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◆ 第二章 異邦への旅路
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「……可愛い」
幸せそうな顔をしながら、溶け出しそうな声で吉乃がそう言った。幕屋の中で正座をしている吉乃の膝には、赤い髪の子供が頭を乗せて丸くなっていた。右腿の上に赤い頭がひとつ、左腿の上に赤い頭がもうひとつ。その頭たちを撫でながら、吉乃は嬉しそうに微笑んでいる。
それは華蛇の子供たちだった。吉乃の膝で膝枕をして、ころんと丸まっている。俺だって、そんな風に膝枕をしてもらったことなどないのに、と子供相手に怒りを感じる己が、情けなく思えた。
どうしてこんな状況になったのか。幼子への嫉妬で怒りに染まり始めた頭を落ち着かせるためにも、俺はこんな状況に至った経緯を思い出す。
華蛇の地に辿り着いた吉乃は、激しい歓待を受けた。吉乃を見た瞬間に誰もが泣き崩れ、深く深く跪いたのだ。その感激の度合いは、天瀬王家への信奉が強い清玄の民以上のものだった。
やっと、お戻りくださった。
口々に彼らはそう言った。幼い子供以外は皆、吉乃を見て涙を流し、膝を屈してはそう呟くのだ。戻って来たのではない。吉乃は初めてこの地を訪れるのだ。清玄から出たこともない吉乃に対して、その言葉は間違っている。
華蛇の一人一人にそう言い聞かせて回りたかったが、彼らに説明したところで聞き入れられることはないのだろう。華蛇にとって吉乃は黒の巫女で、巫女は遥か昔に華蛇の地から攫われたということになっているのだから。
いつまでも神話に支配されて生きる彼らに同情したが、そんな妄想に吉乃を付き合わせないで欲しいと心の底から思った。
吉乃のもとへわらわらと集まってきた華蛇たちは、数十人ほどだった。この集落には百人ほどが暮らしており、その中の一部は羊を放牧させに行って、今は集落にいないのだという。そしてこれが華蛇のすべてだとラオセンが言った。
華蛇の中でもつわものとされる者たちは清玄に置かれ、陛下の指示で動く任を与えられている。そんな彼らを抜いた全てが、今この集落にいる者たちだと言うのだ。あまりにも少ない。俺はその少なさに驚いた。
多くが、天瀬との戦いで命を落としたのだ。生き残ったのは、二割に満たない数だったそうだ。華蛇にとっては、総力戦だった。少しでも戦えるものは皆、戦場へ送り出した。その結果が、このありさまなのだ。
戦えそうにない線の細い女と、剣を持つことすら出来ない子供たち。何かしらの病や、怪我を負った男、そして動くことすらままならない老いさらばえた者たち。
集落には、そういった者たちしか残っていなかった。それでも良いのだとラオセンは笑う。黒の巫女が、この地に戻って来てくれたら、これで良いのだと。
「巫女様、僕も撫でて」
「私も」
膝枕をしている子供たちの頭を吉乃が撫でていると、他の子供たちが吉乃の愛撫を求めて寄ってくる。大人たちは委縮して吉乃から距離を置いているが、子供たちはお構いなしに吉乃のそばにやって来ていた。
近寄ってくる子供たち全てを受け入れて、順番に撫でていく吉乃は楽しそうで、その笑みは何よりも美しかった。集落の中で一番大きく、立派な天幕の中で、上座とされる奥に吉乃が座り、その傍らにラオセンと俺が。反対側に侍従長殿と葉桜が座っている。俺たちの目は、吉乃の一挙手一投足を追いかけていた。
「巫女は子供が好きなんだな」
「……みたいだな」
俺の隣に腰を下ろすラオセンが、声を掛けてくる。本当は会話などしたくもないが、ここで無視をするのも大人げない。そう思って、言葉を返す。だが、律儀に受け答えをしたことを後悔するような言葉が、ラオセンから飛んできたのだ。
「どんなに子供が好きでも、お前じゃ吉乃を孕ませてはやれねぇもんな」
性格が悪そうな、悪辣な笑みを浮かべるラオセン。俺は目元が鋭くなるのを止められなかった。俺と吉乃は互いに男で、俺がどれほど吉乃の中に精を吐こうとも、吉乃が子を孕むことはない。そんなことは、言われなくとも分かっていることだった。
「自分なら出来るとでも言うつもりか」
「可能性はある。赤い蛇は黒の巫女と交わって子を成したんだ」
「下らない迷信だ」
「黒闢天とやらよりは、信憑性があると思うが?」
「どこが」
思わず鼻で笑ってしまった。俺は黒闢天を狂信しているわけではないので、黒闢天の信憑性も怪しいものだと思っている。それと同様に、黒の巫女とやらも胡散臭いものだと感じていた。黒の巫女の方が信憑性がある、などと戯言を言うラオセンを、ついつい笑ってしまった。
「一晩吉乃を貸してくれたなら、迷信かどうかが分かるんだけどな?」
「陛下の恩情で生かされているその命、どうやら要らぬと見える」
強く信じる黒の巫女のことを悪し様に笑われ不快に感じたのか、ラオセンも反撃を口にした。赤い蛇と黒の巫女が交わり、子が出来たなどという妄言を確かめるため、吉乃と一晩褥を共にさせろと言っているのだ。俺は腰から抜き、目の前に置いた剣へと手を伸ばす。
「清玖」
すかさず、吉乃が声を掛けてきた。どうやら俺たちの会話は吉乃にも筒抜けだったらしい。荒々しいことは駄目だ、と吉乃が視線で釘をさした。伸ばした手を引っ込める。よく見れば、俺以上に鋭い目で葉桜がラオセンを見ていた。吉乃の目の前でなければ、葉桜の直刀がラオセンを急襲していたことだろう。
「ラオセンも、たちの悪い冗談で清玖を困らせないでくれ」
「冗談じゃなければいいのか?」
「なお悪い」
少し怒ったような顔で吉乃がラオセンを見る。怒っているのかもしれないが、どう見てもそのおもてからは、吉乃が可愛いということしか分からない。そんな吉乃の姿を見て、ラオセンは肩を竦めながら降参する。この場の誰も、吉乃には勝てないのだ。
「子供は可愛いけれど、子供が欲しいわけじゃない。……親子の情が欲しいわけではないんだ」
親子の絆よりも、兄弟の絆。天瀬の王族たちはそのように生まれ、そのように育つ。兄弟のことを深く愛する吉乃だが、父上たる先代国王陛下について何か語ったところを俺は見たことが無い。
自分に子が出来たとして、その子を愛せるのだろうかという不安を吉乃は抱いているようだった。俺と吉乃の間に子が生まれるなど、少しも想像したことがない。ありえないことだと、分かっているからだ。
「それにもし、私と清玖が深く愛し合い、子も宿るほどであるのなら、我らの黒き天がこうのとりを遣わすことだろう」
小さく微笑んで、吉乃はこの話題を終わらせた。想像してみる。ある日、目が覚めたら俺と吉乃の間で小さな赤ん坊が寝ていたとする。俺と吉乃のどちらかに似た色と顔立ちで、安らかに眠っている。黒闢天がそんな贈り物をしてくれるというのなら、俺は一生、天に感謝し続けるだろう。
「ラオセン、巫女様とおそとに行ってきてもいい?」
吉乃に膝枕をしてもらっていた子供が顔を上げて、ラオセンに問う。ラオセンは一応、華蛇族の長になったということだが、それでもこの幼子は名で呼んだ。生まれ変わりを信じるこの奇妙な一族は、長を定めはするが、強力な上下関係はないのだという。
今は自分が年上で長だが、かつては、目の前の子供が一族を束ねる勇猛な長だったかもしれない。そんな理由で、彼らは平等な関係を構築するのだという。奇妙なものだった。それで統率が取れるのだろうかと疑問に思う。
「俺は構わないが……」
「私も、問題は無い」
外に遊びに行きたいと問われ、ラオセンは問題ないと言う。そう言いながら、吉乃にお伺いの目配せをし、侍従長殿のことも見ていた。吉乃は容易く頷き、その決定に侍従長殿も従うようだった。
「行こうか」
子供たちがわらわらと天幕を抜けて外へと走っていく。吉乃の両手を、子供たちが引っ張っていった。そんな光景を、母親たちが涙ぐみながら眺めている。吉乃が動いたことによって、その場の全員が天幕から出た。
「……だっこして」
五つにも満たないような幼い子供が、吉乃の衣服を少し引っ張り、そんな懇願をした。俺はぎょっとしてしまう。抱っこなど、吉乃はしたことがあるのだろうか。そもそも、その細い腕でその子供を抱き上げることが出来るのだろうか。
「いいよ、おいで」
吉乃は膝を折ってしゃがみこみ、その子と目線を合わせる。流石の侍従長殿も、すっと吉乃に近づいて心配そうに声をかけた。生まれたばかりの赤子ならばいざ知らず、四歳か五歳程度に見えるその子はきっとそこそこの体重だろう。
「宮様」
「大丈夫だよ」
俺や侍従長殿の心配をよそに、吉乃は子供を抱きしめながら力強く立ち上がった。一瞬よろけたのを見て、侍従長殿や他の侍従、葉桜や俺が支える手を伸ばす。その光景が可笑しかったのか吉乃は笑い、逆に大勢の大人が手を伸ばしたことに驚いたその子は、吉乃の胸に顔を押し付けて俺たちから顔を反らした。
しっかりと両腕で子供を抱き上げている吉乃。その胸に顔を押し付けて甘えるようなそぶりをする子供。その光景は美しく、吉乃の姿はまさしく母のように見えた。子を抱きしめる吉乃のおもては嬉しそうで、心底可愛いと思っているようだった。
「……おかあさん」
吉乃に抱きしめられながら、腕の中の子供が小さく声を漏らした。かすかな声ではあったが、その場の全員の耳に届いたことだろう。吉乃の行動を見守っていたラオセンが口を開く。
「そいつの名はユジル。両親は天瀬との戦いで死んでる。……ユジルは、黒の巫女である吉乃を通して、母親を感じてるんだろうな」
ユジルというその子供の両親が、戦いに身を投じ、戦死したことを俺は自業自得だと思っていた。天瀬とて多くの兵を失っている。戦争を始めた華蛇のせいだと思わなければ、こちらもやっていられないのだ。だが、一人残されたユジルには何の罪もない。憐れに思えてしまうのは、仕方のないことだった。
「ラオセン、もう二度と戦うような方法を取らないでくれ。私が死んで、黒髪黒目が何年も、何十年も生まれてこなかったとしても、……次の黒の巫女を求めて、天瀬と争うようなことは、絶対にやめてくれ」
親を恋しがって、吉乃に縋るユジルを見て、吉乃も胸を痛めているようだった。自分を求めて始まってしまった天瀬と華蛇、そして琳の富寧が絡む争い。そんな事態は二度と起こって欲しくないと、吉乃は強く訴えた。それを聞き届け、ラオセンはゆっくりと頷く。
「あぁ。黒の巫女たる吉乃に誓う。華蛇はもう二度と、争いを起こさない」
幸せそうな顔をしながら、溶け出しそうな声で吉乃がそう言った。幕屋の中で正座をしている吉乃の膝には、赤い髪の子供が頭を乗せて丸くなっていた。右腿の上に赤い頭がひとつ、左腿の上に赤い頭がもうひとつ。その頭たちを撫でながら、吉乃は嬉しそうに微笑んでいる。
それは華蛇の子供たちだった。吉乃の膝で膝枕をして、ころんと丸まっている。俺だって、そんな風に膝枕をしてもらったことなどないのに、と子供相手に怒りを感じる己が、情けなく思えた。
どうしてこんな状況になったのか。幼子への嫉妬で怒りに染まり始めた頭を落ち着かせるためにも、俺はこんな状況に至った経緯を思い出す。
華蛇の地に辿り着いた吉乃は、激しい歓待を受けた。吉乃を見た瞬間に誰もが泣き崩れ、深く深く跪いたのだ。その感激の度合いは、天瀬王家への信奉が強い清玄の民以上のものだった。
やっと、お戻りくださった。
口々に彼らはそう言った。幼い子供以外は皆、吉乃を見て涙を流し、膝を屈してはそう呟くのだ。戻って来たのではない。吉乃は初めてこの地を訪れるのだ。清玄から出たこともない吉乃に対して、その言葉は間違っている。
華蛇の一人一人にそう言い聞かせて回りたかったが、彼らに説明したところで聞き入れられることはないのだろう。華蛇にとって吉乃は黒の巫女で、巫女は遥か昔に華蛇の地から攫われたということになっているのだから。
いつまでも神話に支配されて生きる彼らに同情したが、そんな妄想に吉乃を付き合わせないで欲しいと心の底から思った。
吉乃のもとへわらわらと集まってきた華蛇たちは、数十人ほどだった。この集落には百人ほどが暮らしており、その中の一部は羊を放牧させに行って、今は集落にいないのだという。そしてこれが華蛇のすべてだとラオセンが言った。
華蛇の中でもつわものとされる者たちは清玄に置かれ、陛下の指示で動く任を与えられている。そんな彼らを抜いた全てが、今この集落にいる者たちだと言うのだ。あまりにも少ない。俺はその少なさに驚いた。
多くが、天瀬との戦いで命を落としたのだ。生き残ったのは、二割に満たない数だったそうだ。華蛇にとっては、総力戦だった。少しでも戦えるものは皆、戦場へ送り出した。その結果が、このありさまなのだ。
戦えそうにない線の細い女と、剣を持つことすら出来ない子供たち。何かしらの病や、怪我を負った男、そして動くことすらままならない老いさらばえた者たち。
集落には、そういった者たちしか残っていなかった。それでも良いのだとラオセンは笑う。黒の巫女が、この地に戻って来てくれたら、これで良いのだと。
「巫女様、僕も撫でて」
「私も」
膝枕をしている子供たちの頭を吉乃が撫でていると、他の子供たちが吉乃の愛撫を求めて寄ってくる。大人たちは委縮して吉乃から距離を置いているが、子供たちはお構いなしに吉乃のそばにやって来ていた。
近寄ってくる子供たち全てを受け入れて、順番に撫でていく吉乃は楽しそうで、その笑みは何よりも美しかった。集落の中で一番大きく、立派な天幕の中で、上座とされる奥に吉乃が座り、その傍らにラオセンと俺が。反対側に侍従長殿と葉桜が座っている。俺たちの目は、吉乃の一挙手一投足を追いかけていた。
「巫女は子供が好きなんだな」
「……みたいだな」
俺の隣に腰を下ろすラオセンが、声を掛けてくる。本当は会話などしたくもないが、ここで無視をするのも大人げない。そう思って、言葉を返す。だが、律儀に受け答えをしたことを後悔するような言葉が、ラオセンから飛んできたのだ。
「どんなに子供が好きでも、お前じゃ吉乃を孕ませてはやれねぇもんな」
性格が悪そうな、悪辣な笑みを浮かべるラオセン。俺は目元が鋭くなるのを止められなかった。俺と吉乃は互いに男で、俺がどれほど吉乃の中に精を吐こうとも、吉乃が子を孕むことはない。そんなことは、言われなくとも分かっていることだった。
「自分なら出来るとでも言うつもりか」
「可能性はある。赤い蛇は黒の巫女と交わって子を成したんだ」
「下らない迷信だ」
「黒闢天とやらよりは、信憑性があると思うが?」
「どこが」
思わず鼻で笑ってしまった。俺は黒闢天を狂信しているわけではないので、黒闢天の信憑性も怪しいものだと思っている。それと同様に、黒の巫女とやらも胡散臭いものだと感じていた。黒の巫女の方が信憑性がある、などと戯言を言うラオセンを、ついつい笑ってしまった。
「一晩吉乃を貸してくれたなら、迷信かどうかが分かるんだけどな?」
「陛下の恩情で生かされているその命、どうやら要らぬと見える」
強く信じる黒の巫女のことを悪し様に笑われ不快に感じたのか、ラオセンも反撃を口にした。赤い蛇と黒の巫女が交わり、子が出来たなどという妄言を確かめるため、吉乃と一晩褥を共にさせろと言っているのだ。俺は腰から抜き、目の前に置いた剣へと手を伸ばす。
「清玖」
すかさず、吉乃が声を掛けてきた。どうやら俺たちの会話は吉乃にも筒抜けだったらしい。荒々しいことは駄目だ、と吉乃が視線で釘をさした。伸ばした手を引っ込める。よく見れば、俺以上に鋭い目で葉桜がラオセンを見ていた。吉乃の目の前でなければ、葉桜の直刀がラオセンを急襲していたことだろう。
「ラオセンも、たちの悪い冗談で清玖を困らせないでくれ」
「冗談じゃなければいいのか?」
「なお悪い」
少し怒ったような顔で吉乃がラオセンを見る。怒っているのかもしれないが、どう見てもそのおもてからは、吉乃が可愛いということしか分からない。そんな吉乃の姿を見て、ラオセンは肩を竦めながら降参する。この場の誰も、吉乃には勝てないのだ。
「子供は可愛いけれど、子供が欲しいわけじゃない。……親子の情が欲しいわけではないんだ」
親子の絆よりも、兄弟の絆。天瀬の王族たちはそのように生まれ、そのように育つ。兄弟のことを深く愛する吉乃だが、父上たる先代国王陛下について何か語ったところを俺は見たことが無い。
自分に子が出来たとして、その子を愛せるのだろうかという不安を吉乃は抱いているようだった。俺と吉乃の間に子が生まれるなど、少しも想像したことがない。ありえないことだと、分かっているからだ。
「それにもし、私と清玖が深く愛し合い、子も宿るほどであるのなら、我らの黒き天がこうのとりを遣わすことだろう」
小さく微笑んで、吉乃はこの話題を終わらせた。想像してみる。ある日、目が覚めたら俺と吉乃の間で小さな赤ん坊が寝ていたとする。俺と吉乃のどちらかに似た色と顔立ちで、安らかに眠っている。黒闢天がそんな贈り物をしてくれるというのなら、俺は一生、天に感謝し続けるだろう。
「ラオセン、巫女様とおそとに行ってきてもいい?」
吉乃に膝枕をしてもらっていた子供が顔を上げて、ラオセンに問う。ラオセンは一応、華蛇族の長になったということだが、それでもこの幼子は名で呼んだ。生まれ変わりを信じるこの奇妙な一族は、長を定めはするが、強力な上下関係はないのだという。
今は自分が年上で長だが、かつては、目の前の子供が一族を束ねる勇猛な長だったかもしれない。そんな理由で、彼らは平等な関係を構築するのだという。奇妙なものだった。それで統率が取れるのだろうかと疑問に思う。
「俺は構わないが……」
「私も、問題は無い」
外に遊びに行きたいと問われ、ラオセンは問題ないと言う。そう言いながら、吉乃にお伺いの目配せをし、侍従長殿のことも見ていた。吉乃は容易く頷き、その決定に侍従長殿も従うようだった。
「行こうか」
子供たちがわらわらと天幕を抜けて外へと走っていく。吉乃の両手を、子供たちが引っ張っていった。そんな光景を、母親たちが涙ぐみながら眺めている。吉乃が動いたことによって、その場の全員が天幕から出た。
「……だっこして」
五つにも満たないような幼い子供が、吉乃の衣服を少し引っ張り、そんな懇願をした。俺はぎょっとしてしまう。抱っこなど、吉乃はしたことがあるのだろうか。そもそも、その細い腕でその子供を抱き上げることが出来るのだろうか。
「いいよ、おいで」
吉乃は膝を折ってしゃがみこみ、その子と目線を合わせる。流石の侍従長殿も、すっと吉乃に近づいて心配そうに声をかけた。生まれたばかりの赤子ならばいざ知らず、四歳か五歳程度に見えるその子はきっとそこそこの体重だろう。
「宮様」
「大丈夫だよ」
俺や侍従長殿の心配をよそに、吉乃は子供を抱きしめながら力強く立ち上がった。一瞬よろけたのを見て、侍従長殿や他の侍従、葉桜や俺が支える手を伸ばす。その光景が可笑しかったのか吉乃は笑い、逆に大勢の大人が手を伸ばしたことに驚いたその子は、吉乃の胸に顔を押し付けて俺たちから顔を反らした。
しっかりと両腕で子供を抱き上げている吉乃。その胸に顔を押し付けて甘えるようなそぶりをする子供。その光景は美しく、吉乃の姿はまさしく母のように見えた。子を抱きしめる吉乃のおもては嬉しそうで、心底可愛いと思っているようだった。
「……おかあさん」
吉乃に抱きしめられながら、腕の中の子供が小さく声を漏らした。かすかな声ではあったが、その場の全員の耳に届いたことだろう。吉乃の行動を見守っていたラオセンが口を開く。
「そいつの名はユジル。両親は天瀬との戦いで死んでる。……ユジルは、黒の巫女である吉乃を通して、母親を感じてるんだろうな」
ユジルというその子供の両親が、戦いに身を投じ、戦死したことを俺は自業自得だと思っていた。天瀬とて多くの兵を失っている。戦争を始めた華蛇のせいだと思わなければ、こちらもやっていられないのだ。だが、一人残されたユジルには何の罪もない。憐れに思えてしまうのは、仕方のないことだった。
「ラオセン、もう二度と戦うような方法を取らないでくれ。私が死んで、黒髪黒目が何年も、何十年も生まれてこなかったとしても、……次の黒の巫女を求めて、天瀬と争うようなことは、絶対にやめてくれ」
親を恋しがって、吉乃に縋るユジルを見て、吉乃も胸を痛めているようだった。自分を求めて始まってしまった天瀬と華蛇、そして琳の富寧が絡む争い。そんな事態は二度と起こって欲しくないと、吉乃は強く訴えた。それを聞き届け、ラオセンはゆっくりと頷く。
「あぁ。黒の巫女たる吉乃に誓う。華蛇はもう二度と、争いを起こさない」
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