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Stranger(壱哉Side)
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こうして俺は、秋本一哉という人間になりきった。
現実とはかけ離れた、どこにでもいる、ごくありふれた会社員の男に。
だから、何度凛に振られても迷惑がられても、へこたれることなく、彼女へのアプローチを続けられた。
だって、秋本一哉は本当の俺ではないのだから。
どれだけ否定されても折れることはなかった。
そして、遂に凛の方が根負けし、交際を承諾してくれた。
「毎回コーヒー一杯でこんなに粘られたら営業妨害です。仕方ないので、付き合ってあげます」
初めて見る凛の照れた表情は、えも言えぬほど可愛かった。
思えばあの時が、幸せの絶頂だったのかもしれない。
それ以降は、凛を好きになればなるほど、やがて訪れる別れに対する恐怖心が日に日に強まっていった。
この恋が一秒でも、一瞬でも長く続くように。
せめて、その時まで凛の気持ちが変わらないように。
そう願った俺は、アルバイト先を弟が社長を務めている警備会社に変えるよう、さりげなく凛に勧めた。
自分がナンパのような形で凛に声をかけておきながら、前々から店員に声を掛けやすいあのカフェの雰囲気が気になっていたのだ。
仁希なら、凛に手を出す心配はない。
それに。間接的ではあるが、俺の目も届く。
まさか自分のこの行いが、運命の二人を引き合わすことになるなんて、露ほども知らずに─
もちろん、凛に対して少しの罪悪感もなかったわけではない。
だからこそ、俺は三年もの間凛と週末を共に過ごしておきながら、凛の秘密に気づけなかった。
つまり、「胸が小さいから見せたくない」と言う凛に、無理強いはできなかったのだ。
背中はともかく、正直胸は見たかったし、触れたかったし、それ以上のこともしたかった。
だが、それが一切できなかったのは、罪悪感があればこそ。
最後は酷く傷つけることになるのが分かっていた分、交際中、凛の嫌がることは絶対にしないと誓っていた。
嫌がることをしないだけではなく、凛のためにとそれまで一切やったことのない炊事洗濯のスキルも上げた。
最初は凛に呆れられるレベルだったが、上達すると凛に褒められるのが嬉しくて。
あの古いアパートの小さな世界で凛と過ごす週末の1日半は、本当に愛おしくて大切で、俺の全てだった。
何度全てを打ち明けて、プロポーズしようと思ったことか。
しかし、何気ない会話から、凛が富裕層の人間を好ましく思っていないと知った俺は怖気付いてしまった。
そして、交際開始から三年を迎える頃、ついにその時が訪れてしまった。
土曜日を翌日に控えたある日、疲れた体を引きずるようにして自宅に帰ると、金曜の夜にしては珍しく父の車がガレージに停まっていた。
その時点で、嫌な予感はしていた。
玄関で俺を出迎えた父は、そのままリビングへと誘導した。
父の秘蔵のシャンパンが注がれたグラスを手渡されても、とても口をつける気にはなれない。
そんな俺に気づくことなく、父は端的に切り出した。
「そろそろ身を固めてはどうだ?」
分かっていたつもりだったが、いざ言葉にされると、刑の執行を言い渡された死刑囚になったような気持ちになった。
「誰か決まった女性がいるなら、話は別だけど」
当然、真っ先に頭に過ったのは凛の顔だった。
でも、それは、一瞬で霧となって消えた。
どれだけ所作が綺麗でも、凛とは育った環境が違いすぎる。
この家にはそぐわない。
まして俺の妻なんて、苦労をかけるに決まっている。
無理だ、諦めろ。
最初からそのつもりだっただろう。
そして、こうなったからには、凛の存在を一切気取らせることがあってはならない。
「…いや、そんな女性いないよ」
できる限り冷静なふりをしたが、緊張で喉が震えそうになる。
「そうか。じゃあ、何人か当てがあるから、相手がある程度絞れて来たらまた報告するよ」
父は上手く騙されてくれ、嬉しそうに微笑んだ。
「いや、任せるよ。父さんが決めた人なら間違いないだろうし。ちょっと片付けたい仕事が残ってるから、部屋に行くね。おやすみ」
足早に自室に戻った後、俺は絶望で一睡もできないまま、土曜日の朝を迎えた。
現実とはかけ離れた、どこにでもいる、ごくありふれた会社員の男に。
だから、何度凛に振られても迷惑がられても、へこたれることなく、彼女へのアプローチを続けられた。
だって、秋本一哉は本当の俺ではないのだから。
どれだけ否定されても折れることはなかった。
そして、遂に凛の方が根負けし、交際を承諾してくれた。
「毎回コーヒー一杯でこんなに粘られたら営業妨害です。仕方ないので、付き合ってあげます」
初めて見る凛の照れた表情は、えも言えぬほど可愛かった。
思えばあの時が、幸せの絶頂だったのかもしれない。
それ以降は、凛を好きになればなるほど、やがて訪れる別れに対する恐怖心が日に日に強まっていった。
この恋が一秒でも、一瞬でも長く続くように。
せめて、その時まで凛の気持ちが変わらないように。
そう願った俺は、アルバイト先を弟が社長を務めている警備会社に変えるよう、さりげなく凛に勧めた。
自分がナンパのような形で凛に声をかけておきながら、前々から店員に声を掛けやすいあのカフェの雰囲気が気になっていたのだ。
仁希なら、凛に手を出す心配はない。
それに。間接的ではあるが、俺の目も届く。
まさか自分のこの行いが、運命の二人を引き合わすことになるなんて、露ほども知らずに─
もちろん、凛に対して少しの罪悪感もなかったわけではない。
だからこそ、俺は三年もの間凛と週末を共に過ごしておきながら、凛の秘密に気づけなかった。
つまり、「胸が小さいから見せたくない」と言う凛に、無理強いはできなかったのだ。
背中はともかく、正直胸は見たかったし、触れたかったし、それ以上のこともしたかった。
だが、それが一切できなかったのは、罪悪感があればこそ。
最後は酷く傷つけることになるのが分かっていた分、交際中、凛の嫌がることは絶対にしないと誓っていた。
嫌がることをしないだけではなく、凛のためにとそれまで一切やったことのない炊事洗濯のスキルも上げた。
最初は凛に呆れられるレベルだったが、上達すると凛に褒められるのが嬉しくて。
あの古いアパートの小さな世界で凛と過ごす週末の1日半は、本当に愛おしくて大切で、俺の全てだった。
何度全てを打ち明けて、プロポーズしようと思ったことか。
しかし、何気ない会話から、凛が富裕層の人間を好ましく思っていないと知った俺は怖気付いてしまった。
そして、交際開始から三年を迎える頃、ついにその時が訪れてしまった。
土曜日を翌日に控えたある日、疲れた体を引きずるようにして自宅に帰ると、金曜の夜にしては珍しく父の車がガレージに停まっていた。
その時点で、嫌な予感はしていた。
玄関で俺を出迎えた父は、そのままリビングへと誘導した。
父の秘蔵のシャンパンが注がれたグラスを手渡されても、とても口をつける気にはなれない。
そんな俺に気づくことなく、父は端的に切り出した。
「そろそろ身を固めてはどうだ?」
分かっていたつもりだったが、いざ言葉にされると、刑の執行を言い渡された死刑囚になったような気持ちになった。
「誰か決まった女性がいるなら、話は別だけど」
当然、真っ先に頭に過ったのは凛の顔だった。
でも、それは、一瞬で霧となって消えた。
どれだけ所作が綺麗でも、凛とは育った環境が違いすぎる。
この家にはそぐわない。
まして俺の妻なんて、苦労をかけるに決まっている。
無理だ、諦めろ。
最初からそのつもりだっただろう。
そして、こうなったからには、凛の存在を一切気取らせることがあってはならない。
「…いや、そんな女性いないよ」
できる限り冷静なふりをしたが、緊張で喉が震えそうになる。
「そうか。じゃあ、何人か当てがあるから、相手がある程度絞れて来たらまた報告するよ」
父は上手く騙されてくれ、嬉しそうに微笑んだ。
「いや、任せるよ。父さんが決めた人なら間違いないだろうし。ちょっと片付けたい仕事が残ってるから、部屋に行くね。おやすみ」
足早に自室に戻った後、俺は絶望で一睡もできないまま、土曜日の朝を迎えた。
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