係はぎくしゃくとしていた。竜はいつも誤魔化すような愛想笑いを浮かべていて、流はそれに気付かない振りをしていた。しかし、誤魔化しも気付かない振りも、今日で終わりだ。

 自分は、竜が話すことを真正面から受け止めなければいけない。そして、竜が話すのなら、自分も話せなかったことを話さなければいけない。竜はそのことを強要しないと思うが、この機会を逃したら、もう一生話せない気がしていた。

「(思い出したくないことも、話してみたら意外とありふれたことだったりすんのかな)」

 上手く話せる自信はない。全部話せる自信もない。でも、ずっと竜に聞いて欲しいと思っていた。自分がハデスになった日のことを。

ーあなたなんか

 あの日の言葉が蘇りかけ、流の背筋に寒気が走った。今じゃない、と自分に言い聞かせる。思い出すのは、竜に話す時でいい。

 ランニングの折り返し地点にしている橋に辿り着き、流はいつもと同じように、緩やかに方向転換をした。

「…え?」

 視界の隅にエトワールが立っていた。思わず振り返る。そこにいたのは、もちろんエトワールではなく、しかし流のよく知る人物だった。足が止まる。

「…なんでここに」

 空霞ミルは流の視線に気付くと、満面の笑みを浮かべ、こう言った。





  家に帰ってきた息子を迎える母親のような声。初めて聞く優しい声。

 初めて?いや、初めてじゃない。この声は何度も俺を優しく包み込んでくれたじゃないか。

 優しく?

 いや、そんなことあるわけがない。だってそれじゃあ、まるであいつが、


「………………?」


 ぱちんと音を立てて、夢が終わった。


*********


 玄関の扉が開く音が聞こえた。流がランニングから帰ってきたのだろう。竜は焼きたての目玉焼きとベーコンをフライパンから皿に移し、味噌汁と白飯と共に食卓に並べた。

ーこれまで話せなかったこと、話したいから

 今朝、流に言った言葉を思い出す。

「(大丈夫…。今ならきっと話せる…)」

 緊張していた。しかし、これ以上先延ばしにしても仕方がない。一緒に生きていくのなら、いずれは話さなければいけないことなのだ。拳を握りしめる。

 流が居間に入って来た。

「おかえ」

 言葉が途切れる。

「…それ、どうしたの?」

 流は、一輪の彼岸花を握りしめて立っていた。

「…ねえ、竜。どうして教えてくれなかったの?」
「なにを…?」
「この空素沼が、…おまえと…あげはの過ごした場所だって」
「……っ!」

 背筋に悪寒が走った。

「……なんで、それを流が…」

  雷が鳴る。居間の照明が点滅する。 

「あげはだからだよ」
「………………え」

  流の目から、大粒の涙が落ちた。





 *********



 さあ、眠り姫。夢はこれでおしまいだ。



*********


 竜があげはに出会ったのは、8才の時だった。

 季節はいつだっただろうか。寒かったような、暑かったような、どちらでもなかったような、はっきりとは覚えていない。

 夕食を食べ終えた竜が、2階の自分の部屋へ戻ると、

「…っひぃ!?」

 窓の下に見知らぬ少年が転がっていた。急いで下の階にいる母親を呼ぼうとしたが、母親が具合悪そうにしていたことを思い出し、竜はひとまず自分でどうにかすることにした。

 音を立てないように、そーっと部屋の扉を閉め、念の為鍵をかける。そして、少年に近づき、窓を開けっ放しにしていたことに気付いた。

「(この窓から入って来たのかな? 開けっ放しにしてたことがバレたら、お母さんに叱られちゃう)」

 少年に触れぬよう、手を伸ばして窓を閉める。

「(どこの子だろう。こんな時間に1人で出歩くなんて)」

 座り込み、顔を覗き込むと、少年は寝息を立てて気持ち良さそうに眠っていた。

「(こんな所で寝てたら、風邪引いちゃうよね)」

 そう思った竜は、少年を背中側から抱え上げ、自分のベッドへ引っ張って行った。


*********

 もしあの時、誰かを呼んでいたら、おれの人生は、どうなっていたのだろう。

*********


 竜に抱えられても、少年は全く目を覚まさなかった。

「(このまま起きなかったらどうしよう…。まさか、死んでたりっ…!)」

 寝息を立てているのだから、そんなわけないのだけれど、子どもなりに焦り、竜は少年の手を握ってみた。

「(あ、温かい…)」

 その体温に触れた瞬間、竜はまるで母親に抱きしめられた時のような、安心感を覚えた。

 無理やり起こしたところで、こんな遅い時間に1人で帰らせるわけにもいかない。竜のベッドは少し大きいものを買ってもらっているため、少年が寝ていても、スペースは十分あった。

 しばらく読書をした後、1階で就寝前のホットミルクを飲むと、竜は少年の隣で眠りについた。

 なんだかいつもより気持ち良く眠れた。

「お坊ちゃま!お坊ちゃま!」

 扉をノックする音で竜は目が覚めた。部屋に鍵がかかっていることに驚いたお手伝いさんが、慌てているようだ。

 時刻は朝の7時。寝ぼけ眼を擦りながら、竜はベッドから降りようとしたが、不意に後ろに引っ張られ、驚いて振り返った。すると、まだ眠ったままの少年が、竜のパジャマの裾をギュッと握りしめていた。

「(そういえば、この子がいたんだった…!お手伝いさんに見つかったら叱られるかな…)」

 少年の手をそっと外し、姿が見えないように布団で覆う。

「おはよう、沼田さん」

 挨拶しながら、鍵を開ける。

「ああ、おはようございます、お坊ちゃま。珍しく鍵をかけていらしたから、心配しましたよ」
「ぼくなら大丈夫だよ。…なにかあったの?」

 お手伝いさんの焦り方に違和感を覚え、尋ねる。

「それがですね、近所の問題児が昨晩から行方知れずになっているそうで」
「…問題児?」
「そうです。お坊ちゃまと同じ位の年齢の子なんですが、この近くで姿が見えなくなったから、この家に忍び込んだんじゃないかなんて言われてて」

 すぐに納得する。自分のベッドで眠っている少年のことだろう。

「どうかなさいましたか?」
「ううん、大変だね」
「お坊ちゃまが心配することは、なにもありませんよ。今朝の体調はいかがですか?」

 この頃の竜は、しょっちゅう体調を崩しており、学校にもほとんど通えていなかった。

「ちょっとよくないかも。もう少し休んでもいいかな」
「あらあら、それは大変。なにか温かいものをお作りしましょうか?」

 部屋に入って来ようとした彼女を止める。

「…お坊ちゃま?」
「ううん、大丈夫。お腹が空いたら、下に降りるね」

 お手伝いさんを半ば締め出すように扉を閉め、小さくため息をつく。窓を開けると、玄関の方からは父親が誰かと話し込んでいる声が聞こえてきた。

「(この子を探してるのかな…)」

 途端に、竜のお腹が鳴った。

「(お腹空いたなぁ···。なにか食べられるもの、なかったかな…)」

 ベッドの下から、お菓子を隠している箱を引っ張り出す。しかし、出てきたのは湿気った煎餅やどろどろに溶けたチョコレートだった。

「(…食べられる物がない…)」

 途方に暮れていると、再び竜のお腹が鳴った。空腹で泣きそうになる。

「なにこれ。食っていいの?」

 突然後方から声を掛けられ、竜は声にならない驚きと共に、持っていたものを全部床にぶちまけてしまった。

「あーあー、なにやってんの」

 振り返ると、さっきまでベッドで眠っていた少年が、竜の落としたお菓子を拾い集めていた。

「俺をベッドに運んだの、おまえだろ」
「あ、うん…起きたんだ…」
「うん、たった今。おまえの腹の音で目が覚めた」

 不意に、扉へ近づいてくる足音が聞こえてきた。

「隠れて!」

 少年の手を引き、慌てて布団に潜り込む。

 足音は、なにやら独り言を呟きながら、扉の前を通り過ぎていった。

「(よかった···)」

 竜が息をついた瞬間、喉の奥から激しい咳がこみ上げてきた。口を押さえる。背中を丸め、落ち着くのを待つ。苦しい。

「(…いつもよりちょっと大きい声、···出しちゃったからかな…)」

 部屋の外に聞こえてしまったら、確実にお手伝いさんが飛んでくる。そしたら、この子が見つかってしまう。枕に顔を埋める。なかなか止まらない。不安になる。

「(このまま…死んじゃったりするのかな…)」

「大丈夫だよ」

 背中をさする手。

「びっくりさせてごめんな」

 少年を見上げる。涙がポタポタとシーツに散った。

「大丈夫だよ、大丈夫」

 訳もなく、その声に安心する。温かい手。ずっとこうしてもらっていたかのような。

「…ありがとう。…もう大丈夫」
「あ、そう?」

 少年が笑う。

「…名前」
「え?」

 湿気った煎餅を食べようとしていた少年が、首を傾げる。

「名前、なんていうの?」
「俺?」
「…ぼくは、薙鎌竜」

 少年は、少し恥ずかしそうに、目を細めて言った。

「俺は、空霞あげは」



 To be continued···
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