上 下
5 / 42

2 嗅覚を失くす (2)

しおりを挟む
 鼻から空気を吸うことでさまざまな香りや匂いを感じる感覚を、嗅覚という。視覚や聴覚、触覚などの人間の五感の一つだ。古くから多くの研究がおこなわれ、そのメカニズムを解き明かそうとされてきた反面、他の感覚よりも一段下に見られていたせいもあり、未だに謎の多い感覚器官ともいわれる。
 体内に入った香りや匂いを最初にキャッチするのは、鼻の奥にある受容体だ。そこから情報の信号として脳へと送られる。信号は脳の知覚を司る部分のほかに、情動、認知、記憶に関わる部分へも届く。
 嗅覚の働きは何か? まずは鼻から入ってきた匂いを認識すること。これは誰もが答えるだろう。花の香りや雨の匂い、あるいは食卓を彩る料理のかぐわしさ。それらは主人を楽しませ、愉快な気分にさせる。
 喜びを与えてくれるのは、鼻から入ってくる匂いだけではない。口の中から鼻の奥へと流れ込むものもある。それは味わいや風味と呼ばれる。
 味は、舌が感じていると思うだろうか?
 実際に舌が感じるのは、塩味、甘味、苦味、酸味、そしてうま味だけだ。口に含んだものを、これはステーキだ、これは寿司、これはコーヒー、と判断できるのは嗅覚のおかげである。
 一方で、危険をキャッチすることも重要な役割だ。たとえば火災やガスれ、食べ物が腐っているかなども匂いでいち早く気づき、回避する。この場所が安全か否かも判断できる。大げさなものでなくても、不愉快な匂いは不快感や不安をかき立てるだろう。
 これは人間関係でも同じ。家族や恋人など親しい人々のそばにいれば安心するし、知らない人間を目の前にすれば信用できるかどうかをうかがう。逆に敵とみなした人物を前にすればおのずと警戒心が生まれる。普段明確に感じなくても、嗅覚は敏感に個々の匂いを感じとっている。
 そして匂いは、そういった認知や感情のほかに、記憶にも大きな影響力を持つ。ある匂いをいだ瞬間、忘れていたことを思い出したという経験はないだろうか。たとえば、海の潮の香りを嗅いだ瞬間に、幼い頃に家族で出かけた海水浴の思い出がよみがえったり、雪の日のバスの排気ガスの匂いで、学生時代の受験当日の緊張と暗記した英単語をいくつか思い出したり。
 これらすべてが嗅覚の仕業だ。気づかれないうちに何万もの匂いを処理する嗅覚は、毎日を色なき色で染めあげ、カラフルな日常を主人に提供している。
 では、その嗅覚が、ある日突然その仕事のすべてを放棄したら?
 空気はただ酸素を含んだ無臭の存在。食事は何の味も楽しみもない。常に隣り合う気づくことのできない危険。今まで感じていた人や場所、物事への愛着は、まるでかすみの向こうにあるように輪郭りんかくをぼやけさせる。それは、ありとあらゆる魅力と安全をとり除いたモノクロームの世界に、身ぐるみがされて放り込まれたも同然。
 嗅覚を失くすとは、そういうことだった。


 俺がまるで転がり落ちるようにすべてを失うのに、そう時間はかからなかった。
 食べ物はほとんど味のしない代物へと変化していた。口に入れて咀嚼そしゃくすれば、ハンバーグとダンボールの違いもわからないような状態。料理の風味がわからないことは食に関する仕事に少なからず影響したし、仕事の不調はそのまま私生活も巻き込んだ。結果として会社を辞め、あらゆる人間関係を絶って自宅にこもるようになる。何もしたくなかったし、やる気もおこらない。何とかしなければ。そう思う頃には、何をどうすればいいのかすらわからなかった。
 母は二、三の助言をした後、ただ見守ってくれた。かすでもなく甘やかすでもなく。母は気丈な人で、若くして結婚と離婚を経験して以来、ずっと仕事と子育てを両立してきた。生来の楽天的な性格とあっけらかんとした態度は自信にあふれているように見えたし、周囲の不安を吹き飛ばすほどのパワーを持っていた。長らく母は、生活する上で一切実家を頼ろうとしなかった。だが夏が終わり秋も中盤に差しかかる頃、とうとう息子のことを実家に相談する。祖父に頼る母の姿を俺は初めて見た。
 祖父は、俺が彼の営む〈喫珈琲カドー〉を手伝うことを提案した。そもそも繁盛とは縁遠い、気ままな喫茶店だ。そこでの給仕なら匂いも風味も関係ない。それに常に自分がそばにいるから、孫が危険に気づかないような事態も避けられる、と。
『少しずつ外の世界に慣れていけばいい。新しい道だってやがて見つかるだろう』
 祖父はそう言ったそうだ。俺は、母と祖父の提案にのった。
 ところが、いざ手伝いに入る直前になって、今度は祖父が倒れた。店内で営業中に倒れたこともあって発見が早かったのは不幸中の幸いだろう。一命は取りとめたものの、意識不明のまま。
『充嗣。じいちゃんの喫茶店だけど』
 病院へ駆けつけ、あらゆる説明と準備をこなして自宅へ戻ってきた母は言った。
『……開けなさい』
 耳を疑った。
『母さん? 何言ってるんだ、そんな状況じゃないだろ』
『いいから。一度決めたことでしょ』
 母は理由を言わず、ただ有無を言わせない口調で俺を説き伏せた。俺が頷いた後に、母は少しだけ微笑んだ。その奥にどんな思いが隠されていたのかはわからない。けれど、その選択は理解できる気がした。母にだって俺と祖父の二人を抱え込む余裕はない。俺を後戻りさせるわけにはいかなかった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

An endless & sweet dream 醒めない夢 2024年5月見直し完了 5/19

設樂理沙
ライト文芸
息をするように嘘をつき・・って言葉があるけれど 息をするように浮気を繰り返す夫を持つ果歩。 そしてそんな夫なのに、なかなか見限ることが出来ず  グルグル苦しむ妻。 いつか果歩の望むような理想の家庭を作ることが できるでしょうか?! ------------------------------------- 加筆修正版として再up 2022年7月7日より不定期更新していきます。

エスポワールで会いましょう

茉莉花 香乃
BL
迷子癖がある主人公が、入学式の日に早速迷子になってしまった。それを助けてくれたのは背が高いイケメンさんだった。一目惚れしてしまったけれど、噂ではその人には好きな人がいるらしい。 じれじれ ハッピーエンド 1ページの文字数少ないです 初投稿作品になります 2015年に他サイトにて公開しています

【完結】真実の愛とやらに目覚めてしまった王太子のその後

綾森れん
恋愛
レオノーラ・ドゥランテ侯爵令嬢は夜会にて婚約者の王太子から、 「真実の愛に目覚めた」 と衝撃の告白をされる。 王太子の愛のお相手は男爵令嬢パミーナ。 婚約は破棄され、レオノーラは王太子の弟である公爵との婚約が決まる。 一方、今まで男爵令嬢としての教育しか受けていなかったパミーナには急遽、王妃教育がほどこされるが全く進まない。 文句ばかり言うわがままなパミーナに、王宮の人々は愛想を尽かす。 そんな中「真実の愛」で結ばれた王太子だけが愛する妃パミーナの面倒を見るが、それは不幸の始まりだった。 周囲の忠告を聞かず「真実の愛」とやらを貫いた王太子の末路とは?

前回は断頭台で首を落とされましたが、今回はお父様と協力して貴方達を断頭台に招待します。

夢見 歩
ファンタジー
長年、義母と義弟に虐げられた末に無実の罪で断頭台に立たされたステラ。 陛下は父親に「同じ子を持つ親としての最後の温情だ」と断頭台の刃を落とす合図を出すように命令を下した。 「お父様!助けてください! 私は決してネヴィルの名に恥じるような事はしておりません! お父様ッ!!!!!」 ステラが断頭台の上でいくら泣き叫び、手を必死で伸ばしながら助けを求めても父親がステラを見ることは無かった。 ステラは断頭台の窪みに首を押さえつけられ、ステラの父親の上げた手が勢いよく振り下ろされると同時に頭上から鋭い刃によって首がはねられた。 しかし死んだはずのステラが目を開けると十歳まで時間が巻き戻っていて…? 娘と父親による人生のやり直しという名の復讐劇が今ここに始まる。 ┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈ 全力で執筆中です!お気に入り登録して頂けるとやる気に繋がりますのでぜひよろしくお願いします( * ॑꒳ ॑*)

カメラとわたしと自衛官〜不憫なんて言わせない!カメラ女子と自衛官の馴れ初め話〜

ユーリ(佐伯瑠璃)
ライト文芸
「かっこいい……あのボディ。かわいい……そのお尻」ため息を漏らすその視線の先に何がある? たまたま居合わせたイベント会場で空を仰ぐと、白い煙がお花を描いた。見上げた全員が歓声をあげる。それが自衛隊のイベントとは知らず、気づくとサイン会に巻き込まれて並んでいた。  ひょんな事がきっかけで、カメラにはまる女の子がファインダー越しに見つけた世界。なぜかいつもそこに貴方がいた。恋愛に鈍感でも被写体には敏感です。恋愛よりもカメラが大事! そんか彼女を気長に粘り強く自分のテリトリーに引き込みたい陸上自衛隊員との恋のお話? ※小説家になろう、カクヨムにも公開しています。 ※もちろん、フィクションです。

獣人のよろずやさん

京衛武百十
ファンタジー
外宇宙惑星探査チーム<コーネリアス>の隊員六十名は、探査のために訪れたN8455星団において、空間や電磁波や重力までもが異常な宙域に突入してしまい探査船が故障、ある惑星に不時着してしまう。 その惑星は非常に地球に似た、即移住可能な素晴らしい惑星だったが、探査船は航行不能。通信もできないという状態で、サバイバル生活を余儀なくされてしまった。 幸い、探査船の生命維持機能は無事だったために隊員達はそれほど苦労なく生き延びることができていた。 <あれ>が現れるまでは。 それに成す術なく隊員達は呑み込まれていく。 しかし――――― 外宇宙惑星探査チーム<コーネリアス>の隊員だった相堂幸正、久利生遥偉、ビアンカ・ラッセの三人は、なぜか意識を取り戻すこととなった。 しかも、透明な体を持って。 さらに三人がいたのは、<獣人>とも呼ぶべき、人間に近いシルエットを持ちながら獣の姿と能力を持つ種族が跋扈する世界なのであった。     筆者注。 こちらに搭乗する<ビアンカ・ラッセ>は、「未開の惑星に不時着したけど帰れそうにないので人外ハーレムを目指してみます(Ver.02)」に登場する<ビアンカ>よりもずっと<軍人としての姿>が表に出ている、オリジナルの彼女に近いタイプです。一方、あちらは、輪をかけて特殊な状況のため、<軍人としてのビアンカ・ラッセ>の部分が剥がれ落ちてしまった、<素のビアンカ・ラッセ>が表に出ています。 どちらも<ビアンカ・ラッセ>でありつつ、大きくルート分岐したことで、ほとんど別人のように変化してしまっているのです。

未亡人となった側妃は、故郷に戻ることにした

星ふくろう
恋愛
 カトリーナは帝国と王国の同盟により、先代国王の側室として王国にやって来た。  帝国皇女は正式な結婚式を挙げる前に夫を失ってしまう。  その後、義理の息子になる第二王子の正妃として命じられたが、王子は彼女を嫌い浮気相手を溺愛する。  数度の恥知らずな婚約破棄を言い渡された時、カトリーナは帝国に戻ろうと決めたのだった。    他の投稿サイトでも掲載しています。

『恋しくて! - I miss you. 』

設樂理沙
ライト文芸
信頼していた夫が不倫、妻は苦しみながらも再構築の道を探るが・・。 ❧イラストはAI生成画像自作 メモ--2022.11.23~24---☑済み

処理中です...