下賜される王子

シオ

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◆ 第二章 異邦への旅路

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 温かい湯の中に身を浸し、大きな溜息が口から出て行った。黒珠宮の私の部屋の隣に設けられた湯殿には、常に湯を湛える湯舟がある。詳しい仕組みはよく分からないのだが、吐水口を開けば、湯殿の隣屋からいつでも湯が出てくるのだ。

「……やっぱり、黒珠宮の風呂が一番だな」

 旅の中で何度も湯には浸かっていた。湯殿が無い場所では、大きな桶のような形をした風呂に湯を張ってもらいそこで身を清めていたのだ。いつだって温度は私好みで、快適だった。それでもやはり、黒珠宮の風呂に勝るものは無いのだ。

「宮様にそのように仰って頂けまして、幸甚で御座います」

 裾をたくしあげ、湯殿の中に佇む淡月が静かに答えた。ずっと私に仕えてくれる侍従長を眺める。私は旅行から帰って来て疲れを癒すことが出来るが、淡月は休むことなく私の世話をしてくれていた。

「淡月は、疲れていないか?」
「はい、問題ありません」
「すごいな、淡月は。体力がやはり私などとは違う」

 私からの称賛を、微笑みをもって受け止めた淡月。淡月だけではない。私に仕えてくれる多くの侍従と近衛の全員を、私は尊敬していた。私なんて、ただ旅行で楽しんでいただけなのに、こんなにも疲れ果ててしまっている。

「……気持ち良いな」

 温かい湯に包まれて、少しずつ瞼が重たくなってきた。湯舟の縁に頭を乗せて、少しばかりうとうとする。快感だった。体は睡眠を欲しているようで、深い微睡の中に落ちていけそうだ。

「湯船の中で寝ては、危ないですよ」
「……あぁ、……分かってる」
「宮様」

 声で返事はするものの、なかなか目を開けない私に、淡月が声を掛ける。少しばかり強い口調で私を呼ぶ。このまま寝てしまったとしても、きっと淡月は私が溺れないように助けてくれるのだろうが、寝ては駄目だと注意をしてきた。

「淡月は心配性だなぁ、寝てないよ」

 本当は少しばかり寝ていた。それを誤魔化すように笑って、縁に両手を置く。その手の上に頬をつけて、笑いながら淡月を見る。瞬間、淡月が息をのんだように見えた。表情の変化に乏しい淡月が、珍しく驚いたような顔をしたのだ。

「どうした?」
「……いえ、申し訳ありません」
「なんだ。気になる。言ってくれ」

 尋ねても、淡月は隠すように謝罪を述べて小さく頭を下げた。けれど私はそれを許さない。さらに問い詰めて、硬く閉ざされた淡月の口を割ったのだ。戸惑いを顔に浮かべながら、淡月はおずおずと口を開く。

「宮様が、とても……生き生きと微笑まれていて……、とても、嬉しくなってしまい」

 私が笑って、それに驚いて、そして嬉しくなった。つまりは、そういうことだった。淡月の言いたいことはよく分かる。私自身、その自覚があるのだ。だからこそ、また笑えてしまった。

「齢十八にして、新たに生まれた気分なんだ。毎日がとても楽しい。……姫宮の務めが苦しくとも、それでも日々は美しく、優しくて、温かい」

 全てを諦めて、厭世的に生きていた過去の自分に伝えてやりたいとすら思う。考えているほど、未来は暗くはないのだと。姫宮の務めは決して楽ではないが、その苦しみを補って溢れるほどの幸福が、お前の未来にはあるのだと。

「……よう、ございました」

 淡月の声は、震えていた。私以上に、私のことで心を苦しめてきたのが淡月なのかもしれない。幼いころから私に仕え、私が理解するよりも前に姫宮の務めを把握していた。いずれ姫宮になる私に仕えた淡月の心は、推しはかるまでもなく、苦難に満ちていたと思う。

 ありがとう、と淡月に伝えた。すると淡月は微笑みながら、首を左右に振る。淡月がずっとそばにいてくれたから、生きてこられたのだ。親よりも、兄弟よりも、夫よりも長い時間を共にしている淡月を、心の底から愛おしく思った。

 たっぷりと黒珠宮の湯を味わってから、風呂を出る。全身を拭かれ、髪がしっかりと乾くころには眠気が消えた。まだ陽は高く、就寝するような時間ではない。淡月が軽い食事を用意してくれたので、それらで腹ごしらえをした。

「清玖が戻ってくるのは、夜かな」
「おそらくは」

 旅行の間はずっと一緒だった。片時も離れず、いつだって手を伸ばせば抱きしめてくれる腕があった。それなのに、今は離れ離れだ。だが、これが日常だった。清玖には清玖の務めがあり、私には私の務めがある。二人きりになれるのは、いつだって夜ばかりだった。

「少し歩く」
「御心のままに」

 無聊を慰める目的もあり、また腹ごなしも兼ねて、私は散歩をすることにした。私室を出て、廊下を進む。私の足は、自然と内苑へ向かっていた。美しい池は、いつだって美しいままだ。四季折々の花が、楚々と池を飾っている。

「放蕩息子が帰ってきた」

 そんな揶揄する声が私に向いているとは思わなかった。だが、その声には聞き覚えがあり、声がした方向を見れば見慣れた姿がある。月の人、と称された先代の姫宮。父の弟であり、私の叔父である朝水様だった。

「放蕩なんてしていません」

 酷い悪口だと憤慨する私を見て、叔父上は呵々と笑っていた。普段は離宮にいる叔父上が、数人の侍従を従えて黒珠宮に来ている。

「叔父上、黒珠宮にいらっしゃるなんて珍しいですね。何か御用でも?」
「薄情だな、吉乃。お前が帰ってきたと聞いたから、わざわざ離宮からこちらに来てやったんだ」
「それはわざわざ、ありがとうございます」
「いやなに、土産を受け取らなければならんからな」
「え? ……あっ」

 しまった。そう思った瞬間に、全身の血の気が引いていく。袖で口元を隠し、叔父上の視線から逃れようとする私に、ずんずんと近づいてきた叔父上が対峙する。

「おい、吉乃。あ、とは何だ。あ、とは」
「えっと……その」
「まさか。いや、まさかな。この大恩ある叔父に土産を買ってこなかったとでも言うわけではないだろうな」
「それは……、あの」

 すっかり忘れていた。兄弟たちに贈る土産選びで精一杯だったのだ。叔父のことまで、頭が回っていなかった。だが、他の叔父上たちとは異なり、朝水叔父上には確かに恩義を感じている。買ってくるべきであった。

「この叔父上に土産を忘れるなど、何という無礼!」
「申し訳ありません」

 叔父上は、信じられない、と憤り持っていた扇子で私をつついた。なんてやつだ、とつつかれると体よりも心が痛む。私は頭を下げることしか出来なかった。

「……まぁ良い。土産話でも聞かせろ」

 怒りを収めてくれた叔父上が、私を東屋へ誘う。池の畔を歩いて、池の中央に建てられた東屋へ伸びる一本の道を並んで歩いた。私たちの背後には、侍従が続いている。東屋の中で、椅子に腰かけて私と叔父上は向かい合った。

 旅行での話を色々と語って聞かせたが、一番叔父上の反応が大きかったのはユーリの話だった。ユーリの願いを聞き入れて、清玖と愛し合っている場に置いたという話だ。それを聞き終えた叔父上は、大声を出して笑い始める。静謐な場に、叔父上の笑い声が高く響いた。

「……叔父上、笑いすぎです」
「いや、お前が私を、ひっ、笑わせているんだろうが、ははっ」

 目に涙を浮かべて、腹を抱えながら叔父上は笑っている。体が震えていた。いくらなんでも笑い過ぎた。私たちが随分と滑稽なことをしたのは事実だが、そこまで笑わなくても良いではないか。

「そのユーリイという男、私を退屈させない逸材だな。私が姫宮を務めていた時には、そんな天才的な変態はいなかった」
「……それは良かったですね」
「いや、だが天才的ではない変態は多くいたぞ。今思い出しても気味が悪い連中ばかりだった。今後、その男が天瀬へ来ることがあったら、私も会ってみたいものだ」

 私と叔父上。お互いに、厄介な男を相手にした過去があるようだった。私の中で、一番気味が悪いといえば、間違いなく富寧だろう。尿を飲みたがるという異常な性癖は、今思い出しても吐き気がする。きっと叔父上も、そんな経験が過去にあるのだ。

「こんなに笑ったのは久々だな」

 ふと、思った。ユーリなら、叔父上を毎日笑わせることが出来るだろうか。氷のように冷たく微笑むこの叔父を、涙を流しながら笑うようにしてくれるだろうか。叔父上の心は、いつだって先代の国王陛下にあるのだし、もしかして叔父上はユーリにとって最適の相手なのではないだろうか。

 私はぴんと来てしまい、少しばかり興奮していた。叔父上も、ユーリが愉快で面白いと言うし、ユーリは自分にとって最良の人を探しているし。いつかユーリと叔父上を出会わせてみたいな、とこっそり考える。

「叔父上は、ご息災でしたか」
「ああ、変わらない。穏やかで、退屈な毎日だ」

 私の話を終えて、今度は叔父上の様子を伺った。目の前の机に雪崩れ込み、上体だけ寝そべるような姿勢になって、叔父上は私を見る。気ままな猫のようだ。

「隠居したら好きなだけ本を読もうと思ったのだが、悲しいことに一日中、書物に向かうだけの体力がなくなってしまった。本の虫が出来ている黎泉は、やはり若いな」

 叔父上は、私より少し上に見えるような外見だが、それでも実際の年齢紫蘭兄上よりも随分年上なのだ。いつまでも美しくあるという姫宮の天稟がそうさせているのだろう。若く見えても、迫りくる老いからは逃げられないようで、叔父上はそんな弱音を吐いた。

「兄上や弟たちもどんどん老いていく。……誰も私と遊んでくれないんだ」

 朝水叔父上とは違い、実年齢相応に老けていく他の叔父たち。離宮に移ったからと言って、兄弟たちで和気藹々と楽しく遊んで暮らせるわけではないようだ。年老いて、体力がなくなっていくというのは悲しいことだった。

「私も兄上と旅行に行きたかったなぁ」

 小さな呟きだった。誰に聞かせるためでもなく、叔父上の口から零れ落ちただけの言葉たち。国王として生きた父と、姫宮として生きた叔父上が揃って旅行に行くことなど、不可能だったのだろう。さらに今となっては、父は世を去った。旅行など、行けるわけもない。私は胸が苦しくなる。

「私と行きましょう」
「なに?」
「旅行ですよ。叔父上が望まれるのなら、ご一緒いたします」

 旅行に行きたいというのなら、私がお供する。だから、そんな悲しい顔で笑わないで欲しい。そう思ったのだ。一瞬叔父は驚いた顔をして、そしてすぐに悪童のような笑みを浮かべた。

「嫌だね」

 簡単な拒否の言葉。私の想いは、たった四音の台詞で拒まれる。叔父上は状態を起こして背筋を正し、真っすぐに私を見た。

「私は兄上と行きたいんだ。そして、旅の最中、何度も何度も愛し合う。……お前だって、そうだったんだろう?」
「それは……、まぁ、……新婚旅行ですから」
「憎らしい奴め。あーあ、いいなぁ……、心から愛する者との旅行か。楽しかっただろう」
「……はい、楽しかったです」
「そうか。それは、良かった。……おかえり、吉乃」

 叔父上は、優しいおもてで微笑んだ。叔父と甥が親しくするなんて、天瀬では滅多にないことだ。それでも、私は叔父上から向けられる慈愛を感じていた。嬉しくなる。私も微笑みながら返す。

「ただいま戻りました、叔父上」


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