下賜される王子

シオ

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◆ 第二章 異邦への旅路

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 季鞍は俯く。

 黒烈殿の官吏であったというなら、国にとって姫宮がどれほど有用な存在であるかを季鞍は痛いほどに分かっていたことだろう。それに加えて、清玄人特有の王家に対する親愛も有している。

 黄玄県の県令でありながら、季鞍は黄玄人たちの振る舞いを受け入れることが出来なかった。県令のおもてには辛苦が刻まれる。

「宮様が何のために姫宮という務めをなされているのかを理解しないまま、その御務めの内容ばかりに目がいっている。国民に提供された慰み者であるかのような、誤った情報が市民の間で広まっているのです」

 姫宮の務めから逃げたいが、兄たちを裏切ってまで逃げられないと苦しんだ吉乃がいた。叔父上の課す試練に、泣きながら震えながら立ち向かった吉乃がいた。

 それを知ることもなく、想像することさえせず、吉乃を淫蕩であるかのように評する民を素直に殺してやりたいと思う。

「……吉乃が哀れだ」

 あまりにも、不憫に過ぎた。俺は俯く。俺の気持ちはあまりにも吉乃に傾きすぎているとは思うが、公平な目からしても吉乃は哀れだろうと思うのだ。国の為に願ってもいないことを強いられ、その結果、ふしだらであるかのような風評が立つだなんて。

 吉乃は、国民の全てから愛されるべきだと思うのだ。極端な考え方であることは重々承知しているが、それでも、そうであれと俺は願ってしまう。

「申し訳ない夫君殿、私が力不足なばかりに」

 今となっては、季鞍の謝罪など空しさを催すだけのものだった。俺は男を放置したまま、県令に背を向ける。目的はこの男を送り届けることだ。もう用事は済んだ。

「明日、吉乃が目を覚まして、朝市を見て歩きたいと言ったら、俺はそれを止めるかもしれない」
「……判断は、夫君殿に委ねます」

 扉を開き、廊下へ出る。月はさらに天上へと上がっていた。溜息を漏らす。なんとも嫌な気分だ。尊崇の念など無理やり抱かせるものではないが、何故あそこまで侮辱出来るのかが俺には理解出来なかった。

 これが、城下町の酒場での出来事であれば拳で解決して水に流すのだが、ここは県令の城だ。如何にあの男の素行が平素から悪いものだとしても、破落戸を城に入れるわけがない。それなりの手順を踏んであの男を雇っているはずなのだ。そんな人間が、あのような暴言を吐くとは。何から何まで信じがたい。

「夫君殿」

 吉乃の部屋へ戻ると、部屋の前には侍従長殿が立っていた。この光景を見ると、まるでここが黒珠宮であるかのような錯覚を抱く。

「不敬者の件は、葉桜より報告を受けています」
「……吉乃は、眠っていますか」
「えぇ、ぐっすりと」

 あれだけ眠たそうだったのだから、それはもう深い眠りに陥っていることだろう。吉乃のことを考えると、心に溜まった澱が少しずつ消えていく。

「愕然としました。この国で、あれほどの無礼を口に出来る者がいるなんて」

 ついつい、そんな言葉を漏らしてしまう。それはどう考えても愚痴だった。そんな愚にもつかないものを、侍従長殿は穏やかに聞いてくれていた。

「陛下に処罰された左軍の者も、結果として無礼を働いたけど、吉乃を尊ぶ気持ちは根底にあった。……でも、先程の男は違う。……琳の富寧よりも酷い」

 吉乃を攫ったあの男は何度殺しても殺し足りないが、それでも琳の国の皇太子だった。身分もあり、何より天瀬の民ではない。吉乃に対する侮辱も無礼も、何もかもがまだ理解出来る。

 だが、先程の男は天瀬の民で、吉乃の根も葉もない噂話を信じ、吉乃の真実の姿など知ろうともせず、あのような無礼を口にした。後者の方が悪辣だ。

「夫君殿。悲しいことに、これが現実です。当然、宮様のことを正しく理解し、心の底から敬う者もこの地にはいることでしょう。ただ、その数が少ないだけで」
「……誰だって、下世話な話の方が面白く聞こえて記憶に残る。吉乃はその格好の的なんだ。清玄から離れたとはいえ、まだ黄玄だ。……これから先、どうなることやら」

 清玄を離れれば離れるほどに、王家へ対する信奉は薄くなっていくのだとしたら、今後は更なる不敬が増えるのかもしれない。俺は少しばかり、この旅を後悔した。

「暗く考えても仕方のないことです。翠玉や鳳水のある紺玄こんげん県では、黒闢天信仰は黄玄より厚い。また違った反応もあることでしょう」

 意外なほどに侍従長殿は冷静だった。俺以上に烈火の如く怒ると思っていたが、まったくそんな素振りはない。そうして俺は思い至った。このような出来事が、今までに何度もあったのだ。侍従長殿は、吉乃に対する不敬に慣れている。

 吉乃が幼い頃から仕えている侍従長殿のことだ、きっとこの手の悪感情を今までに何度も目にしているのだろう。だが、他人の考えを改めさせるのは難しい。そんな、どうしようもないことに時間を割くくらいなら、侍従長殿はきっと吉乃への奉仕に時間を当てるのだろう。

「貴方はこんなところでへこんでいるよりも、もっと重要な務めがあるのでは?」

 俺も切り替えていかなければならない。いつまでも、こんなことで鬱々としていてはいけないのだ。

「吉乃の安眠を見守ってきます」
「その前に湯浴みを。宮様のそばに行くのであれば、清潔になさってください」
 
 侍従長殿の鋭い一言を受けて、俺の行先が湯殿へと決まった。右軍の兵舎で生活していた時は、流石に毎日は湯浴みをしなかった。二日に一度程度だったが、それでも頻繁に湯浴みをしているほうだったのだ。

 だが、吉乃はその比じゃない。もともと湯浴みが好きなのか、一日に何度か堪能していたりする。

 吉乃からは常に良い香りがして、抱きすくめると天上に昇る気持ちになるのだ。俺は急いで湯浴みを済ませ、身支度を整えて吉乃のもとへ戻る。

「……吉乃」

 愛しい寝顔がそこにはあった。口が少しだけ開いていて、薄い唇を指でなぞる。頬に手を置いて、親指で撫でれば吉乃はくすぐったそうに身を捩った。

「し……ん?」
「すまない、起こしてしまった」

 熟睡しているのであれば、少しくらい触っても起きないだろうと油断していたら、吉乃は目を覚ましてしまった。安眠を妨害するつもりはなかったのだと詫びる。吉乃は首を左右に振って、俺の謝罪は不要だと応えてくれた。

「随分と深い眠りに落ちていた」
「ぐっすり寝てたな。でもまだ夜中だ。まだまだ寝れるぞ」
「あぁ……、黒珠宮以外で寝るなんて、あの連れ込み宿以来だ」
「楽しいか?」
「とっても」

 にっこりと笑った吉乃の笑顔が輝かしくて、真夜中であるというのに太陽を見ているような気分になった。

「外の世界に出て、自分がどんな風に見られているのかがよく分かった。……王城にいただけでは、分からない感情がたくさんあった」

 吉乃が俺の手に頬を摺り寄せる。撫でて欲しいようだ。求めに応じて、頬を撫でた。こうしていると、大きな黒猫にも見える。とても高貴で、この世に一匹しかおらず、俺の最愛の黒猫だ。

「清玄では、皆に強くに愛されていると思った。でも草霧に行って、不思議なものを見るような視線も受けたし、戸惑うような気持ちも感じた」
「不愉快だったか?」
「いや、まったく。無条件にあまねく全ての民から愛される方が不気味だ」

 その回答は、あまりにも予想外にすぎた。虚を突かれた顔をしていたのだろう。吉乃は小さく笑って、今度は俺の頬に手を当てる。黒髪が寝台に散らばって、その状態で俺へ手を伸ばす吉乃は、神聖すぎて絵画として保存したいくらいだった。

「何があったかは知らないけれど、私は何を言われても、どう思われても平気だから安心して」

 俺は吉乃にも気取られるほど、分かり易い顔をしていたのだろうか。戸惑う俺の頬を吉乃が突いて笑っていた。
 
「清玖がいて、愛する兄弟たちがいて、淡月と葉桜、他にもたくさん私を支えてくれる人がいる。それ以上は望まないし、その他大勢にどう思われていても気にしない」
「……吉乃がこんなに強かったなんて、知らなかった」
「知らなかったのなら覚えておいて。私はそんなに弱くない」

 他人が吉乃をどう思っているかについて、どうのこうのと言う前に、俺は己の最愛の人を今一度よく知るべきだったのかもしれない。

 吉乃は弱くない。そんなこと分かっていたのに、失念していた。あまりにも大切で、守りたくて、愛おしくて、結果吉乃を見誤っていた。

 周囲の意見を聞かせたくないといって、旅に出たことを後悔するのなら、その根本は先代国王陛下、吉乃の父王と何も変わらない。己の都合で吉乃を閉じ込めたいと願ってしまっているのだから。

 考えを改めなくてはならない。どんな侮蔑が待っていようと、吉乃が気にしないというのなら過剰に反応してはならないのだ。度を越した時は、近衛や侍従、更に言えば二人の兄王様方が裁断を下す。

「清玖も一緒に寝よう」

 腕を引かれ、同じ寝台に潜り込む。肌襦袢のみの吉乃を強く抱きしめた。嬉しそうに笑う吉乃が堪らなく愛らしいが、吉乃はすぐに眠りへと落ちてしまう。愛しい寝顔を眺めながら、俺も静かに夢の世界へと旅立った。








「おはよう、清玖」

 陽光が瞼に突き刺さり、なかなか目が開けない。だが、吉乃が俺の名を呼んでいるので、なんとかして目を開く。窓際に吉乃が立っていて、黒の色彩を持つ吉乃が鮮明に見えた。

「おはよう、早く目が覚めてたんだな」
「外の音が気になって、起きたんだ」

 そう言って吉乃が視線を外へやる。窓から眼下を見下ろして、楽しそうに眺めている。硝子の嵌め殺しの窓に手をついて食い入るように吉乃は下界を見ていた。
 
「何を見てるんだ?」
「朝市だよ。昨日、淡月が言っていた通りの盛況ぶりだ」

 吉乃の隣に並び、俺も下を見る。城の門から少し離れた場所。そこには、蠢く人の群れが。大きな道の左右に、たくさんの屋台や天幕が出て客を大声で呼びこんでいる。

 獲れたての作物が並んでいたり、行商人が見せる様々な品、その場で調理して販売をする店も少なくない。道を覆うほどの人が、通りに集まっていた。確かに耳を澄ませれば、激しい雑踏が聞こえる。

「行ってみたいか?」
「……行ってもいいのかな。あんなに人がいるし、葉桜たちに苦労をかけることになるかもしれない」
「葉桜はきっと、吉乃に苦労をかけられたら喜ぶと思う」

 出掛けたいので護衛を頼む、などと吉乃が葉桜に伝えれば、葉桜は泣いて喜ぶことだろう。皆、吉乃に頼ってもらいたいのだ。どんな些事でもいいから任せて欲しい。この旅の一団は、皆が皆そのように考えている。

「では、警護を葉桜に頼もう。……清玖も、一緒に行ってくれるか?」

 どうしてそんなに不安そうな顔をするのかが、俺には理解出来なかった。そんな言葉をかけてもらって、俺が喜ばないとでも思っているのだろうか。

 そもそも、当然俺も一緒に行くつもりでいたし、それ以外の選択肢など存在していなかった。それをなかなか理解しない妻君が、どうにも愛おしくて堪らなかった。

「勿論、一緒に行くよ」


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