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1.桜は舞い、散る

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 足元がおろそかになっていた日捺子はちいさな段差につまずいた。前のめりに倒れて慌てて手をつく。ざり、とアスファルトで掌が擦れた。

「ほら。手」

 そう言って手を引いてくれた涼也は、いない。もう大人なんだから、当たり前のことだ。転んだら自分の足で立たなければならない。日捺子は立ち上がってぱんぱんと膝と手を払った。擦れたところが痛い。街灯の光に照らされた一番おおきな桜の木のしたで手のひらを見てみる。赤くはなっているけど血は出てないみたい。日捺子はそばにあった白いベンチに腰掛けて、ふぅと一息ついた。

 座ってしまうと、立つのがひどくおっくうに感じた。夜風で体が冷えて、寒さを感じ始める。早く用事を済ませて帰った方がいいのに、足が重かった。

 違うかも。
 重いのは、もっと内側の、心っていう部分なのかも。

 ――目に見えないものなんて存在しないのと一緒だよ。心とか、愛だとか、そういったものなんて。でも……

 ふと、いつだったか涼也が言っていた言葉が浮かんだ。でも、のあとは何だったのか。にゃぁ。いつの間にか日捺子の足元に猫がいた。愛らしい顔をした緑の瞳のキジトラだった。

「どこから来たの?」

 尋ねると、猫は「に」とひと鳴きして離れていってしまった。猫の後ろ姿を追っていくと、そのもっと先にひとり、男の人がいた。

 小柄な男だった。

 その男は踊っていた。桜と一緒に、舞っていた。重力なんてないかのように男の体が軽やかに跳ねた。跳ねて、回る。回って、沈んで、また、跳ねた。男が手をすうと滑らかに夜空に伸ばすと、指の先に細い猫の目のような月があった。

 日捺子は綺麗だな、と思った。ダンスとか、そういうのよく分からないけれど、惹きつけられて、目が離せなかった。淡い金色に輝く髪の、一本、一本までが、意思を持っているかのように揺れていた。なんて、美しいんだろう。桃色の花たちと一緒に舞うその姿に、別世界のなにかを見ているような、そんな気持ちにさせられた。

 ふいに、さっきの猫が、にゃあと鳴いた。
 男が、猫に気付いて動きを止めた。
 猫が日捺子の方に戻ってくる。男の目が猫から日捺子へと移った。

 男の顔が白い光にさらされる。日捺子と同い年くらいの静かで臆病そうな目をした青年だった。

「ごめんなさい」

 日捺子は小さく頭を下げてそこから立ち去った。
 駆け出し、公園から逃げ出した。公園から出ても走った。走って、走って、走って、また転びそうになって、ようやく足を止めることができた。心臓がばくばく激しい音を立てている。走ったから、だけじゃない。転びそうそうになったから、だけじゃない。
 あの目だ。そう、あの目。
 わたしはああいう目を知っている。

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