6 / 42
2 嗅覚を失くす (3)
しおりを挟む
これが〈喫珈琲カドー〉に立つまでの経緯。俺は手伝いではなく〝マスター代理〟または留守番として店を開けた。その初日に、透明人間・ハナオと出会ったのは、もうご存じのはずだ。
店を開けて二日、三日と経つ中で、ぽつりぽつりと客は訪れた。それが本来のペースなのかどうかはわからない。客のほとんどは常連のようで、各々が定位置と決めた席に着き、思い思いに過ごす。一人で来て、静かに新聞や雑誌を読む客もいれば、俺との会話を楽しむ客、はたまた何人かで来てお喋りや将棋などのゲームに興じる客もいた。定番の時間帯があり、また滅多にないが混んでくれば、慣れた様子で帰り支度を始め、次の客へと席を譲る。
コーヒーは、客の来店があるたびにハナオの指示で淹れた。指示はいつだって流れるようになめらかに、動作だけを指定した。俺の動きが客から見て不自然でないようだったから、よほど的確なのだろう。
言われっぱなしの中で気づいたことがある。どうやらハナオは、毎回ブレンドを変えているようだ。
「そもそもここのマスターは、毎回ブレンドしていたんだよ。いつも一緒だったはずがないじゃない」
というのが彼の言い分。そのハナオはというとコーヒーを淹れ終わった後は、客の読んでいる新聞や雑誌を覗き見たり、客と俺の、もしくは客同士の会話に笑ったり突っ込んだりして楽しんでいる。
そんな日々を過ごす中で、俺はブレンド以外にもう一つ気づかされる。来店する客が必ずと言っていいほど口にする言葉だ。常連客ばかりだというのに、驚いたようにあるいはおもわずといった様子で、
「あぁ、いい香り」
いつだって必ず一度はそう言うのだ。以前とは違うものなのだろう。祖父がいた頃にはなかった、とは思わない。それでも同じならわざわざ口にしない。客は俺が作り出したと思っているだろうが、実はハナオが作り出していたもの。後になって考えてみれば、それはおそらく〝芳しいコーヒーの香りに包まれる空間〟。
……面白くなかった。
この時は、その言葉は理由のわからないまま礼を言わされるだけの苛立ちの対象でしかなかった。俺にとって繰り返しはじめた毎日は、客を迎え、指示に従ってコーヒーを淹れて給仕し、感じられない香りを褒められて積もる感情を押し殺す日々。ハナオに手伝ってもらうことで得られる新しい日常と居場所で――ありがたいはずのその現実の中で、俺は未だに自分の存在意義を見つけられていなかった。
店を開けて二日、三日と経つ中で、ぽつりぽつりと客は訪れた。それが本来のペースなのかどうかはわからない。客のほとんどは常連のようで、各々が定位置と決めた席に着き、思い思いに過ごす。一人で来て、静かに新聞や雑誌を読む客もいれば、俺との会話を楽しむ客、はたまた何人かで来てお喋りや将棋などのゲームに興じる客もいた。定番の時間帯があり、また滅多にないが混んでくれば、慣れた様子で帰り支度を始め、次の客へと席を譲る。
コーヒーは、客の来店があるたびにハナオの指示で淹れた。指示はいつだって流れるようになめらかに、動作だけを指定した。俺の動きが客から見て不自然でないようだったから、よほど的確なのだろう。
言われっぱなしの中で気づいたことがある。どうやらハナオは、毎回ブレンドを変えているようだ。
「そもそもここのマスターは、毎回ブレンドしていたんだよ。いつも一緒だったはずがないじゃない」
というのが彼の言い分。そのハナオはというとコーヒーを淹れ終わった後は、客の読んでいる新聞や雑誌を覗き見たり、客と俺の、もしくは客同士の会話に笑ったり突っ込んだりして楽しんでいる。
そんな日々を過ごす中で、俺はブレンド以外にもう一つ気づかされる。来店する客が必ずと言っていいほど口にする言葉だ。常連客ばかりだというのに、驚いたようにあるいはおもわずといった様子で、
「あぁ、いい香り」
いつだって必ず一度はそう言うのだ。以前とは違うものなのだろう。祖父がいた頃にはなかった、とは思わない。それでも同じならわざわざ口にしない。客は俺が作り出したと思っているだろうが、実はハナオが作り出していたもの。後になって考えてみれば、それはおそらく〝芳しいコーヒーの香りに包まれる空間〟。
……面白くなかった。
この時は、その言葉は理由のわからないまま礼を言わされるだけの苛立ちの対象でしかなかった。俺にとって繰り返しはじめた毎日は、客を迎え、指示に従ってコーヒーを淹れて給仕し、感じられない香りを褒められて積もる感情を押し殺す日々。ハナオに手伝ってもらうことで得られる新しい日常と居場所で――ありがたいはずのその現実の中で、俺は未だに自分の存在意義を見つけられていなかった。
0
お気に入りに追加
2
あなたにおすすめの小説
婚約者の浮気相手が子を授かったので
澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ファンヌはリヴァス王国王太子クラウスの婚約者である。
ある日、クラウスが想いを寄せている女性――アデラが子を授かったと言う。
アデラと一緒になりたいクラウスは、ファンヌに婚約解消を迫る。
ファンヌはそれを受け入れ、さっさと手続きを済ませてしまった。
自由になった彼女は学校へと戻り、大好きな薬草や茶葉の『研究』に没頭する予定だった。
しかし、師であるエルランドが学校を辞めて自国へ戻ると言い出す。
彼は自然豊かな国ベロテニア王国の出身であった。
ベロテニア王国は、薬草や茶葉の生育に力を入れているし、何よりも獣人の血を引く者も数多くいるという魅力的な国である。
まだまだエルランドと共に茶葉や薬草の『研究』を続けたいファンヌは、エルランドと共にベロテニア王国へと向かうのだが――。
※表紙イラストはタイトルから「お絵描きばりぐっどくん」に作成してもらいました。
※完結しました
五年目の浮気、七年目の破局。その後のわたし。
あとさん♪
恋愛
大恋愛での結婚後、まるまる七年経った某日。
夫は愛人を連れて帰宅した。(その愛人は妊娠中)
笑顔で愛人をわたしに紹介する夫。
え。この人、こんな人だったの(愕然)
やだやだ、気持ち悪い。離婚一択!
※全15話。完結保証。
※『愚かな夫とそれを見限る妻』というコンセプトで書いた第四弾。
今回の夫婦は子無し。騎士爵(ほぼ平民)。
第一弾『妻の死を人伝てに聞きました。』
第二弾『そういうとこだぞ』
第三弾『妻の死で思い知らされました。』
それぞれ因果関係のない独立したお話です。合わせてお楽しみくださると一興かと。
※この話は小説家になろうにも投稿しています。
※2024.03.28 15話冒頭部分を加筆修正しました。
運命の番?棄てたのは貴方です
ひよこ1号
恋愛
竜人族の侯爵令嬢エデュラには愛する番が居た。二人は幼い頃に出会い、婚約していたが、番である第一王子エリンギルは、新たに番と名乗り出たリリアーデと婚約する。邪魔になったエデュラとの婚約を解消し、番を引き裂いた大罪人として追放するが……。一方で幼い頃に出会った侯爵令嬢を忘れられない帝国の皇子は、男爵令息と身分を偽り竜人国へと留学していた。
番との運命の出会いと別離の物語。番でない人々の貫く愛。
※自己設定満載ですので気を付けてください。
※性描写はないですが、一線を越える個所もあります
※多少の残酷表現あります。
以上2点からセルフレイティング
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
私が愛する王子様は、幼馴染を側妃に迎えるそうです
こことっと
恋愛
それは奇跡のような告白でした。
まさか王子様が、社交会から逃げ出した私を探しだし妃に選んでくれたのです。
幸せな結婚生活を迎え3年、私は幸せなのに不安から逃れられずにいました。
「子供が欲しいの」
「ごめんね。 もう少しだけ待って。 今は仕事が凄く楽しいんだ」
それから間もなく……彼は、彼の幼馴染を側妃に迎えると告げたのです。
愛を知ってしまった君は
梅雨の人
恋愛
愛妻家で有名な夫ノアが、夫婦の寝室で妻の親友カミラと交わっているのを目の当たりにした妻ルビー。
実家に戻ったルビーはノアに離縁を迫る。
離縁をどうにか回避したいノアは、ある誓約書にサインすることに。
妻を誰よりも愛している夫ノアと愛を教えてほしいという妻ルビー。
二人の行きつく先はーーーー。
【完結】真実の愛とやらに目覚めてしまった王太子のその後
綾森れん
恋愛
レオノーラ・ドゥランテ侯爵令嬢は夜会にて婚約者の王太子から、
「真実の愛に目覚めた」
と衝撃の告白をされる。
王太子の愛のお相手は男爵令嬢パミーナ。
婚約は破棄され、レオノーラは王太子の弟である公爵との婚約が決まる。
一方、今まで男爵令嬢としての教育しか受けていなかったパミーナには急遽、王妃教育がほどこされるが全く進まない。
文句ばかり言うわがままなパミーナに、王宮の人々は愛想を尽かす。
そんな中「真実の愛」で結ばれた王太子だけが愛する妃パミーナの面倒を見るが、それは不幸の始まりだった。
周囲の忠告を聞かず「真実の愛」とやらを貫いた王太子の末路とは?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる