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6 祖父の目覚め(2)

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 隣町にある総合病院へは、私鉄の駅一つと専用バスで十分程度。歩けない距離ではないので徒歩を選ぶ。道中、個人宅に植えられた満開のロウバイが、生け垣越しに淡く小さな黄色い花を覗かせていた。たしか甘い香りが漂うはずだが、今年はその恩恵を受けられない。
 病院のエントランスを抜け、病室のある入院病棟へと向かう。陽光が入るよう設計され、穏やかな明るさが確保されている病棟は、病院独特の静けさを漂わせていた。時折、医師や看護師、入院患者、見舞客とすれ違う。人のささやくような声と小さな機械音が聞こえてくる。
 祖父は個室に入院していた。祖父の名が掲げられた部屋の扉を軽くノックしてスライドさせる。さほど広くはないものの清潔さの保たれた白い部屋は、やはり窓からカーテン越しに差し込む柔らかな日の光に満ちていた。
「じいちゃん?」
 ベッドに横たわる祖父からは何本かのチューブやコードが伸び、周囲にある点滴やモニターなどの器具へとつながっている。眠っているらしく、返事はない。目の前の祖父は、記憶にある彼の姿よりもいくらかせて小さく見える。なんだか心もとない。
 起こしてしまわないように、そっとパイプ椅子に腰かけて病室を見回す。くん、と鼻で空気を吸い込んでみたが、やはり何の匂いも感じられない。たぶん、消毒液や見舞いの花の匂い、あるいは祖父の匂いも混ざり合って存在しているのだろうけれど、そのどれもがどんな匂いだったのか、もう思い出せない。
 匂いには、たとえば甘いや辛いみたいな固有の名称はない。いつだって何とかのような匂いと形容される。嗅いだ瞬間に感情や記憶をも揺さぶるくせに、失くしてしまえば言葉で言い表すことすらできないほど曖昧なものだ。
 何分も経たなかっただろうか、ふと祖父が目を開けた。何度かまたたく。小さくではあるが動いている祖父に安心しながら、俺は視界に入るように体を移動させた。祖父はゆっくりと僅かに顔をこちらに向ける。その口元が微かに動く。声にはならない。
「じいちゃん、充嗣だよ。具合はどうだ? ……ばあちゃんの夢、見た?」
 祖父には俺の目が緑色に見えたのだろうか。今、彼の口が呼んだのは祖母の名だ。祖父は目元を少し動かして、微笑んだ。
「無理しなくていいよ。意識が戻ってよかった」
 俺がそっと祖父の手を取ると、祖父は弱々しくだが確実ににぎり返した。温かい。幼い頃は、母とは違うこの手を大きくて頼もしいと感じていた。
「あのさ、じいちゃん。俺、今、〈喫珈琲カドー〉を開けてるよ」
 俺は祖父を気遣いながら、ゆっくりと少しだけ近況を話す。店の様子や常連客のこと。新規客も驚くほどまれながら来ていること。〈コーヒービーンズ イコール〉との一件や店主に気に入ってもらえたらしいこと。クリスマスツリーや、元日からもちだのおせち料理だのを持ち寄られた正月のこと。――ハナオのこと以外。
 祖父は何も言わない。けれど、身内だからだろうか。反応は薄かったものの、祖父が嬉しそうに耳を傾けているのはわかった。
「……あ、そうだ」
 俺がようやくハナオに持たされた魔法瓶に気を向けたのは、ひととおり話し終えた後だった。
『蓋を開けるだけでいい』
 ハナオはそう言っていた。
(そんなことをして、どうなるんだ?)
 俺は鞄を探って魔法瓶を取り出す。コーヒーはただの褐色の飲み物だ。飲んでこそ楽しめるもので、見るだけではどうということもないだろう。
「店のコーヒー、淹れてきたんだ。いや、さすがに飲めないのはわかってたんだけど、なんとなく、持って行こうかなぁって思って」
 はは、と苦笑いしながら、俺は訊かれてもいない言い訳を並べる。まさか透明人間に「持って行け」と言われたなんて、言えない。
 しかし俺はこの後、ハナオの言葉が正しかったと知ることになる。
 蓋を開けると、まだしっかりと保温されていたらしいコーヒーからは、ふわりと白い湯気が立ち昇った。
 ベッド脇にあるモニターの電子音が一瞬乱れた。
 祖父は、天井に顔を向けると小さく眉根を寄せた。口が何か言いたそうに開かれ、すぐに閉じられる。まぶたが伏せられ、次いで開かれたその目から、涙がこぼれて流れた。
 俺はただびっくりして見ていた。けれどやがて悟る。
 祖父は苦しがったんじゃない。――ある意味ではそうなのだが、体ではない、心だ。意識不明にまで陥り、死の淵から生還した祖父がとった行動の、その理由に思い至った時、俺の不安と驚きは、足元が崩れそうな驚愕きょうがくに変わる。
 原因は、コーヒーだ。正確には、湯気とともに流れ出たコーヒーの香り。
 このコーヒーは最初のブレンド。あの日ハナオが再現してみせたのは――祖父のブレンド。どんなに祖父が毎回配合していたとはいえ、二十五年も続けていればある程度好みや傾向が決まってくるだろう。このブレンドは、彼が研究し試行錯誤を重ね、最良を積み上げてできたもの。
 不定営業を掲げてはいたが、祖父は来る日も来る日もこの香りとともに生活していたはずだ。
 そして、このブレンドはそのまま〈喫珈琲カドー〉の歴史でもある――違う。祖父は若い頃から喫茶業を夢見てきた。もし祖母が死ななければ、もっと早く叶えていただろう。夫婦二人で。
(このコーヒーは、じいちゃんの人生そのもの)
 コーヒーの香りは、懐かしさとともに千々ちぢの記憶と感情を思い起こさせる。そしてそのすべてが祖父の中で声高に叫ぶ。
 小さな反応の奥に隠された祖父の激情は、俺なんかでは計り得ない。
 数分という短い時間の経過の中で冷めていく液体と同様に、香りもまた空気中に溶けて薄らいでいったようだった。孫の持参したコーヒーが巻き起こした嵐は、まるで儚く立ち消える白昼夢のように、祖父の上に穏やかな表情を残して去っていく。
 俺はただ黙ってそんな祖父の様子を見ていた。
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