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◆ 第二章 異邦への旅路
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朝餉を食べている時から、私はそわそわと落ち着かなかった。食べ慣れたものを、使い慣れた器で出されているのに、何もかもが目新しく見えて気持ちが高揚するのだ。その高鳴りは、己の身が天瀬を出て、オルドローズにいるということの実感が湧いている証だった。
食事を済ませ、身支度を整えてもらい、邪魔な髪を結ってもらった。侍女頭である朱華はこの旅に随行していない。髪を結うのは朱華の務めではあるが、彼女が不在の今、私の髪は淡月が結ってくれていた。
「淡月」
「はい、何でしょう。宮様」
呼べば、すぐに返事が返ってくる。椅子に腰かけた私の背後に立って、丁寧に櫛で髪を梳く淡月。その手つきがとても優しくて、たっぷり寝たというのに私は眠気を感じるほどだった。高い位置でひとつに結われ、ひとつの束のようになった髪が背中に流れている。
「今日は、兄上や弟たちへの土産を買おうと思っているんだが、私はお金のことがよく分からない。有り金以上のものを買おうとしていたら、止めてもらえないか」
「畏まりました。ですが、後からの支払いということも可能ですので、あまり金額は気になさらず、お好きなように買い物を楽しんで頂ければと思います」
「……そうか」
旅の序盤で、月琴を爪弾く楽師に出会った。その者は演奏によって日銭を稼ぐ楽師で、私は素晴らしい音楽の対価に金貨を渡したのだ。お金というものに触れたのは、あれが初めてだった。
私の生活の中で貨幣の姿を見ることは無いが、私が生きるために多くのお金が費やされているのだと思う。食事に、衣類、侍従や近衛たちへの給金。それらを賄うのは、民から集めた税なのだろう。
贅を尽くした生活をしているとは思わないが、天瀬国内を歩き回って、私の生活が高水準であることを悟った。天瀬王家の威厳を保つためなのかもしれないが、過ぎるほどに豊かな日々を送っている。
お金というのは、強い力を持っている。お金があれば軍を動かすことが出来て、琳の富寧のような横暴な振舞いも為せてしまう。お金が必要だからと、鳳水には身を売る者たちが大勢いる。お金の力などというものを、今までに考えたこともなかった。この旅で学んだことがひとつ増えたように思う。
淡月は、好きなように買えば良いという。けれど私はそれが怖かった。贅沢がしたいわけではない。無駄な浪費を抑えたい。上手く言葉に出来ないそんな思いを感じ取ってくれたのか、淡月が優しく言葉を続ける。
「要すれば、僭越ながら助言をさせて頂きます」
「ありがとう、淡月」
「宮様の御心のままに」
御心のままに。侍従や、近衛たちが私たち王族へ向ける言葉。多くの者から、一日に何度も耳にする言葉だけれど、淡月が発するその声が一番耳に温かく響くのだ。淡月のこの言葉を私もう十年以上も聞き続けている。
「吉乃、ユーリイ殿下が到着したようだ」
「分かった」
扉を開けて入ってきた清玖は、腰に剣を差しており武官らしい出で立ちだった。この旅の中で帯剣していたことは殆どなかったように思うけれど、一応ここは異国で、安全を考えて剣を佩くのだと言った。
椅子から立ち上がり、清玖のもとへ歩く。私も今日は、略装ではなく、天瀬の王族らしい威厳を放つ格好をしていた。黒の長衣と、黒の帯。全身真っ黒だが、細かく刺繍が施されており、美しい衣装だった。
清玖から差し出された手を握り、歩き出す。大きくて、節くれたった彼の手が私の手を包み込む。こうして手を繋いで歩いているだけで、とても幸福な気持ちになれた。離宮の入り口に馬車を寄せて、ユーリが私たちを待ち受ける。豪奢な馬車に乗り、私たちは街へと繰り出した。
「ここがセーレンの目抜き通りだよ」
馬車を降りた瞬間から、私は目の前の光景に息を飲んでいた。真っすぐに伸びる石畳の道。この道は恐らくオルドローズへと渡る時に利用したあの橋に繋がっているのだろう。街道を挟むように向かい合う店たち。色々な色味の煉瓦や、木材、硝子窓て作られた店が、所狭しと並んでいた。
天瀬の街並みとは、何もかもが違う。行き交う人の服装や、容姿、店先で売られているものの種類、果ては、空の色まで違って見えた。見知らぬ土地の見知らぬ道に立ち、いささか緊張する私をじろじろと人々が見ている。
生憎、私はオルドローズの言葉を理解出来ないので、彼らがこそこそと話す言葉の意味は分からなかった。だがきっと、黒髪黒目を珍しがる声がひとつはあることだろう。遠慮のない目だが、過ぎるほどの尊崇で見つめられるよりも気楽に流せた。
「不躾な目でごめんね」
「いや、問題ない。見慣れないものを見るとき、人は往々にしてああいう目を向けるものだ」
自国民の態度をユーリが詫びたけれど、私は首を緩く左右に振ってその謝罪は不要だと示す。オルドローズにも、黒髪黒目は存在しない。私以外、この世のどこにもいないのだ。あれはなんだと、目を向けてしまうのも仕方のないことだと思う。
私の右隣にはユーリイがいて、左隣には清玖がいる。私の後方には淡月が控えていた。私の左手をしっかり握っていてくれる清玖を見上げる。
「……どうしたらいいんだろう」
「吉乃が見たいものを見ればいい」
「店の中に入ってもいいのだろうか?」
「問題ないよ。吉乃の好きなようにして」
戸惑った私に、清玖とユーリが順番に優しく言葉を掛けてくれる。買い物なんて、初めてなのだ。土産を買いたいという一心で街へやってきたけれど、何をどうしたら良いのかがさっぱり分からない。だが、だからといってここで亡羊と化していても何も始まらないのだ。
おずおずと、一歩を踏み出す。一番近い店を覗き込んでみた。硝子の陳列窓から中を見る。私と同じ視線になって、清玖も店の中を見ていた。きらきらとしたものが店の中に飾られているのは見える。だが、それが何であるかは釈然としなかった。
「清玖、ここは何の店だろう」
「硝子細工……だろうか」
「そうそう。硝子を使った工芸品の店だね」
私と清玖の会話にユーリが混ざり、答えを貰う。硝子工芸の店だということだった。硝子というのは勿論天瀬にもあるが、多くは窓になったりと、建築の一部という印象が強い。硝子で作られた工芸品というのは、あまり見たことがないように思う。
「有名なのはグラス……じゃなくて、えっと……杯、かな。杯とか、花瓶とか、そういったものを売ってるよ。入ってみる?」
「あぁ、入ってみたい」
「どうぞ」
言い慣れているオルドの単語を、天瀬の単語に言い直しつつ、ユーリが私を店の中に導く。ユーリの手が扉を開き、私は吸い込まれるように入って行った。
「オルドは硝子職人が多いから、どこの都市に行っても必ず工房があるんだよ。こんにちは、店主。少しお邪魔させてもらうね」
「ユーリイ殿下、ようこそお越しくださいました。そちらが……その、天瀬の?」
「そうそう。吉乃殿下だよ」
言葉の途中から、私には分からない言葉をユーリが話し始める。店の中にいた小柄な老人に声をかけたようだ。老人は私を不思議そうに見つめる。ユーリが吉乃と言ったことだけは理解が出来た。
「こんにちは」
きっと私を紹介したのだろうと考え、天瀬の言葉で挨拶しながら軽く頭を下げる。言葉は通じなくとも、態度で察してもらえたのか、老人も少し頭を下げた。外国人との意思疎通が出来たようで、とても嬉しくなる。
私は店内を眺めて、等間隔を空けて陳列された品々を見た。グラス、とユーリが言ったものたち。天瀬の杯を思うと、持ち手のような部分が随分と長い。国が違えば、食器の形すらも変わってしまうのか。
「花をあしらったものが多いんだな」
「オルドは寒くて、あんまり花が咲かないからね。せめて、花が描かれたものを飾ろうというわけなんだ」
「なるほど」
グラスには、色付けされた花が描かれていた。きらきらとした硝子に施されているため、花たちも美しく輝いている。オルドローズは天瀬よりも北にあり、寒冷な地域になる。植物が豊かに育つ土地ではないらしい。
「この赤い花はなんだろう。先ほどから幾つも見るが」
「牡丹だろうか」
「牡丹にしては、色味が少し違うような」
私が覗き込むと、清玖もそのグラスを見つめた。真っ赤な大輪の花。この花を先ほども見かけた。オルドローズで人気の花なのだろうか。清玖は牡丹だと言うが、牡丹にしては花弁が小さく、牡丹の特徴でもある目を引くような黄色い雄しべもない。
「それは薔薇だよ」
私と清玖の並びに、ユーリも加わった。ひとつのグラスを三人で眺める。聞きなれない言葉が耳に入り、私は聞こえたままにその音を口にしてみた。
「ばら? ……聞いたことのない花だ」
「この薔薇という花は、天瀬には自生しておりませんので、宮様が存じ上げないのも致し方ないことかと」
「淡月は物知りだな」
天瀬に自生しないという花を、よく知っていたものだと感心すれば、淡月は控えめに笑って頭を下げた。天瀬には生えていない花、薔薇。その絵が描かれたグラスを、ユーリは愛おしそうに触れた。
「この薔薇はね、オルドの国の花なんだ。私たちの国を象徴する花」
私が天瀬という国を愛するように、ユーリもオルドローズという国を愛している。それがよく分かる表情だった。
「美しい花だな」
「吉乃にそう言ってもらえると、嬉しいよ」
「薔薇がオルドの花だというのなら、天瀬の花は何だろう。……兄上の名にある、蘭だろうか」
天瀬には、国を表すような花がない。敢えていうのであれば、国王陛下である紫蘭兄上の名に含まれる蘭だろうか。兄上は、天瀬という国そのものだ。そう考えれば、兄の花である蘭が天瀬の花であると言っても過言ではない。
「吉乃の体に彫ってある花は? 沈丁花って言うんだっけ」
ユーリが、ぽろっと口にした言葉に、場が固まった。沈丁花の花は、天瀬王家の花紋だ。確かに、天瀬王家全員に刻まれる沈丁花が国の花となっても良いのかもしれない。だが、花紋というのは基本的に秘するものなのだ。市井の浴場などでも、花紋は手ぬぐいを当てて隠すと聞いたことがある。
侍従や近衛たちは、私の花紋が沈丁花であると知っているが、それは口外してはならないことになっている。貴人であればあるほど、体の中の見えない場所に刻まれる花紋。それを話題に出すことは、恥ずべき行いなのだが、そんな天瀬独特の感性をユーリが持っていないのは当然だった。
「ユーリイ殿下は、吉乃の花紋のこともご存じなんですね」
「まぁ、何度かその身を頂戴してるからね」
低い声を発したのは清玖だった。怒りが込められているのだと、誰でも気付く。ユーリは肩を竦ませながら、清玖の怒りを軽くいなすが、何か悪いことを言っただろうか、と困った顔をしていた。
「清玖」
はしたない話題を口にしたこと。かつて、私の沈丁花の花紋をユーリが見たこと。その二つのことに清玖は怒りを感じているようだった。その中には、妻の肌を見られた夫の怒りが混ざっているように感じる。
清玖の名を呼んで、ユーリの方を見ていた彼の視線を私に向けさせる。怒るようなことじゃない、と目で訴えれば、清玖は小さく頷いて私に詫びた。まだ一件目の店で、土産は一品だって買えていない。遅々として進まない買い物に、私は若干の焦りを感じた。
食事を済ませ、身支度を整えてもらい、邪魔な髪を結ってもらった。侍女頭である朱華はこの旅に随行していない。髪を結うのは朱華の務めではあるが、彼女が不在の今、私の髪は淡月が結ってくれていた。
「淡月」
「はい、何でしょう。宮様」
呼べば、すぐに返事が返ってくる。椅子に腰かけた私の背後に立って、丁寧に櫛で髪を梳く淡月。その手つきがとても優しくて、たっぷり寝たというのに私は眠気を感じるほどだった。高い位置でひとつに結われ、ひとつの束のようになった髪が背中に流れている。
「今日は、兄上や弟たちへの土産を買おうと思っているんだが、私はお金のことがよく分からない。有り金以上のものを買おうとしていたら、止めてもらえないか」
「畏まりました。ですが、後からの支払いということも可能ですので、あまり金額は気になさらず、お好きなように買い物を楽しんで頂ければと思います」
「……そうか」
旅の序盤で、月琴を爪弾く楽師に出会った。その者は演奏によって日銭を稼ぐ楽師で、私は素晴らしい音楽の対価に金貨を渡したのだ。お金というものに触れたのは、あれが初めてだった。
私の生活の中で貨幣の姿を見ることは無いが、私が生きるために多くのお金が費やされているのだと思う。食事に、衣類、侍従や近衛たちへの給金。それらを賄うのは、民から集めた税なのだろう。
贅を尽くした生活をしているとは思わないが、天瀬国内を歩き回って、私の生活が高水準であることを悟った。天瀬王家の威厳を保つためなのかもしれないが、過ぎるほどに豊かな日々を送っている。
お金というのは、強い力を持っている。お金があれば軍を動かすことが出来て、琳の富寧のような横暴な振舞いも為せてしまう。お金が必要だからと、鳳水には身を売る者たちが大勢いる。お金の力などというものを、今までに考えたこともなかった。この旅で学んだことがひとつ増えたように思う。
淡月は、好きなように買えば良いという。けれど私はそれが怖かった。贅沢がしたいわけではない。無駄な浪費を抑えたい。上手く言葉に出来ないそんな思いを感じ取ってくれたのか、淡月が優しく言葉を続ける。
「要すれば、僭越ながら助言をさせて頂きます」
「ありがとう、淡月」
「宮様の御心のままに」
御心のままに。侍従や、近衛たちが私たち王族へ向ける言葉。多くの者から、一日に何度も耳にする言葉だけれど、淡月が発するその声が一番耳に温かく響くのだ。淡月のこの言葉を私もう十年以上も聞き続けている。
「吉乃、ユーリイ殿下が到着したようだ」
「分かった」
扉を開けて入ってきた清玖は、腰に剣を差しており武官らしい出で立ちだった。この旅の中で帯剣していたことは殆どなかったように思うけれど、一応ここは異国で、安全を考えて剣を佩くのだと言った。
椅子から立ち上がり、清玖のもとへ歩く。私も今日は、略装ではなく、天瀬の王族らしい威厳を放つ格好をしていた。黒の長衣と、黒の帯。全身真っ黒だが、細かく刺繍が施されており、美しい衣装だった。
清玖から差し出された手を握り、歩き出す。大きくて、節くれたった彼の手が私の手を包み込む。こうして手を繋いで歩いているだけで、とても幸福な気持ちになれた。離宮の入り口に馬車を寄せて、ユーリが私たちを待ち受ける。豪奢な馬車に乗り、私たちは街へと繰り出した。
「ここがセーレンの目抜き通りだよ」
馬車を降りた瞬間から、私は目の前の光景に息を飲んでいた。真っすぐに伸びる石畳の道。この道は恐らくオルドローズへと渡る時に利用したあの橋に繋がっているのだろう。街道を挟むように向かい合う店たち。色々な色味の煉瓦や、木材、硝子窓て作られた店が、所狭しと並んでいた。
天瀬の街並みとは、何もかもが違う。行き交う人の服装や、容姿、店先で売られているものの種類、果ては、空の色まで違って見えた。見知らぬ土地の見知らぬ道に立ち、いささか緊張する私をじろじろと人々が見ている。
生憎、私はオルドローズの言葉を理解出来ないので、彼らがこそこそと話す言葉の意味は分からなかった。だがきっと、黒髪黒目を珍しがる声がひとつはあることだろう。遠慮のない目だが、過ぎるほどの尊崇で見つめられるよりも気楽に流せた。
「不躾な目でごめんね」
「いや、問題ない。見慣れないものを見るとき、人は往々にしてああいう目を向けるものだ」
自国民の態度をユーリが詫びたけれど、私は首を緩く左右に振ってその謝罪は不要だと示す。オルドローズにも、黒髪黒目は存在しない。私以外、この世のどこにもいないのだ。あれはなんだと、目を向けてしまうのも仕方のないことだと思う。
私の右隣にはユーリイがいて、左隣には清玖がいる。私の後方には淡月が控えていた。私の左手をしっかり握っていてくれる清玖を見上げる。
「……どうしたらいいんだろう」
「吉乃が見たいものを見ればいい」
「店の中に入ってもいいのだろうか?」
「問題ないよ。吉乃の好きなようにして」
戸惑った私に、清玖とユーリが順番に優しく言葉を掛けてくれる。買い物なんて、初めてなのだ。土産を買いたいという一心で街へやってきたけれど、何をどうしたら良いのかがさっぱり分からない。だが、だからといってここで亡羊と化していても何も始まらないのだ。
おずおずと、一歩を踏み出す。一番近い店を覗き込んでみた。硝子の陳列窓から中を見る。私と同じ視線になって、清玖も店の中を見ていた。きらきらとしたものが店の中に飾られているのは見える。だが、それが何であるかは釈然としなかった。
「清玖、ここは何の店だろう」
「硝子細工……だろうか」
「そうそう。硝子を使った工芸品の店だね」
私と清玖の会話にユーリが混ざり、答えを貰う。硝子工芸の店だということだった。硝子というのは勿論天瀬にもあるが、多くは窓になったりと、建築の一部という印象が強い。硝子で作られた工芸品というのは、あまり見たことがないように思う。
「有名なのはグラス……じゃなくて、えっと……杯、かな。杯とか、花瓶とか、そういったものを売ってるよ。入ってみる?」
「あぁ、入ってみたい」
「どうぞ」
言い慣れているオルドの単語を、天瀬の単語に言い直しつつ、ユーリが私を店の中に導く。ユーリの手が扉を開き、私は吸い込まれるように入って行った。
「オルドは硝子職人が多いから、どこの都市に行っても必ず工房があるんだよ。こんにちは、店主。少しお邪魔させてもらうね」
「ユーリイ殿下、ようこそお越しくださいました。そちらが……その、天瀬の?」
「そうそう。吉乃殿下だよ」
言葉の途中から、私には分からない言葉をユーリが話し始める。店の中にいた小柄な老人に声をかけたようだ。老人は私を不思議そうに見つめる。ユーリが吉乃と言ったことだけは理解が出来た。
「こんにちは」
きっと私を紹介したのだろうと考え、天瀬の言葉で挨拶しながら軽く頭を下げる。言葉は通じなくとも、態度で察してもらえたのか、老人も少し頭を下げた。外国人との意思疎通が出来たようで、とても嬉しくなる。
私は店内を眺めて、等間隔を空けて陳列された品々を見た。グラス、とユーリが言ったものたち。天瀬の杯を思うと、持ち手のような部分が随分と長い。国が違えば、食器の形すらも変わってしまうのか。
「花をあしらったものが多いんだな」
「オルドは寒くて、あんまり花が咲かないからね。せめて、花が描かれたものを飾ろうというわけなんだ」
「なるほど」
グラスには、色付けされた花が描かれていた。きらきらとした硝子に施されているため、花たちも美しく輝いている。オルドローズは天瀬よりも北にあり、寒冷な地域になる。植物が豊かに育つ土地ではないらしい。
「この赤い花はなんだろう。先ほどから幾つも見るが」
「牡丹だろうか」
「牡丹にしては、色味が少し違うような」
私が覗き込むと、清玖もそのグラスを見つめた。真っ赤な大輪の花。この花を先ほども見かけた。オルドローズで人気の花なのだろうか。清玖は牡丹だと言うが、牡丹にしては花弁が小さく、牡丹の特徴でもある目を引くような黄色い雄しべもない。
「それは薔薇だよ」
私と清玖の並びに、ユーリも加わった。ひとつのグラスを三人で眺める。聞きなれない言葉が耳に入り、私は聞こえたままにその音を口にしてみた。
「ばら? ……聞いたことのない花だ」
「この薔薇という花は、天瀬には自生しておりませんので、宮様が存じ上げないのも致し方ないことかと」
「淡月は物知りだな」
天瀬に自生しないという花を、よく知っていたものだと感心すれば、淡月は控えめに笑って頭を下げた。天瀬には生えていない花、薔薇。その絵が描かれたグラスを、ユーリは愛おしそうに触れた。
「この薔薇はね、オルドの国の花なんだ。私たちの国を象徴する花」
私が天瀬という国を愛するように、ユーリもオルドローズという国を愛している。それがよく分かる表情だった。
「美しい花だな」
「吉乃にそう言ってもらえると、嬉しいよ」
「薔薇がオルドの花だというのなら、天瀬の花は何だろう。……兄上の名にある、蘭だろうか」
天瀬には、国を表すような花がない。敢えていうのであれば、国王陛下である紫蘭兄上の名に含まれる蘭だろうか。兄上は、天瀬という国そのものだ。そう考えれば、兄の花である蘭が天瀬の花であると言っても過言ではない。
「吉乃の体に彫ってある花は? 沈丁花って言うんだっけ」
ユーリが、ぽろっと口にした言葉に、場が固まった。沈丁花の花は、天瀬王家の花紋だ。確かに、天瀬王家全員に刻まれる沈丁花が国の花となっても良いのかもしれない。だが、花紋というのは基本的に秘するものなのだ。市井の浴場などでも、花紋は手ぬぐいを当てて隠すと聞いたことがある。
侍従や近衛たちは、私の花紋が沈丁花であると知っているが、それは口外してはならないことになっている。貴人であればあるほど、体の中の見えない場所に刻まれる花紋。それを話題に出すことは、恥ずべき行いなのだが、そんな天瀬独特の感性をユーリが持っていないのは当然だった。
「ユーリイ殿下は、吉乃の花紋のこともご存じなんですね」
「まぁ、何度かその身を頂戴してるからね」
低い声を発したのは清玖だった。怒りが込められているのだと、誰でも気付く。ユーリは肩を竦ませながら、清玖の怒りを軽くいなすが、何か悪いことを言っただろうか、と困った顔をしていた。
「清玖」
はしたない話題を口にしたこと。かつて、私の沈丁花の花紋をユーリが見たこと。その二つのことに清玖は怒りを感じているようだった。その中には、妻の肌を見られた夫の怒りが混ざっているように感じる。
清玖の名を呼んで、ユーリの方を見ていた彼の視線を私に向けさせる。怒るようなことじゃない、と目で訴えれば、清玖は小さく頷いて私に詫びた。まだ一件目の店で、土産は一品だって買えていない。遅々として進まない買い物に、私は若干の焦りを感じた。
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