すべては花の積もる先

シオ

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スイ編

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 そこは、私が寝かされていた小屋よりも広い空間だった。きっと、この長屋のような小屋の群衆は、大きさの異なる小屋が後から後から増築されて出来たものなのだろう。不揃いで、不格好。それでも、日々の営みのあとが見える。綺麗さはなく、板間が朽ちてはいるが、放棄された荒屋ではなかった。毎日屋台の道具をしまい、そこから毎日道具を取り出して店を開いているのだ。

「スイ……!」

 木箱の上に座っているのは、私の弟だった。怒りを込めた言葉を吐き捨てて別れたスイ。もう二度と会うものか、とすら思った瞬間もあった。けれど、こうして顔を合わせると心底安堵する。それと同時に、こんな場所で会いたくはなかったと思った。私の姿を見た瞬間、スイはぱっと明るい笑顔を浮かべる。この陰鬱とした場には相応しくないほどに、爽やかで、幸せそうな笑みだった。

「兄さん、怪我はない? 溺れたんだよね。苦しい目に遭わせて、本当にごめん」
「……そんな……そんなの、スイが謝ることじゃないよ……、私が、後先考えずに動くから……」

 こんな状況でも、スイは私のことばかりだ。不器用でも、少し歪んでいても、スイはいつだって私のために尽くしてくれる。それを改めて思い知り、私は目が熱くなった。今すぐにでもスイに駆け寄りたいけれど、私にはそれが出来ない。ジャンインが私の手首を握り続け、私の首元に匕首を向けているからだ。

 私に武器を向けるのは、スイへの牽制だろう。私の命は、スイを脅すのに有効だ。実際、スイは手も足も縛られていないが、それでも一切の抵抗を見せていない。穏やかに足を組み、私を見ている。スイのそばには不穏な空気を纏う男たちがおり、その手には剣や棍棒、角材といった諸々の武器があることなど、どうでもいいといった風貌だった。

「こんな場所に、来ちゃ駄目だよ……スイ」
「兄さんがいるなら、俺はどこにでも行くよ」

 一体、どうやって呼び出されたのだろう。本当にスイは一人なのだろうか。せめて、レンがスイと一緒に来てくれていたのなら、と思わずにはいられない。レンは今どこにいるのだろう。私が川に落ちるまでは一緒にいた。ヘイグァンに囲まれていても、レンならば一人で逃げれるはずだ。レンが事態をスイに伝えに行ってくれたのだろうか。

「随分と余裕だな」
「兄さんを解放しろ」

 ジャンインとスイが言葉を向け合う。けれど、それは会話というのには程遠いものだった。強硬な態度を崩さないスイに、ジャンインが舌打ちを打つ。その音が合図であったかのように、スイを囲む男の人が突如スイの顔を殴りつけた。スイは、それを避けることも出来ただろう。けれど、微動だにせず受け止め、何事もなかったかのように、泰然と振る舞う。

 強い力で殴られたのは確かだ。少し離れた場所にいる私の耳にも、鈍い音がはっきりと届いた。あまりにも痛々しい音に、私は顔を背けてしまったというのに、スイは穏やかな眼差しのまま私を見ている。その視線が少し逸れると、すぐさま鋭い眼光となり、まっすぐにジャンインを睨んだ。

「バイユエの頭目っていうのは、どうしてそんなに傲慢な目をしてるんだ?」
「お前の目も、随分と傲慢に見えるが?」

 言葉を投げ合う二人の間には、憎悪と殺意しか行き交っていなかった。不遜なスイの態度はヘイグァン達の怒りを買い、さらなる暴力が振るわれる。先ほどは一人の男が殴っただけだった。けれど今度は座っていた箱の上から引きずり落とされ、複数に殴る蹴るの暴行を受けていた。見ていられず、顔を背ける。耳に届く音は生々しく、痛みがこちらまで伝わってきた。

「やめて……もう、やめて……!」
「この程度で狼狽えていて、どうするんだトーカ。今からお前は、あいつが死ぬところを見るっていうのに」

 悲鳴をあげる私の手首を掴んで、ジャンインは私に眼前の光景を見るように強いた。何故、人が人を傷つけている姿を見なければいけないのか。しかも、傷つけられているのは最愛の弟なのだ。視界に少し入るだけでも辛く、私は頑なに俯き続けることしか出来なかった。

「なんで……、……なんでこんなこと……」
「何度も言っているだろう。憎いからだ。……憎いから傷つけたくなる。あの男の苦しんでいる姿でしか、俺の気持ちは癒やされない」

 人を憎む気持ち。それの欠片を、私も少し学んだ。スイに長年欺かれていることを知り、許せないという気持ちが湧いた。けれど、スイが傷ついている姿を見ても、胸に湧いた憎しみが癒やされることなどない。それは私の憎しみが浅いからなのだろうか。ならば、どれほど深い憎しみであれば、そのようなものを癒しと感じるようになるのだろう。ジャンインの胸に刻まれた憎しみとは、一体何なのだろうか。

「巻き込まれたくなければ、じっとしてろ」

 不意に、ジャンインが私から手を離す。掴まれ続けていた手首にはくっきりと手の跡がついていた。私から離れ、一体どこに行くというのか。私の目はしっかりとジャンインを捉え、スイに近づいていくその男を見ているというのに、足は竦んで動かない。ジャンインの背中にしがみついてでも、スイに近づけさせるべきではないと分かるのに、臆病な私は何も出来ずにその場に立ち尽くしていた。

 視界の先では、スイが地面に仰向けになって倒れている。その胸は上下しており、生存を確認することは出来るが、それを喜べる状況でないことくらい分かった。顔にいくつもの傷を負ったスイが首を動かして私を見る。怯え切った私を安心させるように、スイは微笑んだ。

「兄さんが生きてて、良かった。……必ず助けるから、待ってて」

 暴力を受けているはずなのに、スイのおもてには苦痛というものが見受けられなかった。もしかすると、痛みを感じていないのだろうかと思ってしまうほどに、悠々としている。ジャンインは、スイの苦しみでしか憎しみが癒せないと言っていた。だが、スイは苦しさをおもてに出さない。それゆえ、ヘイグァンたちは苛立ちを募らせ、凶器に手を伸ばした。

「やめて……」

 小さな言葉が私の口から漏れる。ヘイグァンの一人が持ち上げたのは、見るからに重そうな棍棒だった。どうしてそれをスイの真上で持ち上げるのか。そんなものを振り上げて、一体何をする気なのだ。頭の中では疑問を抱きながら、それでもきっと、心は次の瞬間に起こることを理解していたのだろう。大木の如き棍棒は、まっすぐにスイの頭部に振り下ろされた。

 悲鳴をあげることすら出来ず、私は鋭く息を呑んで口を押さえる。スイの頭部からは、血が流れ始める。地面の上に伸ばされている手が、ぴくぴくと動いていた。死んでいるわけではない。だが、だからといって安堵出来るような状態ではなかった。ジャンインが一歩一歩、スイに近づいていく。その手には、先ほどまで私に向けられていた匕首が握られているのだ。

「そう強がるな。お前はこれから死ぬ。分かるだろう? ……すぐには楽にしない。じっくりと殺しやる」

 スイが殺される。ジャンインは、本当にスイを殺そうとしている。このままでは、スイが死んでしまう。私の大切な弟が、死んでしまう。私の体はもうずっと恐怖で震えていた。弟を失ってしまうという恐怖。それに突き動かされた指先が、懐へと伸びる。そこにしまった鉄の塊に触れ、取り出した。両手で握り、習った通りに動かす。そして、構えた。

「スイから離れて」

 撃鉄を起こす音と私の声が、空間に響く。私に視線を向けたヘイグァン達は、一瞬だけ驚愕で言葉を失った。まさか、私のような無力な小物が、拳銃を手に脅してくるとは思っていなかったのだろう。ずっとレンが背負い続けてくれていた荷物袋。私のその袋を抱えたまま川に落ち、この小屋に運ばれた。袋の中には、拳銃が入れられた木箱が入っていたのだ。先ほどそれを取り出した時に、万が一に備えて懐にしまっていた。

 銃口を向けられていることに動揺したヘイグァンたち。だが、そんな中であっても、ジャンインだけは冷静だった。何故私が拳銃を持っているのかと怪訝そうな顔をして、何かを察し、納得したように感情の篭らない表情に戻る。

「……あの荷物袋の中に入っていたのか」

 小屋の中で寒さに震えながら意識を失っていた私は、ずっと荷物袋を抱きしめていた。それをジャンインも見ているのだろう。だからこそ、その袋の中に拳銃があったことを瞬時に理解した。銃口を向けられているというのに、ジャンインは落ち着き払っている。ゆっくりと私の方に歩きながら、こちらに手を差し出す。

「濡れた拳銃は危険だ。それを下せ」

 まるで私の身を案じるような言葉だ。どういうわけか、私はジャンインに殺意を向けられていない。彼の憎悪は常に、スイに向いているのだ。それはスイがバイユエの頭目だからなのだろう。だが私とて、バイユエに連なるもの。頭目の兄であり、先代頭目の息子だ。何故ジャンインは私を憎まないのだろうか。何故、危険な道具を持ち出した子供を嗜めるような言葉で、私に語りかけるのだろう。

「兄さん、そんなことしなくていい。俺のことはいいから、逃げて」

 傷だらけのスイが、掠れた声を出す。おそらく、喉を傷つけられたのだろう。そんな有様だというのに、スイは私のことばかりを気遣っている。どうして私に向けてくれる気遣いの少しだけでも、自分自身に向けてくれないのだろうか。

 ジャンインだけでなくスイまでもが、私が戦うことを望んでいなかった。私の方へと歩み続けるジャンインは、私が本気で撃つなどとは思っていないのだろう。確かにこの手は震えている。銃口は上下に揺れていて、狙いは定まらない。こんな私など、ジャンインにとっては脅威ではないのだろう。

「……私だって」

 言葉が漏れる。悔しかったのだ。怖がって震える手にも、みくびられていることにも腹が立つ。確かに私は臆病だ。人が人を傷つけるところや、血を流すところなど、出来る限り見たくない。背の者に連なる血を持ちながら、全くもってその素質がなかった。弱虫なだけの人間だ。だが、それでも。舐めるな。

「私だって……大切なものを守るためなら、なんだってする」

 ずっと私は、死水のような心で生きてきた。変わり映えもなく、生き甲斐もない。生きても、死んでも、同じだと思ってた。それは自分の命に価値を見出せず、何のために生まれ、何をするために生きているのかが分からなかったからだ。そんな私に、スイは分からせてくれた。頑固者であった私に、何度も何度も理解させてくれたのだ。

 私は、愛されて生まれてきた。父が母を愛して生まれ、父母に愛されて生を受けた。そして、愛されるために生きている。スイに目一杯愛してもらうために、スイを目一杯に愛するために、私は今も生きているのだ。だから、こんなところで失うわけにはいかない。スイの命も、私の命も、こんな場所で潰えるために今日まで歩いてきたわけではないのだ。

 生きる。必ず。生きて弟を救う。
 こんなところで、死んでたまるか。

 私の指は引き金を引いた。激しい破裂音が響き渡り、手には強い衝撃が走る。あまりにも強い力が掌を駆け抜けたことに驚き、思わず私は拳銃を手放してしまった。手がびりびりと痺れている。あまりにも一瞬の間に多くのことが起こりすぎて、理解が追いついていなかった。私が放った弾丸は、一体どこへ行ったのか。

「……っ」

 苦悶の声は、ジャンインの口から漏れた。見れば、その手は肩を抑えている。どうやら、拳銃から飛び出した弾はジャンインの肩を掠めたらしい。スイを傷つけようとするジャンインを殺そうと思って、私は引き金を引いたのだ。だというのに、重傷を負わせることすら出来ていない。私の一発は、ただジャンインを驚かせただけだった。

 それでも、私が拳銃を撃ったことがヘイグァンたちを動揺を与える。その隙を、スイは見逃さなかった。ずっと地面に背中をつけていたスイが、勢いよく状態を起こす。そして最も近くにいた男を背後から蹴飛ばし、その手にあった剣を奪った。そのままの流れて倒れ込んだ男の背中に剣を突き立てる。

 容易く人を殺すスイの反撃に狼狽えたヘイグァンの一部が、小屋から逃げ出していく。だが全員が逃げたわけではなく、すぐに体勢を立て直してスイに襲いかかる者もいた。ジャンインを殺してでもスイを助けるという私の気持ちがスイに伝わったのか、バイユエ全員を殺してここから逃げるという決意がスイからは滲み出ている。私はそんなスイの勇姿を見守っていた。だからこそ、己の失態に気付く。

 投げ出してしまった拳銃を、すぐにでも拾いに行くべきだったのだ。手はいまだに痺れていて、二発目を打つことは難しい。それでも、私が持ってさえいれば、拳銃を他の者に奪われることはなかった。ジャンインが、その拳銃を手にすることは、なかったのだ。

「スイ! 危ない!」

 響く銃声。容赦のないその音は、白煙と共にスイの足を撃ち抜いた。スイはこの場に留まったバイユエの殆どを殺し尽くしていたが、だからこそ、ジャンインの銃撃に反応することが出来なかったのだ。弾丸が足を貫通する痛みに呻き、スイは音を立てて地面に倒れ込む。
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