嘘の数だけ素顔のままで

島村春穂

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第1章 去勢

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 クラスメイトは全部で十三人、汗臭いオヤジの職場から一変して男はコトブキ一人だけだった。しかも県内ニュースにもなった某老舗デパートを解雇された従業員が五、六人いた。勤続年数十年以上というから彼女たちの結束は固かった。一度口を開くと拡声器のように喋りまくるのでこのグループがすべての中心になった。


 昼飯は会議用のテーブルをふたつ並べて皆で食べる。どうせ男が自分しかいないのだからコトブキは一人で食べたかったが、女特有のおせっかいがそれを許さなかった。別に孤独が好きな訳じゃなかった。他人から見ればつまらない理由でもコトブキにすれば切実な問題があった。


 しかも元の建物がコンビニだからひどく狭いうえに、机を並べた場所がウォークインケースのせいか薄暗くてカビ臭くてジメっとしていた。


 女たちは一応に弁当を机に置くと、トイレに行くことを宣誓し、じゃあ、次はあたしねー、といった具合で賑やかになった。トイレは元々コンビニにあったのは撤去されていて、雑誌を並べる窓側と反対の場所に新設されていた。その隣には簡易的な給湯器が設置されている。


「コトブキくん、からだでかいんだから先行って」


「その言い方、って、あたしも人のこと言えないんだけどねー」


 オオハナタカコはそう言ったあと、コトブキに向かってパタパタと手を動かした。早く行って貰っていい? ということらしい。


「ちょっとお待ち」オオハナタカコは、コトブキが恐縮しながら行こうとするのを今度は呼び止めた。「んもう、だらしないなあ」


 そして、コトブキのウエストから食み出しているシャツを直してくれた。やさしー、そう女たちに茶化されたオオハナタカコだったが、どもりつつ礼を言うコトブキに再びパタパタと手を動かした。


 コトブキアキラは、年中寝ぐせをつけているような男だった。


 女たちに急かされつつ、コトブキはいつもの席に坐った。有難くないことに壁際の上座が与えられていた。


 一番先に坐らされたコトブキだったが、女たち全員が着席するまで待った。初日に抜け駆けするように食べ始め、大、大、大ヒンシュクを買った為だった。


 女たちの中には、マグカップに紅茶を淹れる者やインスタントの味噌汁をつくる者、特にたちが悪いのがスマホをいじる女で、毎回十分は待たされた。さあ、たべよ、とクラスで一番声のとおる女の合図でようやく弁当を開けることができた。


 上座から眺める女十二人は濃艶な風景だった。中世の王様気分といっていい。ただし、女どもが黙っていてくれればの話だが。


「わお、お弁当すごーい」一番声のとおる女というのがコトブキのすぐ斜め右向かいにいて、伝言ゲームのように下々まで話が伝わっていくのがデフォだった。「おかあさんがつくったんですかー?」


 すごくない? と女たちが次々に腰を浮かせてコトブキの弁当を見てきた。


「海苔巻き一個ちょうだい」


 一番声のとおる女がそう言えば、あたしもほしー、と次から次にせがまれて、プラスチック皿を用意していた女の手によって手際よく海苔巻きが下々まで配られていった。


「これは何ですかー?」と、一番声のとおる女がまた訊いてきた。


 わらびの一本漬けです、


「わらびって春じゃないの」


 コトブキから向かってすぐ左側にいるオオハナタカコがそう言った。


 冷凍だと思います、


「貰っていい?」オオハナタカコはそう言って、箸をつけた。「どうやってつくるんだろ」


 オオハナタカコが、うん、おいしー、とうなずいている間に、海苔巻きのお返しがプラスチック皿に載ってコトブキの元に運ばれてきた。そのお礼をコトブキが言い終わらないうちに次の質問が飛んだ。


「おかあさんいくつなんですかー」


 コトブキがそんなことを訊かれたのは恐らく中学以来だったかもしれない。母親の年齢を考えようとして手掛かりすらないことにすぐ気がついた。コトブキはどもった。


 すみません、よくわからないです、


「うっそー、おかあさんの歳知らないのー?」


「男ってそうよ、母親の年齢知らない人多いですよ」


「だよね、うちの旦那も知らないもん」


「そのせいで一回トラブってるし」


「わかるー、誕生日でしょ?」


「オオハナさんのおかあさんはいくつ?」


「五十三です」とオオハナタカコは言った。


 クラスメイトの中ではコトブキが最年少でオオハナタカコは一番歳が近かった。


「となると、五十ぐらいか」


「おかあさんの歳ぐらい覚えときなさい、無職なんだから」


「ウチらも無職なんですけどー」と言った女のあとで典型的なおばさん笑いが起きた。


 誰かが、親孝行しないとねえ、そう呟くと、皆申し合わせたようにしみじみと箸を口に運んだ。


「コトブキくんは何で結婚しないの?」


 しないというか、できないというか、


 コトブキがそう言った傍から声はかき消されている。女からは、あ、ごめん、なんて? と言われてしまう始末だった。


 しない訳じゃないですけど、


「いまいくつだっけ?」


「それ聞くの初めてじゃないですか」


「だっけ?」


「で、いくつ?」


 二十七です、


「まだまだ若い若い」


「だいじょうぶですよ」


「何がだいじょうぶなのよ」


 女ども二人がお互いに耳打ちをした。コトブキにはいやな予感しかない。質問されたくないことが山ほどあった。
「コトブキくんって、もしかして童貞ですかってタナカさんが聞いてまーす」


 女十二人の視線が一斉に上座の方に向けられた。それこそ『バッ!』という擬音さえ聞こえてきそうな勢いだった。


 コトブキは額まで赤くなったに違いない、と思って一気に飯をかき込んだ。女たちは箸を止めてまだこっちを見ている。コトブキ待ちであることは避けられなかった。


 違いますよ、


「ほうら、やっぱり違うじゃない」


「タナカさんが言ったんじゃないですかー」


 どこか残念そうな雰囲気が場に漂い始め、皆思い出したように箸を動かした。


 誰かが、二十七で童貞で実家住まいだったらキモくないですかー、と言ったのを聞いて、コトブキはアレで正解だったんだと胸を撫でおろした。


「彼女と別れてどのぐらいですか?」


 コトブキは返事に詰まった。記憶の中で自分の年齢と複雑な職歴を照らし合わせた。


 四年ぐらいです、


「何で別れたの?」


 コトブキはまたどもった。頭の中で架空の彼女をつくりだす時間がなかったからだ。


 自然消滅というか、


「遠距離恋愛ですか?」


 遠距離恋愛? 想定外の問いにその固有名詞が頭の中でぐるぐる回った。


 そういう訳じゃないですけど、


 気づくと、場が再び静まり返っていた。コトブキは架空の彼女を想像しようとするけれど、どういう訳か、警備保障会社にいた男のような女の顔しか思い浮かばなかった。


 職場の人ですけど、


「職場の人と付き合って自然消滅っておかしくない?」


「だよね」


 コトブキはこめかみの辺りが熱くなってきたのを感じた。次に瞼が痙攣しだすと、瞳を涙の膜が薄く覆った。この状況をもし抜け出せるのなら、あの男のような女が元カノでもいいとさえ思えた。


「アルバイトとかだったんじゃないの」


「わかった! 不倫だ」とオオハナタカコが言った。


「うっそー!」


 女十二人の顔が色めき立ち、ほとんど同時にコトブキの方に注目が向いた。


 そうなんですか? とコトブキの方こそ訊きたいくらいだった。話が支離滅裂すぎる。アウトだ。もうわからない。返事の代わりにコトブキはどもるのでせいいっぱいだった。


 女の一人が、やだー、ほんとなんですかー! と目を輝かせた。女が十二人もいれば、今の曖昧な返事をそう誤解する人がでてきても不思議ではない、そう一瞬頭の中によぎったが、いや、待てよ、何かが違うぞ、これは十二人いるうちの陰湿な役割分担ではないのか、とコトブキは思い直して狼狽した。


 コトブキのどもりはさらにひどくなってしまい思ってもいないことが口に出た。


 そうですけど、


 女の大半が悲鳴をあげた。悲鳴をあげなかったオオハナタカコは、コトブキからふいに目を逸らして、やらしー、そう一言呟いた。嘘を見透かされたのか、それとも軽蔑をされたのか、どのみち、コトブキのダメージはでかかった。


 女たちは隣り合う者同士で肩を寄せあって盛り上がりだした。目が笑っている者、急に真顔になる者、頬を真っ赤にさせる者、ひそひそ話のおおよその内容はコトブキにも察しがついた。『不倫』と『経験』という固有名詞が女たちの口から聞こえてくる度にコトブキはからだがカッと熱くなるのを感じた。


「タナカさんが不倫の経験あるってゆってまーす」


「なんでいうのよ!」


 タカナから首を絞められた女が、職場でエッチとかしましたか、ってタナカさんが聞いてまーす、そう言ってきた。


 場が恐ろしくシンとなった。


 皆がコトブキを見ている。


 コトブキは、今度ばかりはどもることさえできなかった。すると、よく声のとおるあの女が、手をマイクの形にさせてコトブキの方に向けてきた。


 うめきにも似た声でコトブキが口ごもった。


「三、二、一、はい、どうぞー」と誰かが言った。


 ありますけど、


 金属的な悲鳴がけたたましくあがった。オオハナタカコも一緒になって悲鳴をあげていた。三、二、一というカウントダウンでコトブキの思考回路はほとんど停止していた。


「どこでどこで?」


 トイレとか、夜の駐車場とか……倉庫の影とか、


 数人の女がやはり悲鳴をあげた。他の女は箸が止まったり、お互いの肩を叩きあって喜んでいる者もいた。女たちの台本どおりのラジコンにされているとコトブキは思った。


「相手の人いくつだったんですか?」


 八つ上です、


「というと、いま三十五とか?」


 まあ、そのぐらいです、


「じゃあ、ウチらと同じぐらいじゃない」


「やだん!」


 女たちの顔が赤くなったようにコトブキには見えた。


「え、待って待って」と一人の女が立ち上がった。「この中で誰が一番タイプですか?」


 すると、女たちの誰もが箸を止めた。コトブキは上座に向いた女たちの顔を何周も眺めていった。職業訓練が始まってきょうで四日目、クラスメイトの顔をちゃんと見たのはコトブキにとってこれが初めてだった。そして、一番声のとおる女に再びマイクを向けられた。


 ヒタチさんとかかな、


 静まり返っていた場の緊張が一気に弾けた。


「あたし場所変わりましょうか?」とオオハナタカコは言った。


 コトブキはひどく恐縮してしまい、オオハナタカコの目を見ずに何度も頭を下げた。そのあとでヒタチノゾミの方へ一瞥してみたが、彼女の傍にいる女たちから冷やかされているわりには嬉しくなさそうだった。


「でもヒタチさん結婚してるしねえ」


「また不倫になっちゃいますよー」


「教室でいきなり始めないでくださいねー」と誰かが言ったあと、おばさん臭い嬌声が沸き起こった。


 オオハナタカコが、コトブキくんの場合はトイレ使うんじゃないの、と言えば女たちからきょう一番の悲鳴があがった。


 コトブキは再びヒタチノゾミの方を見た。だが、ヒタチノゾミは一度だってコトブキの方を見ようとはしなかった。


「付き合ったのってその不倫の人だけですか?」


 コトブキはドキリとして目が泳いだ。


 もう一人います、


「一人だけ?」


「いま二十七だよね」


 コトブキの返事がどもる。


「二十七で二人だけってちょっとおかしくない?」そう言った女が、ねえ、と周りに同意を求めた。


 すると誰かが、一人が長かったんじゃないの、とコトブキの代わりにフォローを入れてくれた。


「コトブキくんは一途なんだよ、ね?」


「真面目そうだもんね」


「でもさあ、ありえなくない? 真面目な男が普通不倫するかあ」と先ほどの女がヒタチノゾミを見た。


ヒタチノゾミは微笑みつつも、どこか他人事のように、うん、と返事をした。


「不倫の人と別れてからずっと一人?」


「女いなくてよく我慢できるよね」


「だってほら、女の人ってしてくれるじゃない」


 コトブキは、『何でも』という言葉の響きに死にたくなった。


「ってことはさ、二人しか知らないってことですか?」


「ちょっとお、何聞いてんのよ」


 隣の女が肘でつついた。


 もし、本当に二人でもいてくれれば充分だとコトブキはそう思った。


「でもコトブキくんってアレじゃない? オナニーは毎日ぐらいでヤッてそうだよね」


「裸でヤッてたりして」


「やめてよー! いま想像しちゃったじゃないですかー」


 タナカが隣の女に何か耳打ちしている。その間ずっとコトブキの方を見ている。やだあ、と女が笑いこう言った。


「タナカさんがコトブキくんって遅漏そうだよねってゆってまーす」


「もしも電気消してエロ動画観てたらキモくないですか」


 聞き役にまわっている女数人が顔を赤らめた。ヒタチノゾミも例外ではなかった。しかし、一番顔が赤かったのは言うまでもなくコトブキ自身だった。


「あ、そうだ、職練終わったら新年会も兼ねて皆で飲み会しない?」と一番声のとおる女が言った。


「賛成!」


「やりたーい!」


「コトブキくんも飲めるでしょ?」とオオハナタカコは言った。


 女十二人から熱烈に見つめられてコトブキに断れるはずがなかった。


 いいですよ、


「じゃあ、詳しい日取りの方は後ほど!」


 コトブキには、女たちの盛り上がりが鬼の首を取った勝鬨にしか聞こえなかった。




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