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2 嗅覚を失くす (1)

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 たとえば春先の朝。まだまだ寒さを残す空気は、それでももう冬の張りつめた雰囲気を緩ませている。窓を開けて深呼吸する。どこからか早々にほころびはじめた花の香りが運ばれる――梅だろうか。ひと震えして、さっきまでもぐり込んでいた布団を横目で見る。その鼻先を出来立てのみそ汁と玉子焼きの匂いがかすめた。母が朝食を準備する音が聞こえ、胃袋が空腹を訴えだす。
 身支度を整えていると、ワイシャツから柔軟剤の香りがふわりと立ち上がる。家を出て駅へと向かう。どことなく青っぽい匂いに春の気配を感じる。毎日利用する満員電車に揺られる。誰かから漂うシャンプーと化粧品の香り、体臭や汗、それぞれの家固有の匂いが混ざり合い、朝の車内特有の空気を作る。
 会社に着けば、パソコンやコピー機の温められたプラスチックの匂いと、見知った社員たちの匂いに包まれる。顔なじみの親しさを感じて気合が入る。社外へ出て得意先を回る。先方の職種によってさまざまな匂いに出合う。いつものカフェで休憩。コーヒーの香りが口の中を満たし、ほっとひと息つく。
 残業続きの日々の中で珍しく早めの帰路につくと、漂ってきた煮物の匂いに、ふと幼い頃を思い出す。友達と別れた後に感じた淋しさとまだ残る高揚感。遊び足りないもどかしさと、あえて考えないようにしていた宿題への罪悪感。
 数え上げれば、何の変哲もない日常の中にも無数に見つけることのできる匂いを、意識している人はどれだけいるだろう。当たり前のように繰り返す呼吸や数えなくても打ち続ける鼓動のように、匂いもまた気づかないうちに鼻腔びこうを通り、脳へと到達する。


 俺もかつてはそんな〝当たり前〟を無意識に繰り返す一人だった。大学を卒業し、中堅クラスの食関連会社に就職。営業職に就いて三年、忙しくも充実した毎日をこなしていた。取引先には飲食の会社や店も多く、日中のアポや接待はもちろん、仕事終わりに訪ね、身銭を切って飲食の提供を受けることもある。そんな地道なコンタクトが徐々に親しさと信用を築きあげていく。
『角尾さん、今度こんなイベントするんだけど、来てもらえるかな』
『新メニューの試作なんです、味見してみてもらえませんか? 角尾さんの舌に適えば安心ですよ』
 そう言って頼られることも多くなる。そしてビジネス上のやり取りも。決して大企業ではない会社のノルマは優しいものではなかったけれど、年月とともに緩やかな右肩上がりをキープしていた。
 大きな変転は、小さなつまずきから始まる。
 忙しない年末年始を乗り切り、張りつめていた気持ちが少し緩みだした頃に風邪を引いた。鼻水とせき、熱。いわゆる風邪の諸症状を、マスクと風邪薬でやり過ごす。昔から丈夫な方で、結局一日だけ病欠をとって業務に復帰。そんな些細な出来事が営業トークの笑い話に変わるくらいになってから、ようやく俺は気がついた。
 匂いがしない。
 鼻づまりが原因で一時的に鼻がきかなくなる――嗅覚きゅうかくが機能しなくなったという経験は誰にでもあるだろう。俺もそうだったし、そうだと思っていた。
 すみません、今、鼻がつまっているんですよ。
 何度かそんな言い訳をした。ふと我に返ってみれば、鼻は快適に通っていた。ずいぶん前から。
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