すべては花の積もる先

シオ

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スイ編

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「トーカ」

 王都シンリンにある父の屋敷。馬車が目的地へと辿りつき、扉が開かれる。冷たい風と共に車の中に入り込んだのは、私を呼ぶ父の声だった。降りるための踏み台を御者が用意するそのそばまで、父がやってきていた。

 私よりも先に車から降りたのはスイだ。地面に足を下ろしたスイが、私に向かって手を差し出す。その手の上に、己の手を重ねた。ぎゅっと握られてたまま、私も車から降りる。杖なしで歩くことが出来るようになったスイの足取りは、しっかりとしていた。

「やっと顔を見せに来たか、トーカ」
「ご無沙汰してしまって、すみません」

 手紙でのやり取りは続けていたが、こうして直接父と顔を合わせるのは随分と久しぶりのことだった。とはいえ、それまでのことを考えれば、年に一度程度は母の命日に会っていたため、何年も無沙汰をしていたわけではない。それでも父が、やっと来たか、と言う言葉を使ったのは、それなりに心配をかけていたからなのだろう。

「お前が無事なら、それでいい」

 父の前に立った私の頭のてっぺんから足先までを、父が眺める。じっくりと眺めてから、安堵するように数度頷いた。私は今、顔を覆うものを何も身につけていない。火傷を隠すことなく、父と対峙している。当然、父の目は私の火傷の痕を見つめていた。

「……痕が残ったか」

 額に残った痕は、前髪で隠れている。だが、頬に走る痕を髪で隠すことは難しかった。私に向けて伸ばされた父の掌が、そっと私の頬に触れる。一体いつから外にいたのか、その手は冷え切っていた。それなのに、どこか温かい。父からの労りを感じるからだろうか。

「母さんと似た顔だったのに……、ごめんなさい」
「そんなことでお前が謝る必要はない。生きていてくれただけで、十分だ」

 ゆっくりと腕を引かれ、抱きしめられた。年をとっても衰えることのない逞しい体躯に、包み込まれる。父の腕の中で、私は静かに胸を撫で下ろしていた。正直なことを言えば、私は、父の関心を失うと思っていたのだ。父にとって私の価値はこの面貌だけだと思っていたから。けれど、父は生きているだけで十分だと言ってくれた。それが嬉しくて、少し目頭が熱い。

「お前がトーカを守りきれないのなら、私の手元にトーカを置くが?」

 父の腕の中で聞いたその言葉は、どうやら父からスイに向けて放たれたものであったらしい。少しばかり、スイを責めるような声音が混じっていることに気付いた私は慌てて、スイは何も悪くないのだと弁明しようとした。だが私が唇を開くよりも先に、スイが言葉を発する。

「もう二度と、兄さんを傷つけさせはしません」

 そしてスイは私の手首を掴み、そっと引き寄せた。父が私を閉じ込め続けることはなく、するりと父の腕の中から私は抜け出る。最後に少しだけ、頬を撫でられた。火傷を負ったその場所に、父が優しく触れたのだ。スイの腕の中に移動した私は、居心地の良さを感じる。やはり、スイのそばはとても心が安らいだ。

 私を強く抱きしめるスイを見上げると、睨みつけるような目で父を見ていた。そのことに驚くが、鋭い視線を向けられている本人である父は、呵々と笑う。

「なんだ? トーカを取られるとでも思ったか? ……そうして用心じているといい。お前に手抜かりがあれば、問答無用で奪い去ってやろう」

 父がスイに向ける瞳には、剣呑な光が込められていた。二人の間に流れる空気に戸惑う。けれどもすぐに、父は表情を和らげて微笑んだ。小さく息を吐いた後は、子を見つめる父の眼差しで私とスイを見た。

「ゆっくりしていきなさい、二人とも」

 こちらに背を向けて、悠然と去っていく父を二人で見送る。大きな体は屋敷の中へと消えていった。だと言うのに、スイはいつまでも怖い顔で父が去った方向を見ている。私は手を伸ばして、スイの頬を指でそっと突いた。そうしてやっと、スイの視線は私へと向く。

「……まったく。腹立たしい父親だ」
「父さんは私たちをからかっているだけだよ」
「どうかな。随分と目が本気だったけど」

 私の言葉に納得しないスイは、不服そうな顔のまま私の手を引いて屋敷の中に入っていった。屋内に足を踏み入れると、すぐに温かい空気が私たちを包み込む。父の屋敷に泊まる際にいつも通される客室に、私たちは辿り着いた。

 ずっと馬車での移動であり、己の足で歩いてきたわけではないのだが、私の体は疲れを感じていた。部屋に到着してすぐに、私は椅子に腰を下ろしてしまう。スイも私の隣に座ったが、疲れを感じている様子はない。

「トーカ」

 目の前の机に、茶が差し出される。持ってきてくれたのは、レンだった。少し離れていただけだと言うのに、随分と久しぶりにレンを見たような気持ちになる。思わず頬が緩んだ。レンも口元に小さな笑みを浮かべながら私を見ていた。レンが持ってきてくれた茶器を両手で包み込みながら感謝を伝え、そのぬくもりを味わう。

 レンは私の分の茶器は丁寧に机に置いてくれたと言うのに、スイの分は随分と乱雑に置いた。その結果、衝撃を受けた茶器の中で跳ねた茶が、少しだけ机の上にこぼれてしまっている。スイは己の分とされた茶器を鋭く睨んでいた。

 二人の険悪さは、きっと永遠に緩和されないのだろう。睨み合う二人の弟を見ても、私は苦笑することしか出来ない。私たちのもとに茶を持って行くという使命を完遂したレンは、満足げに私のそばに座り込んだ。そうして床に座るレンを見ていると、どうしても私の手はレンの頭に伸びてしまう。そっと撫でると、嬉しそうにレンは微笑むのだ。

「レン。馬車の中はどうだった? ヤザに嫌なこと言われたりしてない?」
「大丈夫。お互い、一言も喋ってない」
「そっか」

 同じ馬車の中で、一言も言葉を交わさないレンとヤザの姿を容易く思い描くことが出来る。馬車に乗っていた時間は、決して短くはない。その間ずっと沈黙だったというのは、それはそれで過酷な旅だ。レンは懐に手を入れて何かを取り出すと、それを私に差し出した。

「手紙、書いた」

 ヤザと二人きりになることを嫌がっていたレンに、文字を書く練習をしたらどうかと勧めたのは私だ。そしてレンは、それに従って文字を書き、手紙をしたためたのだろう。手渡された手紙を受け取る。折りたたまれており、中に書かれている文字を見ることは出来ない。それでも、うっすらと滲む墨のあとからして、たくさんの文字が書かれていることは察することが出来た。

「ありがとう。大切に読むね」
「うん」
「用事が終わったなら、さっさと出ていけ。邪魔だ、犬」

 酷い言い方をしてレンを追い払おうとするスイの言い様に、流石の私もスイを咎める。怒るように名を呼べば、スイは顔を逸らして私の叱責から逃げた。レンは従僕ではないのだ。私の大切な弟。そんな弟が親切心で茶を持ってきてくれたことに対しては感謝をすべきで、そのように出て行けと言うのは間違っている。

「ごめんね、レン」
「トーカが謝るようなことじゃない」
「そう……なのかな」

 結局、私はいつもスイを強く叱ることが出来ずにいる。そんな己自身も、レンに責められて然るべきだと思っている節があった。だからこそ、後ろめたい気持ちになるのだろう。何を言われても、レンはスイに言い返さない。そんなレンがいじらしくて、堪らなく愛おしい。

「返事を書くから、またその返事を書いてくれる?」
「書く」

 レンの返答は早かった。私の言葉に満足を得たのか、レンは立ち上がって部屋から出ていく。それでも後ろめたそうな気持ちはおもてに浮かんでおり、本当はここにいたいのだというレンの思いを感じとることが出来た。そんなレンを、小さく手を振って見送り、とうとうこの部屋は私とスイだけのものになる。

「……兄さん」

 手の中にあった手紙を開き、レンが綴った文字を眺めていた。どんどん上達している。使う言葉の種類も増えて、表現が豊かになっていた。夢中になってレンの手紙に目を通していると、兄さん、と随分控えめな声でスイが私を呼んだ。

「うん?」

 目の前に、紙が差し出されている。その紙は、スイの手に握られていた。珍しく、スイは私を見ていない。視線を逸らしながらも、ちらちらとこちらを伺っていた。どうやらスイは、戸惑いと恥じらいを感じながらその紙を私に手渡そうとしているらしい。

「……俺も、手紙を書いた。……ずっと、兄さんとは文通をしてたけど……あれは、俺であって、俺じゃなかった。……本当に、ごめん。あんなに兄さんを傷つけるって、俺には分からなくて。分かってたら、絶対にしなかった。……本当にごめんなさい」

 普段から、澱みなく言葉を発するスイにしては、とても途切れ途切れに口を動かしていた。弟の珍しい姿を眺めながら、私はスイから手紙を受け取る。愚かな私はなかなか気付けずにいたけれど、私はずっとスイと手紙のやり取りをしていたのだ。そのことを改めて理解すると、口元が自然と緩む。

「私、ラオウェイさんと手紙のやり取りするの、凄く好きだったよ。ラオウェイさんは博識で、文章も綺麗で、文字も美しくて」

 欺かれていたことに対する憤りの全てが消えたかと問われれば、分からないと答えるしかない。それでも私は、ラオウェイと偽っていたスイとの文通が好きだったのだ。それだけは、揺るがない事実だった。

「また、私と文通してくれる?」

 今度は、スイとして。言葉をそう添えると、スイは嬉しそうに微笑んで私を抱きしめた。私の手の中には、二通の手紙がある。大切な二人の弟から送られた手紙だ。こんなに幸福な兄が、私以外にいるだろうか。そんなことを本気で考えながら、スイを見つめていた。だからこそ、ゆっくりとスイが近づいてくることにも、勿論気付いていたのだ。

「……兄さん」

 触れるだけの口付けをして、近い距離でスイが私の名を呼んだ。私たちは長椅子に腰を下ろしており、近付くことも離れることも、容易く出来る。そんな状況にあって、さらに近付くことをスイは望んだ。その腕が私の腰に周り、そっと引き寄せられた。唇が触れていないだけで、私たちは口付けをしてしまいそうな距離にある。そんな近さの中で、スイが私に語って聞かせるように囁いた。

「婚礼をあげたからって、何も変わらない。俺は昔からずっと兄さんが好きだし、俺たちが公的に夫婦になるわけでもない。俺がただ、兄さんの花嫁衣装を見たかっただけ。ただ、それだけなんだけど……、なんていうか。……すごく、幸せ」

 あどけない顔でスイが笑う。少年のような笑顔だった。幼い頃から才覚を見込まれ、バイユエの頭目の座を継ぐことを期待されたスイには、子供らしい幼少期など存在しなかったのだ。常に大人に囲まれ、血生臭い話題にさらされる。昔からずっと、大人びた顔をする子だった。だと言うのに、今、私の目の前で幸せそうに、屈託なく、笑っている。それがどれだけ私を幸福な気持ちにさせるのかを、きっとスイは分かっていないのだろう。瞳が潤み、目尻に涙が浮く。私の水滴を、スイの指先がそっと拭って、舌先で舐め取った。

「新年の挨拶だ、なんて言って王都に旅行に来て。今だけはバイユエの頭目であることも忘れて。こうしてただ、のんびり兄さんと一日を過ごす。すごく、すごく、幸せだよ」

 私たちの想いが通じ合ったとしても、スイはバイユエの頭目なのだ。一日中そばにいることは出来ない。二人で過ごせる時間は専ら夜。それが不満であるわけではないが、寂しさはある。真昼の道を、手を繋いで歩いてみたいと思うこともあった。私はスイに手を伸ばし、その手を握る。窓から差し込む光は温かく、私たちを照らしている。

 幸福を噛み締めながら、スイとの間の距離を詰めた。距離といっても、はなから離れてはいなかったのだ。私は、唇を重ねるために近付いた。舌先を触れ合わせ、深く求め合う。唇と唇を重ねるということが、こんなにも私を満たすとは思わなかった。きっと今、私は笑っていることだろう。

「私も、幸せ」
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