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しおりを挟む心地好い春の陽光を浴び、見渡す限り花壇しかない場所に設置された長椅子にクッションを枕にして眠る長身の男がいた。癖のある薄い金色の髪が優しく吹いた風によって揺れる。滑らかな白い肌に掛かった髪が擽ったくて指で退かせた。
そんな男の許に向かって機嫌悪く歩いているのは貴族の少女。毛先にかけて青くなるピンクの髪を手で後ろに流し、気持ちよさそうに眠る男を深緑の瞳が見下ろす。愛らしい顔立ちに似合わず不機嫌である。
「どうしたんだよリリン」
眠っていると思えば男は起きていたみたいで氷の如く冷たい青の瞳が片方開かれる。
「どうしたもこうしたもないわよ。何なのアイツは!」
「高位貴族のお嬢さんなのに口が悪いぞ~」
「良いのよ。此処には私達しかいないから。大体、アンタだって天使様のくせにだらしないじゃない」
「言うな」
少女――リリンは天使様と呼ばれるのを男が嫌っていることを知って態と使った。はいはい、と言いたげに上体を起こした男の膝の上に座った。普通に。
「ふわあ~……はあ……。あ~よく寝た」
「天使なのに日光に弱いの? 私全然なのに」
「違うっつうの。おれのは単なる昼寝。日光に弱い天使なんていない」
「大して仕事してないのに眠くなる筈ないじゃない」
「酷い言われようだ」
と言いつつ、リリンの言う通りなので反論はしなかった。
「ゼル」と呼んだ男に抱き付いたリリン。ゼルも眠そうではあるがリリンを抱き締める腕に力を込めた。
「ふふ。こうやってゼルに抱き締められると安心する」
「それは良かった。で、また婚約者が来たのか?」
「元よ、元! 婚約は解消になったのになんでまだ私に関わるのよ!」
「本当は、リリンの事が好きだったんじゃないのか?」
「初対面の私に向かって『くさい』って言ったのに?」
リリンは王国で魔法騎士の称号を持つベリ侯爵の長女。母は王妹にあたる。ただし、実はリリンは夫妻の子ではない。
父親はベリ侯爵で間違いないが母親が違う。
「しょうがないだろうな。お前の婚約者は聖女の末裔、いわば神聖な血が流れる清らかなお家柄だ。淫魔のハーフのお前が臭うのは仕方ない」
「ゼルなんか天使じゃない」
「おれは偉い天使様だからいいの」
「人に言われるのは嫌なくせに」
「自分で言うのは良いんだよ」
ゼルの言う通り、リリンは人間と淫魔のハーフ。強い魔力と精を併せ持ったベリ侯爵の香りに釣られた淫魔がベリ侯爵を襲い、淫魔が孕んだ子がリリンだった。人間の血を引く赤子に用はないとベリ侯爵家に置いて行かれた赤子のリリンを育てると決めたのは侯爵夫人。自分の血を引いていなくてもリリンは夫の血を引いており、髪や瞳の色が夫と瓜二つなのもあって娘として届を出した。何より、赤子のリリンの天使のような可愛らしさに夫人の方がメロメロになって悩む侯爵を押し切った。元々夫妻には息子がおり、その頃の夫人は数年間魔法研究に没頭するあまり社交の場にも姿を現さなかったのでいつの間にか一人増えても大丈夫だろうという、王女にあるまじき豪快な考えでリリンを迎えた。
人間と悪魔のハーフは極端に二つのパターンに分かれる。
一つは、人間の血が濃いと弱い魔力しか持たない。
二つ目は、悪魔の血が濃いと強大な魔力を持つ。
リリンは後者。
リリンの元婚約者はルドヴィク=ザカリー。黄金を溶かした髪と青みのある紫色の瞳を持ち、社交界では『麗しの貴公子』の名で呼ばれ令嬢達に大人気のザカリー公爵家の跡取りだ。誰にでも優しく、紳士的な振る舞いをするルドヴィクとは半年前に婚約解消をした。
「初めて『くさい』って言われた時はザカリー公爵夫妻にとても叱られていたわよ? 本人からも正式な謝罪を受けた。でもだよ? 婚約者になったから定期的に会うでしょう? その度に私を嫌そうに見て来るんだよ?」
「ずっと?」
「ううん。一瞬。私はどんな一瞬でも見逃さなかった」
初めて出会ったのは六歳の時。
父の研究している空の魔法石に魔力を充填して繰り返し使用可能になる魔石充填式が完成した。魔道具の開発で幾つもの特許を持つザカリー公爵が繰り返し使用可能な魔法石に目を付け、二人が友人同士なのもあり、ザカリー公爵家が持つ農地開拓に特化した魔道具の長期無償使用を条件にリリンとルドヴィクの婚約が決まった。初対面の際、緊張するリリンに向かってルドヴィクが――
『くさいぞ、君。ちゃんとお風呂にいれてもらっている――』のかと続かず、ザカリー公爵の拳骨が頭に直撃した。いきなり発せられた失礼な言葉にリリンは大変ショックを受けた。今まで両親や兄から大事にされ、周囲にも大切にされてきたリリンが受けたショックは計り知れない。
『お父様! お母様! こんなのと婚約なんてわたし絶対嫌!!』と絶叫したのは今でも覚えている。
「私を『くさい』って言ったのは、アイツに流れる聖女の血が理由っていうのは後から知った。私が淫魔のハーフだってことはそれ以前から聞かされていたから、納得できたの」
「そっか。おれが定期的にお前の様子を見に行っていたのも効果があったのかな」
「ゼルが来ていたのってお父様達に言われて?」
「ああ。赤子のお前を育てると決めたはいいものの、いつか淫魔のハーフだとバレないようにはどうしたらいいかっておれに相談しに来たんだ」
ベリ侯爵は、変わり者で能力は高いのに、神殿での地位は高いのに、基本仕事をサボっては外で寝ている大神官ゼルを捕まえてリリンの相談をした。正体が本物の天使で且つ、かなりの高位天使なゼルは一目見て赤子のリリンが淫魔の血を引くと見抜いた。事情を聞いたゼルは当初処分するのを勧めた。人間と悪魔では生きる時間が違う上、人間の血を引こうとリリンは悪魔同様長い時間を生きる。特に、淫魔の血が強いから尚更。
更に淫魔の性質上、避けられない事がある。
「リリン」
「んう……」
絶世を五つ付けても足りない美顔がリリンに迫るとキスをした。
淫魔は男性の精を生命の糧とする上、成人を迎えるまでに精を得ないと消滅してしまう性質を持つ。人間の血を持つリリンは、ある程度逃れられるがやはり精を得ないと苦しいものがある。初潮を迎えた当初は大変だった。急に色香が増し、無意識に異性を魅了する香りを放ってどんな男性をも虜にしてしまった。
「ん、んん、ねえ……ちょっと、しつこい」
「しつこいくらいが丁度良いのさ。でないと、お前の淫魔の力が無意識に出るぞ」
「それなら……しょうがないか」
「そうそう」
触れるだけのキスは徐々に角度を変え、舌を入れるキスにまで変わっていく。
父と母は真っ先にゼルに相談をし、解決策は従来の淫魔のように男の精を得られれば一人前の淫魔となり香りを制御可能となる。男の精を得るということはつまり……肉体関係を結ぶということで。初潮を迎えたばかりのリリンにさせられる筈がないと母は激怒したそうだが、淫魔とはそういう生き物だと言われ渋々引き下がった。当面の間は、ゼルが自身の力をリリンに注ぎ力を抑えるという方法が取られた。定期的にベリ侯爵家を訪れていたのもこの為。ただ、リリンの方もゼルに会いに神殿へ行っていた。主にルドヴィクへの愚痴を聞いてもらう為に。
「ん…………ふう……」
「リリンがその気なら、再度婚約してもいいんじゃないか? 少しくらいは好意を持ってたろう?」
キスを終え、腕の中に閉じ込められゼルの胸板に耳を寄せたリリンは規則正しい心音と甘い香りを嗅いで気持ちを落ち着かせる。ゼルの言う通り、初対面で『くさい』と言い放った挙句、毎回一瞬だけ嫌そうな顔をするルドヴィクではあったが好意は持っていた。後日、日を改めて会ったルドヴィクからは誠心誠意謝罪を貰いリリンも受け入れた。一瞬の嫌そうな顔さえ我慢していれば、常にリリンを気遣い婚約者として定期的にデートをしたり、贈り物をしてくれるルドヴィクは完璧な婚約者だった。
夜会やパーティー等のエスコートも欠かさなかった。ファーストダンスが終わっても基本リリンの側にいて、離れる時は主である王太子に呼ばれる時くらいだった。ルドヴィクからの好意も感じ取っていて、たかが一瞬の嫌そうな顔さえ我慢すればこれからも良好な関係のままいられるであろうと――半年前のリリンなら信じていた。
「そうだとしても、私はもうザカリー公爵令息が好きじゃないの。幻滅した」
ゼルの背に腕を回し、半年前について思い出す。半年前、隣国との境目に瘴気を纏った魔獣が現れたと辺境伯から王家に報告が上がった。瘴気を纏った魔獣は神聖力を持った者でしか討伐は出来ず、聖女の末裔であり現『聖騎士』の称号を与えられているルドヴィクが魔獣討伐に任命された。他には治癒能力を持つ神官や優れた魔法使いがメンバーに組み込まれた。
一月前から、王である兄が大好物なイチゴを季節関係なく栽培可能な種を開発していた母に付いて行く形でリリンは登城し、母が王の執務室で試作品を渡しに行っている間リリンは散策の許可を貰った庭園にいた。歴代の王妃達が大切にしてきた庭園には、代々の王妃達が好んだ花が植えられており、リリンが来たのは祖母が好きだったアネモネが咲くエリアだった。偶に母に連れて来られては一緒に庭園を散歩し、疲れたら予め用意されていたお茶の席で楽しく過ごした。良い思い出しかない庭園はリリンの憩いの場。後ろに護衛の騎士が付いているが不用意に話し掛けることもない。静かに、美しい花々に癒されていると遠くから人の声が聞こえた。
淫魔だからか、人より聴覚に優れていて、他人が聞こえない小さな音や声をリリンの耳は拾う。
辺りをキョロキョロと見、声のするのはこっちだとリリンが進むと怪訝そうな顔をしながらも騎士は黙って付いて行く。
『あれって』
進んだ先は四代前の王妃が好きな花ポピーが咲くエリア。ポピーも好きなリリンは、母が来たら一緒に回ろうと予定していたところだ。声は誰か分からなかったので顔を見たくなってやって来た訳だが……視線の先にいたのはルドヴィクと第一王女イベリス。内心顔を顰めたリリンは、頬を朱色に染めルドヴィクを見上げるイベリスを不快な目で見る。
『麗しの貴公子』ルドヴィクに想いを寄せる令嬢は多い。イベリスも然り。王女の立場を利用し、王命でルドヴィクと婚約しようと画策したがベリ侯爵家とザカリー公爵家の婚約事情を知る王により大説教をされた。数々の嫌がらせをイベリスから受けていたリリンは、王妹の母にしっかりと相談し、何度か国王の了解を貰って仕返しをしていた。肝心のルドヴィクがイベリスの性悪に気付いていないのが難点だった。自分という婚約者がいるのに平気でルドヴィクに纏わりつくイベリスを幼馴染故の関係だからと取り合わず、嫌がらせを受けたと言ってもルドヴィクの前では清廉で美しい姿を演じているイベリスしか知らないので誤解があると信じて貰えなかった。
心の中でルドヴィクを何度ボコボコにしたことか、イベリスに泥を掛けてやったか回数は覚えていない。
ルドヴィクとイベリスの周りには誰もいない。隠れた場所にいるのだとしても、恐らく人払いがされている。
何をしているのかと気になってリリンは盗み見る事にした。姿は遠いが二人の姿はバッチリと見える上、声だって聞こえる。護衛の騎士も何故か一緒に見てくれる事に。
『お父様から聞いたわ。ルドヴィクが魔獣討伐の隊長に選ばれたと。気を付けてね』
『ああ、勿論。ありがとうイベリス』
ここまでなら魔獣討伐へ向かうルドヴィクを心配するイベリスで終わる。終わらなかったからリリンと護衛騎士は居続けた。
『この後は、ベリ侯爵家に行く予定なんだ』
『……それってリリン様に会いに行くの?』
『そうだよ』
『ルドヴィクにリリン様は不相応よ。ねえ、もう一度わたくしがお父様に頼んであげるからリリン様ではなくわたくしと婚約しましょう?』
懲りない人というのは、どこまでも懲りない。母と合流したら言い付けてやると心の中で決め、気になるルドヴィクの反応を待った。
ルドヴィクは困ったように笑いながらも婚約者はリリンのままがいいと言い切った。不覚にも胸がときめき、頬が熱くなっていく。長年婚約者で居続けたのだからルドヴィクだって好意を持っていてくれていると信じた自分を誉めてやりたい。……とルドヴィクに感動したのはここまで。
『ベリ侯爵家の魔法技術はザカリー公爵家にとって無くてはならない物なんだ。ベリ侯爵家だってそれは同じさ。両家の技術提供は私達の婚約によって成り立っているから、私はリリン以外とは婚約しない。勿論、私がリリンを好きなのもある』
貴族の結婚の殆どは政略結婚。家同士の繋がりを持つことで力を強めていく。最初の言葉に反感はない。リリンとて侯爵家の令嬢として育てられたのだから。後の言葉でイベリスがムッと表情を変えたのを見てリリンの溜飲が下がる。
『リリン様の嫌いなところってないの……? そ、その、我儘とか、短気とか』
お前が言うな、と心の中で毒を吐きつつルドヴィクの返答を待つ。
『いや? リリンは全然我儘なんかじゃないよ。性格ものんびりな部分が多い。あ……一つだけあるかな』
『それは何?』
『これは私しか感じないらしいが――……リリンは一瞬だけくさい時があるんだ』
…………リリンの中のルドヴィクへの好意は、この一言によってあっという間に塵となった。
『くさい……? くさいって匂いのこと……?』
『そうなんだ。初めて会った時、リリンから香ったにおいがくさいと感じてつい言ってしまって……。その時は両親にかなり叱られてリリンからも私との婚約は絶対嫌だと叫ばれてしまったんだ。今もだが、どうしてリリンをくさいと思うか分からないんだ……』
よりにもよって一番明かしてほしくないイベリスに向かってとんでもない発言をしたルドヴィク。食い気味に、目を輝かせて続きを迫るイベリスにもそれに気付かないルドヴィクにも苛々と怒りが最大限へ上がる。これ以上此処にいれば二人の所へ突撃し、ルドヴィクの顔を一発殴ってしまいそうになるので護衛騎士に声を掛けてその場を去った。
護衛騎士からは『ベリ侯爵令嬢がくさいだなんて……ザカリー公爵令息の嗅覚に異常があるんじゃ……』と呟かれ、いたたまれなくなった。
出来事をポツリと話すとゼルは吹き出し、口を押さえて笑いを堪えていた。ジト眼で見上げ、無防備な腹に拳をぶつけるもゼルの腹が固くて大したダメージは与えられなかった。
「そうかそうか。恋敵の大きな欠点を聞いちゃあ動かない訳にはいかないか」
「笑わないでよ」
「で? その後は、ベリ夫人に会ってすぐに話したんだろう?」
「勿論」
ポピーのエリアからアネモネのエリアに戻るとリリンを探していた母と合流。かなり不機嫌な様子だったから、どうしたのかと聞かれ、自分の目で見て耳で聞こえた事実を全て話すと母は無表情となった。これからリリンはどうしたいのかと聞かれたので迷わず答えた。
『婚約解消をしたいです』
強いて言うなら婚約破棄をしたいと言いたかったが両家の関係を考えて止めた。
そこからの行動は早かった。ベリ侯爵家に戻ると丁度部屋から出て来た父と遭遇し、王城の庭園でリリンが見聞きした内容を話すとすぐに婚約解消について動いてくれた。リリンが屋敷に戻って少ししてルドヴィクが会いに来るも、今は外出中だからと帰ってもらった。その代わり、魔獣討伐への出発当日には王城に来てほしいと伝言を貰った。
当たり前の話行かなかった。
代わりにルドヴィクからの手紙を貰った。王都に帰還した際に大事な話があるから、必ず会ってほしいというもの。
「会ったのか?」
「個人的には会ってない」
ルドヴィクが魔獣討伐中に二人の婚約は正式に解消された。今までルドヴィクがリリンを『くさい』と感じていた原因をザカリー公爵は知っていた。初対面でのルドヴィクのやらかし後、父がザカリー公爵に話していた。聖女の末裔であり、特に血が濃く現れているルドヴィクとの婚約は、リリンにとってもルドヴィクにとっても良い物ではない為、婚約がなくても技術の提供はすると父は提案したものの。
互いの技術提供となると子供を婚約させた方が他にうるさく言われず、都合の良い面が多々ある。やはり二人の婚約は必要不可欠だとザカリー公爵の説得を受けて婚約が成立してしまった。
『くさい』と感じるのは一瞬。一瞬が起きる原因をリリンなりに説明をしてみた。現在、異性を虜にする香りはゼルによって制御されている。ルドヴィクに対しては大なり小なり好意を抱いてしまっているせいで一時的に強い香りを出してしまっているかもしれず、聖女の血が濃く現れているルドヴィクは淫魔の香りを『くさい』と拒絶反応が出てしまっているせいだと。ザカリー公爵はリリンを『くさい』と感じたことはなく、これはルドヴィクと違って神聖力が弱いからだと判断。
第一王女がルドヴィクに懸想し、挙句リリンに何度も嫌がらせをしているとはザカリー公爵夫妻も知っていた。幼馴染だからとイベリスに甘いルドヴィクには、散々リリンの事は話すなと念押ししていたのに『くさい』と言ってしまった。恐らくイベリスはすぐにリリンが『くさい』とあちこちで吹聴するだろう。国王には母が話すので存分に叱ってもらおう。
ルドヴィクとの婚約が解消となっても、農地開拓に必要な魔法道具はこれからも必要となり、空の魔法石を充填する魔石充填式もザカリー公爵家にとってこれからも必要となるので両家の技術提供は今後も続いていくことで同意。リリンも納得の上。但し、ルドヴィクのせいで要らない苦労をリリンに掛けてしまったので慰謝料が支払われた。婚約破棄ではないから受け取れないと断ったがザカリー公爵も断固として引き下がらなかったので受け取った。
婚約解消をしたと公にしたのはルドヴィクが帰還した二ヵ月前。王都に帰還し、登城したルドヴィクが謁見の間で国王から労いの言葉を掛けられた後であった。謁見の間には王太子、イベリス、それとベリ侯爵家とザカリー公爵家もいた。
『父上、母上、無事任務を遂行し戻りました。リリン、君に会いたかった』
近付こうとしたルドヴィクに制止の声を掛けたのはザカリー公爵だ。
不思議そうに振り向いたルドヴィクに向かって三か月前にリリンとの婚約は解消済な事を話した。呆然とするルドヴィクと意味を察したイベリスが歓喜の声を上げるも王太子に一喝されてかなり不満そうにしながらも黙った。
『ま、待ってください、な、何故私とリリンが……』
『私の口から説明してあげますわ』
前に出たリリンは三か月前、ポピーのエリアの庭園でルドヴィクがイベリスに話した内容について指摘した。
『ルドヴィク様が私をずっとくさいと思っていたのは知っていましたよ。だって、毎回顔を合わせる度に一瞬だけ嫌そうな顔をしていましたもの』
『そ、それは……』
事実だからルドヴィクは何も言い返せない。
『まあ……それさえスルーすれば、ルドヴィク様は完璧な婚約者でした。私もその点さえ無視したらルドヴィク様が好きだったから』
『……』
好きだった、という言葉からリリンの中に自分への好意は消えてしまったと悟ったルドヴィク。
『よりにもよって私に嫌がらせをするイベリス王女にそんな話をするなんて。もう、とてもではありませんがルドヴィク様の婚約者ではいられません。ザカリー公爵様とも既に話を付けています。くさい私はルドヴィク様の前から消えてあげます』
『すまなかったリリン。イベリスは幼馴染だからつい何でも話してしまって……! 君を陥れる気は全くなかったんだ!』
『あのですね、どんなに親しい相手でも婚約者をくさいと言った時点で無意識だろうと陥れているんですよ。ましてや、ルドヴィク様が好きだから私に嫌がらせをする殿下に話すなんて』
さっきから怖い目付きで睨んでくるイベリスだが、同じ様に怖い顔で睨んでくる王太子や国王の目がある為、悔し気な表情で見ているだけ。顔を青くさせ、誤解だと、ただの幼馴染だからと話すルドヴィクに幻滅していった。
ただの幼馴染だと言われたイベリスは途端に涙を流し、泣きながらルドヴィクに迫った。この辺りでリリンは両親と共に国王と王太子に礼を見せて退散した。
二ヵ月経ってもルドヴィクは復縁したいと毎日手紙を送り、時に屋敷に来る。全て手紙は受け取り拒否にし、追い払っている。
「ちょっと王女が憐れかもな」
「そう? 恋愛感情として見られていないって知って私はちょっとスッキリした。いい加減私の事は諦めてイベリス王女と婚約したらいいのに」
うんざりげに話すと頭に温かい何かが触れた。顔を上げると額にキスを落とされた。
「ゼル?」
「ここまでな。前の婚約者の話をするのは」
現在リリンの婚約者はゼル。ルドヴィクとの婚約が解消されると次の婚約者の話になり、多くの釣書がリリン宛に届けられた。魔法騎士と名高い父譲りの魔法の才を持つリリンを他国の王族すらも欲し、次はリリンが選んだ相手で良いと言われ全て断っていた。そんな時にゼルがベリ侯爵家を訪問。リリンに求婚した。
「春の舞踏会で公表するとは言えど、おれ達は正式な婚約者なんだ。もう前の婚約者の話は終わり」
「愚痴足りない!」
「十年以上聞いているからおれはもうお腹一杯」
六歳の顔合わせの日以降、それ以前から愚痴吐き場にしていたゼルから求婚されるとは思ってもいなかったリリンは驚愕した。両親も然り。
正体が本物の天使――それも高位の――とは言え、周囲の認識は歳を取らない謎の不真面目大神官。不真面目なのに強力な神聖力を持ち、いざという時程頼りになるせいで誰も何も言えない。正体を代々知る羽目になる神殿長以外は。
「侯爵夫人には、散々幼女趣味とか言われたけど、実際おれはお前が好きだよリリン」
「幼女趣味は事実じゃない。私が子供の頃から好きだったんでしょう?」
「あ~……否定はしない。大人になったらおれ好みになりそうって思ってたんだ」
「最低」
「そう言うなって。お前にとってもメリットはあるって話しただろ?」
「うん」
もしもルドヴィクと婚約を続け、結婚して正式な夫婦になって淫魔にとっての生命の糧となる精を得られたら。純血と違ってリリンは強い欲求は起きないだろうが、それでも一度精を得れば毎日摂取しないと酷い渇きを覚えてしまう。
ルドヴィクとの結婚生活を想像してみろと以前言われ、言われるがまま想像してみた。『聖騎士』として毎日忙しく働くルドヴィクは数日に一度屋敷に戻れれば良い方だと婚約者時代語っていた。毎日摂取しないとならないリリンからするとたった数日は死活問題。うっかり発言があろうと無かろうと婚約の継続は、もしかしたら難しかったかもしれない。
その点、ゼルは自身の力を使ってリリンの淫魔の力を制御可能だ。ふと、ルドヴィクにも事情を話して制御は可能だったのかとゼルに訊ねた。
ゼルの返答は――出来る、だった。
「聖女並みに強い神聖力を持っている元婚約者なら可能さ。けど、元婚約者はお前が淫魔と人間のハーフって知らないんだろう?」
「知らない。ザカリー公爵も言ってない」
「お前の香りの正体を知っていれば、元婚約者だってもう少し口を重くしたんじゃないのか?」
「考えたよ。実際、魔獣討伐から帰還したら話そうって決めていたの」
自身の重大な秘密をいつまでも秘密にしていられない。ルドヴィクなら、話しても理解してくれると心のどこかで信じていた。結局、話す前にルドヴィクの無意識の口の軽さがイベリスの前で発揮された為に話さずに終わった。もしも先に話していたら、くさいと感じる理由が淫魔の血が流れているからと喋っていた危険もある。そう考えるとルドヴィクに秘密は話せない。
「今となっては話さないでいて良かった」
「はは。王女の方は、元婚約者が言っていたお前の香りについて周りに言わなかったのか? 一応、神殿の方には何も届いてなかったからな」
「ちゃんと言ってくれたわよ?」
口の軽い王女はお付きの侍女達にすぐにリリンが『くさい』と脚色をつけて話し、お喋り大好きな侍女達も同僚達に話した。社交界にあまり広がらなかったのは、目を光らせていた王太子がすぐに気付いて国王に報告。イベリスはルドヴィクが帰還するまで一切の外出を禁じられ、お喋りな侍女達や話を聞いて面白おかしく話を広げようとした者達には厳重注意がされた。次があれば即解雇と告げて。ほんの一部の貴族の耳には入ってしまったがルドヴィクに懸想するイベリスが流した嘘として誰も信じなかった。
ルドヴィクの婚約者として誠実で居続けたリリンと嫉妬深くてお喋りが好きで我儘放題なイベリスとでは信頼の度が違う。
「なあリリン。お前はおれをどう思ってる?」
「キスされてもいいくらいには好き。好きじゃなかったら、自分からゼルに近付かないわよ」
「そっか」
分かっているくせに聞いてくるゼルに呆れながらも、破顔して抱き締めて来るゼルがなんだか可愛い。
もう少し抱き合ったらデートをしましょうと誘う気だったのに――邪魔者がやって来た。
「リリン!」
この声は……と内心うんざりとしながらゼルから少し離れ振り向くと――予想通りの相手ルドヴィクがいた。
両手には薔薇の花束、『聖騎士』の正装をしたルドヴィクがショックを受けた面持ちで抱き合っていたリリンとゼルを視界に入れていた。
ゼルの膝から降りたリリンは盛大な溜め息を吐きながらルドヴィクと対峙した。
「まさか、後をつけてきたのですか?」
「済まない……。何度会いに行っても門前払いをされるから」
「当たり前ではありませんか。ザカリー公爵令息様と私は既に他人なんですから。会いたいなら、事前に連絡を送ってください」
「私は婚約解消に納得していない!」
「しつこいですわ! 何度も理由を説明しましたよね!?」
婚約解消になったからと言ってルドヴィクの相手選びが困るとは思えない。筆頭がイベリスにしろ、彼の婚約者になりたい令嬢は数多くいる。
「イベリスとは今後私的な話は一切しない。会うなと言われたら会わないようにする。君に関する事は全て他人に言わない」
「そういう問題じゃないんです。私を『くさい』と思っている以上、貴方にとっても負担にしかなりません。良い機会だと思って受け入れてください」
「どうして君を『くさい』と思うのか未だに分からないんだ。父上に相談しても分からないと言われて……」
今此処で『くさい』と思う理由を話してしまおうか。迷いが生じたリリンの思考を読み取ったのかと問いたくなるタイミングでゼルが二人の間に割って入った。
「ザカリー公爵令息。今すぐに帰れ。嫌がっている令嬢に強引に迫ったって更に嫌われるだけだぜ?」
「ゼル大神官っ……どうしてリリンと一緒にいるんです。大体、貴方は昔からリリンに馴れ馴れしいっ」
「お前がリリンを『くさい』と感じる理由を知ってる。その関係もあって交流があったんだよ」
「理由を知っているなら教えてください! 私は必ず克服してもう一度リリンとやり直したいんです!」
切実に、必死に訴えるルドヴィクが跪くと持っている薔薇の花束をリリンへ差し出した。
「リリン、私は必ず君の信頼を取り戻して見せる。もう一度、私と婚約してほしい」
「無理です」
「リリンっ」
「貴方が私を『くさい』と思う理由を私も知っています。ですが教える気はありません」
「どうして!」
「信用出来ないからに決まっているでしょう。貴方に私を陥れる気がなくても他人にあっさりと婚約者が『くさい』と言ってしまうような婚約者なんて一切信用出来ない」
仮にあの時リリンが話を聞いていなくても、話が広がってしまえば話の出所と原因はすぐに知れた。冷たく、強い拒否の言葉を貫き通せばルドヴィクは腕を力なく下げ、薔薇の花束が地面に放り出された。薔薇の花束に罪はないがルドヴィクのしつこさを消すにはどうしようもない。
「今後、私に近付かないでください。再婚約も絶対に有り得ません。新しい婚約者はもう決まっているので」
「だ、誰!?」
勢いよく顔を上げたルドヴィクに見せ付けるようにゼルの腕に抱き付いた。
「おれのこと」
「な、だ、大神官!? だ、だって、神殿の大神官で、何時から大神官をしてるか分からない……私の祖父よりもずっとお爺さんなんだよ!?」
「誰がじじいだ。まだ若いっつうの」
実年齢を聞いた訳ではないが曾祖父が若い頃から大神官をしていると聞いたことがある。容姿も今と全く変わらないとも。曰く、天使の中では比較的若い方らしい。
大きなショックを受け、打ちのめされたルドヴィクの横を通り過ぎた二人は神殿の中へと入って行った。
「あれで諦めてくれたら良いけど……」
長年共にいた相手だ、多少同情心はある。今回を機に自分のことをさっぱりと諦めてイベリスなり他の令嬢なりと婚約を結んでほしい。
「リリン。今からデートでもするか。取り敢えず街に行ってお茶でもしよう」
「良いわよ。ひょっとして、お爺さん呼ばわりされたのを気にしてる?」
「ちょっとは」
「でも実際すごくお爺さんでしょ?」
「人間の年齢感覚と一緒にすんな」
「それもそっか」
どうせリリンも長く生きる。
長く生きる者同士でいた方が良いこともある。
流行りのカフェに行きたいとゼルの腕に抱き付き、はいはいと言いながら嬉しそうにリリンの頭にキスをしたゼルであった。
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