嘘の数だけ素顔のままで

島村春穂

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第2章 痴漢

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 朝飯は普段通りに食べたしいつもの時刻に家を出た。道路は空いていたしめずらしく赤信号に止められることも少なかった。今頃教室に着いててヒタチノゾミにスマホを返していたはずだろう。だが、コトブキの運転する車は郊外の県境を目指してパソコン教室とは反対の方向に走っていた。初体験の相手とは偶然出会って恋をしたいだとか歳の差は三つまでがいいだとか素人がいいだとか言っていられなくなった。



 気が済むまでサイトを閲覧した最後にヒタチノゾミのラインを見てしまった。もし『先生』からラインがきていたら開いた瞬間に既読になってしまう、そういう懸念は徹夜明けの頭には無意味だったし『先生』が『先生』という名前を使っているはずがなかった。『先生』はアニメの少女のアイコンで鬼守丸というハンドル名で追加されていた。オニノカミマル……読み方がよくわからなくてとりあえずそういうことにしてコトブキは納得した。数十分あとになってからわかったことだが、受講関係の用紙に講師・丸山哲郎と載ってあった。ラインがきていたからもちろん既読になった。


 画像が添付されていた。送信元は鬼守丸。ヒタチノゾミのポルノ……屹立を口に咥え込んでいて鬼頭の丸みを頬に浮かび上がらせている。恨みがましい瞳はカメラ目線だった。男の黒いスラックスにコトブキは見覚えがあった。送信された日付は昨日。やはりあのときの男が『先生』だというのは揺るぎようのない事実だった。画像の添付は他にもまだあった。


 日付は一昨日。送信元はヒタチノゾミ。アソコを人差し指と中指の二本でくつろげている。M字に投げ出した脚と腰を突き出しているせいで尻の穴まで見えそうだった。この画像が送られる直前のやり取りには『先生』からの指示があって、たった一言、みせろ、そしてヒタチノゾミからは、はい、とだけ返信があった。


 一昨日のラインはヒタチノゾミが画像を送信したのが最後だったが、遡ってみるとその日は長い間やり取りをしていたようだ。旦那が近くにいる、というヒタチノゾミのラインに対して、うるさい、はやくしろ、ぐず、といった『先生』のラインが続けざまに並ぶ。ヒタチノゾミが返信に添付したのは画像ではなくて動画だった。


 再生した。


 耳障りな音声が反響して始まった動画は自宅と思われるトイレの個室だった。ヒタチノゾミは便座に坐っていて下の服は膝まで下ろされている。股ぐらをひろげて飾り毛を何度か掻き上げた。ヒタチノゾミは……おしっこをした。


 だが、トイレで撮られた動画はこればかりではない。もうひとつは教室のトイレだった。動画のサムネイルに映り込んでいた便座カバーの色でわかった。


 再生した。


 唐突に断末魔のような女の悲鳴があがってコトブキはビクッとなった。画面は真っ暗になったり、乱反射したりした。動画の手ぶれがひどかった。『先生』の息遣いが悲鳴の間断をぬって荒々しくなった。悲鳴だったものが突然低くうなった。


 そうそれだ、と『先生』の声がした。


 画面に黒く映ったのはヒタチノゾミの髪の毛で乱反射したのはヒタチノゾミの素肌だった。後ろから突く『先生』のリズムで手ぶれしていたのだった。


 さっきからその声だせって言ってたんだよ、『先生』はそう言って息を弾ませた。


 うなり声は咆哮した獣のように尾を曳いた。画面は天井を映したり、壁を映したり、床を映したり、便座を映したり、めちゃくちゃに動いた。そして、手間取らせやがって、と『先生』が舌打ちしたところで動画は突然切れた。


 一昨日と言えば、『先生』が皆の私物のノートパソコンを見てあげると言って教室が終わっても誰一人帰らなかった日だ。動画は、『先生』からヒタチノゾミに送信されていて、削除するなよ、そうラインがしてあった。旦那に見つかったら云々というヒタチノゾミのラインには、そういうプレイだ、と『先生』から返信がしてあった。その下に、返事は? とあって、ヒタチノゾミのラインは、はい、だった。


 ヒタチノゾミと『先生』がラインでやり取りを始めたのは五日前、職業訓練の初日からだった。ラインの内容は簿記に関することだったり、パソコンに関することだったりで、『先生』は敬語を使っていて、言葉遣いをくずしているのは寧ろヒタチノゾミの方で、最初に通話をかけたのもヒタチノゾミからだった。CDの音楽はどうやってパソコンにいれるのーわからなーい、そうヒタチノゾミがラインした直後だった。その通話が終わったあとに、『先生』のタメ口は始まっている。そして、ヒタチノゾミは敬語になった。通話を終了したのは、ヒタチノゾミの旦那が帰宅した為だった。だが、その後も二人のラインは続いている。


 簿記やパソコンといった話題からラインの内容は一変していた。質問する側とされる側という立場も入れ替わっている。


 これまでのセックスした経験人数。初体験の時期。それは誰とどこでどういった状況で、といったことにまで及び、他には、男にぶたれたことはあるのか、青姦はヤッたことがあるのか、海水浴ではどうだっただとか、複数は経験あるのか、男に傷つけられたセックスはあったのか、さらには旦那との馴れ初めや夫婦の性生活については殊更詳細に質問されていて、営みは週に何回あるのか、前戯はどのくらいの時間をかけるのか、ゴムはつけるのか、体位は何種類ヤッているのか、挿入して射精するまでの時間はどのくらいだとか、普段より盛り上がるセックスは年に何回あるのか、そのキッカケのようなものはあるのか、旦那に変わった性癖はあるのか、オナニーの見せ合いはするのか、大人のおもちゃは使うのか(男性用も含む)、などとタメ口で訊いていたのだった。ヒタチノゾミは、それら全部の質問にラインを返していた。


 二人が男女の関係になったのはその翌日、職業訓練が始まって二日目のことだった。その動かぬ証拠が画像として残されていた。場所は教室のトイレ。汚辱の印がヒタチノゾミの顔じゅうにかけられてあった。コトブキは、クラスの皆にトイレで不倫したことや『先生』に必死で嘘を取り繕ったことが、それこそ死にたくなるくらい虚しく感じられた。



 コトブキはカーナビの指示通りに次の信号を左に曲がった。ここから先は初めての道路だった。初めての坂をのぼって初めてのトンネルをくぐって初めての国道を飛ばして走った。そして、迷い込んだ閑静な住宅街をぬって走っているうちにカーナビは、目的地に着きました、とそう言った。


 ここが……雑居ビルをフロントガラス越しに見上げてコトブキは思った。駐車場はあるようだ。二十台ほど停められるスペースに、車は一台もなかった。


 駐車場から歩いて出るときに茂木楽器店・駐車場という看板を見つけた。看板は舗道沿いの植木にほとんど隠れていた。


 雑居ビルの入口は人ひとりがすれ違える程度の幅広でシャッターが上げられていた。薄暗い通路に音楽が聴こえていて、音のする方に歩いて行くと茂木楽器店という印字が自動ドアに緑色で書かれてあった。


 店内に客の姿はなかった。レジカウンターに店員らしい男が一人いて、男は長髪で髭を生やしていて両腕と首にはタトゥーがあった。歳は二十代後半にも見えたし四十代にも見えた。男は、やがてコトブキのことに気がついたがスターバックスのロゴの入った飲み物を口にしただけだった。


 まだ開店前なのだろうか。コトブキは急に居心地が悪くなり店内を見回した。ギターやベース、ピアノ、サックス、フルート、バイオリン、アコギ、ピック、ドラムスティック、ウクレレ、マイク、ドラム、ステレオ装置、DJ用のターンテーブル、DJ用のミキサー、スピーカー、アンプ、シールド、運搬用ハードケース、マイクスタンド、シーケンサーの類と音楽ソフトなど一度に列挙できないくらい色々なものが売ってあるようだ。本棚のコーナーにはピアノ楽譜とバンドスコアと楽器の教則本の類が並んである。あとは壁の一角にCDとDVDが置いてあった。他の楽器店と変わっているところと言えば、レコード盤が置いてあることくらいだった。


 適当に選んだレコード盤のジャケットを見ようとしたとき、突然今までかかっていた店内BGMの音量がでかくなった。コトブキはレジカウンターを見た。男は首でリズムをとりながら先程の飲み物を手に持っていてコトブキを気にする様子はなかった。


 店内に流れていたのは二十一歳でオーバードーズしたラッパー、Lil Peep の Awful Things という曲で、バイリンガルっぽい口調の女のラヂオDJがそう紹介していた。


 コトブキは、もう一度レジカウンターの方を見てから店内を出た。


 エレベーターは雑居ビル入口の右手の方にあった。中に乗ると、一階から四階、それと地下一階までの押しボタンがあった。湿気で波のようによれたポスターに二階がピアノ教室であることと、三階がヨガ教室であること、四階が各種イベント募集、十月・俳句セミナー、講師・大内田守と印刷してあった。コトブキは、地下一階のボタンを押した。


 扉が開いて通路に出た。埃っぽくて地上一階の通路より薄暗かった。店が営業している様子はない。それにテナント募集中という感じでもなくて通路には段ボールや販促品のポップの数々、机、スチールラック、マネキンが三体、皮のジャンパー、開いたままの金庫、壁掛け時計、VHSのビデオデッキ、女性週刊誌、パチンコ雑誌、変色した軍手一枚、それとモップやパイプ椅子が無造作に壁に立てかけてあり物置に使っているといった感じだった。


 コトブキはエレベーターに戻った。地上二階、三階、四階の押しボタンを順に指差して迷った。ほとんど諦めに似た徒労感で胸がいっぱいだった。表情のない顔で四角いボタンを見つめていると……このボタンは……地下二階に続く押しボタンがある。「2」という数字こそ入っていないが、ボタンがあるということは……コトブキは興奮して数字のないそのボタンを押した。


 エレベーターの扉が閉まり、下に降りていく感覚がからだに伝わってきた。ただし地下二階ということは嘘だと思った。地下四階とか五階とかそれくらいの高さを降下している気がした。


 エレベーターの扉が開いた。


 目の当たりにしたのは WELCOME という青色のネオン管だった。こういう場合、目の当たりという言い方は本来正しくないのかもしれないが、通路は真っ暗闇でその青色のネオン管だけが夜の海に漂う豪華客船のように浮かびあがっていたのだった。コトブキは壁際を手探りしながら歩いた。


 ネオン管のある場所は突き当りで右手の方に FEMALE、左手の方に MALE というネオン管がそれぞれあった。

 FEMALE はピンク色で MALE のネオン管は紫色だった。通路にあるのはそれだけだ。コトブキは紫色のネオン管に向かって歩いた。すると、ネオン管のあるところはまた突き当りになっていた。右手の方に通路が続いている。OPEN。緑色のネオン管が一際暗い闇の中で光っていた。スチールドアを引いてコトブキは中に入った。


 LEDのフットライトが申し訳程度にだけ光っていて壁の輪郭が何とかわかった。電車の走る音がする。一定のリズムでレールの継ぎ目を通過していくときの音は次第に大きくなった。コトブキがここに来たことを知っている何者かが、そのことを他の誰かに伝えているようなそんな合図のような気がした。じきに電車の走る音は耳障りなくらいうるさくなった。


 女の声でアナウンスが流れた。


 間もなく停車致します、ドアの開閉にお気をつけください、


 電車の速度が落ちていく。微かに床が振動した気がした。やがて電車は完全に停止し圧縮ポンプの抜けるような音と一緒にコトブキの足元に風が舞い上がった。扉が開いた。


 眩しくて一瞬目がおかしくなった。コトブキが見たのは本物の車両のような気がしたし、今しがた開いた扉も本物の電車のような気がした。


 女の声で再びアナウンスが流れた。


 もうすぐ発車致します、ドアの開閉にお気をつけください、


 コトブキは中に乗った。乗客の視線が一斉にコトブキの方に集まった。乗客は十人ほどいて全員が間隔を空けて座席に坐っていて全員が女だった気がする。座席はひとつに五人坐れる程度の長椅子で、全部で四つあったかもしれない。コトブキはすぐに下を向いたので正確なところはわからなかった。そして、扉が閉まった。


 電車が加速していく音がした。車両は時々右に左に揺れた。揺れた弾みで、緊張していたコトブキは膝から崩れ落ちてしまいそうだった。車両の左側の方へ歩みより吊革に摑まると、右側の方の座席から残念そうな女の声があがった。


 気持が張り詰めて息が乱れた。車両は女ものの香水と、何かゆで卵を潰したようなそんな匂いがした。どこかで嗅いだことのある匂いだと思って、それが昔勤めていた結婚式場の三階フロアのチームと忘年会で行った三次会のフィリピンパブだということを憶い出すまでの間にも女たちからジッと見られている気がした。ひどく息苦しくて、吸っても吸っても酸素が肺に溜まらないそんな感覚があった。



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