凌辱カキコ

島村春穂

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凋落

三/二

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 看護師とは本当に健気なものでリスのようにちょこまかとよく動くものである。荒川看護師もご多分に洩れず、次々とベッドの端に諸々の器具が用意されていき、採血の準備が整い次第、サッとカーテンを引いた。


 室内のざわめきが遠く籠る。たった一枚のカーテンが密室を作り出してしまう。


 不安そうな蒼甫を前に、荒川看護師は口もとに微笑を湛えながら見下ろし、「すぐに終わりますからねぇ」となだめた。


「親指を中に容れて握ってください」
 二の腕の真ん中辺りをゴムのチューブできつく縛り上げられる。蒼甫がグッと眉根をきつく引き絞る。消毒液で湿らせた脱脂綿で浮き出た血管が、二、三擦られ、ひんやりと濡らされていく。


「少しチクッとしますよぉ」
 と言われた直後、脹れた血管を針が通った。蒼甫は、眉根をきつく引き絞ったまま瞼をぎゅっと閉じる。


「気分はどうですか?」
 と訊かれ、辛そうに、二、三度顎を引いて頷く。


「すぐに終わりますからねぇ」
 衣擦れが聞こえ、「大丈夫ですよぉ」と、重ねて続ける荒川看護師の看護口調が初め会った時よりもずっと優しくなった。


 瞼を閉じているうちに、周りのざわめきがずっと遠くなっていく。荒川看護師の息づかいや、サンダル、時折心地よく聞こえる衣擦れといった些細な物音のほうがよりはるかに、また鮮明に聞こえてきていた。


「気分はどうですか?」
 と再度尋ねられる。蒼甫が、薄く瞼を開けた。


 荒川看護師は、立ったままベッドの傍に居る。母性に充ちた顔つきでこちらを見ている。蒼甫は、先ほどとほとんど変わらず顎を二三引いて頷いた。その様子を見、うんうん、と荒川看護師も相づちをうつ。「もう少しで終わりますからねぇ」と、看護口調は益益慈愛に充ち溢れ優しくなっていく。


 蒼甫は安心すると、目をとろん、とさせた。


 やがて荒川看護師の目が、採血をされている蒼甫の左腕の先、ずうっと固く握ってあるままの拳に止まった。


「汗いっぱい掻いてますねぇ」
 と言いながら、その固く握ってある拳をほどくと、ベトベトの手汗を気にもせず、手の平を優しくなぞる。荒川看護師の手の平は渇いていて、しかもちょうどよい人肌であった。


「けっ、血圧高くなってから、腕を縛られるとこうなるんです……」
 蒼甫が泣き言を呟いた。荒川看護師は、重ねがさね、うんうん、と頷き、手の腹を親指でふくふくと優しく触れてくれる。


「ずっ、ずっと手を握っててもらっていいですか?」
 益益弱々しい声色は糸を引きずるように消え入りそうである。不憫に思ったのか、荒川看護師は二つ返事で快くそうしてくれた。時折、蒼甫の手の平の上で、荒川看護師の触れる指さきがこそばゆく動いた。あれほどベトベト手汗を掻いているにも拘らず、まったく嫌がる素振りがなく絡み合う。


「てっ、手を触ってもらってると落ち着きます……」
 蒼甫が呟く。荒川看護師は、「よかったですね」と言うその間も手の平を絡ませた。


「あっあの、お願いがあります……」


「なんですかあ?」
 一瞬の空白のあと、もう一度断っておいてから、「指と指のすき間を合わせてください」と、蒼甫が催促を促した。


「ん? どういうこと?」
 荒川看護師のこの態度に、蒼甫が一瞬顔を強張らせる。――が、別段蒼甫の催促を訝しがった訳ではなく、どうやら、本当にどういう風にするのかが分からないことを察して、蒼甫が頬の緊張を解いた。


「あのう、こっ、恋人つなぎのようにしてください…っ……」
 蒼甫が、よりいっそう弱々しい声音で呟いた。


「こうかしら?」
 と、最初真顔でやってみせた荒川看護師ではあったが、どうも態勢が悪いらしく、色々体の向きを変えつつ、最終的に屈むことでようやく落ち着き、この時にはちょっと照れ臭そうな口もとの笑みを隠せずにいたのだけれど、終いには、「若いひとに触ったの久しぶり」なんてことまで口にするようになる。


 お互いに絡めた指の股で手汗が粘った。なにもいまは蒼甫の手汗ばかりではなく、次第に荒川看護師の手の平も湿り気を帯びてきていたし、照れ臭いせいもあるのか、彼女の口数も色々おおくなってくる。


 例えば、今日は天気が良くてよかったですね、とか、去年とは受け入れ態勢を変えたから待ち時間が短くなった気がしません? だの、蒼甫が初めての人間ドックであることを知ると、健康に対する意識が高いんですね、と褒めてくれたり、とまあ、そんなことをだ。そして、蒼甫の手汗を気に留めながら、「大丈夫ですよぉ」と看護師口調に戻ってから、蒼甫のほうに顔を向けた。


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