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スイ編
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頭がおかしくなりそうだった。否、もう可笑しくなっているのだろうか。悲しみや、怒りに似た感情に、頭が支配されている。感覚が閉ざされ、思考が重たくなった。世界から音が失せたようだ。後ろから私を呼び止めようとするレンの声すら遠い。
打ち付ける雨の中、私は走っていた。ずっと走っているような気がする。こんなにも長い間走っていられている己に驚いた。きっと、もう可笑しくなっているのだろう。感情の奔流に乱されて、疲れというものを感じとれなくなってしまっているのだ。私の体は、大河へと向かっている。川を下る船が集まる船着場へと行くためだ。
私は出発直前であった船に、ぎりぎりで駆け込む。ヨーリン川を下る船は、まっすぐにルーフェイへと向かうのだ。振り続く雨によって、川は増水していた。けれど、大きな船は荒れる水面をものともせずに進んでいく。窓から見える空は、暗いままだった。厚い雨雲が光を遮り、その上で夜がやってきている。これからどんどんと、空は闇に覆われることになるのだろう。
「トーカ、落ち着いて」
船の中は、幾つもの長椅子が並ぶような構造になっている。私とレンは、隅の椅子に腰を下ろしていた。ずぶ濡れな体のままで椅子に座ったために、足元に水溜りが出来始めている。レンが背負い続けている荷物袋も、随分と濡れてしまっていた。身を寄せ合いながら、レンが私の耳元で私を嗜めるように言う。
「……大丈夫だよ、落ち着いてる」
「そうは見えない」
雷鳴に掻き消されたラオウェイの言葉を、レンは私と共に聞いていた。その真相を知って、レンはどう思っただろうか。尋ねることすら恐ろしい。考えることを放棄して、私は周囲を伺う。船の中には、私たち以外にも客がいた。増水した川は激しい波を生み出し、その波に翻弄されるように船が揺れている。
ひときわ大きく揺れたために、船内には悲鳴が上がる。乗客たちを落ち着かせるために、船頭が船は絶対に安全だと強調していた。その話の中で、少しばかり危険な船旅になるかもしれないが、いつもよりは早く着くだろうと言う。私にとって、それは好都合だった。
父に何も言わずに飛び出してきたことを思い出す。大切な荷物は全て、レンが背負う荷物袋の中に入っているが、それでも残してきてしまったものもある。いつか、取りに行かなければ。けれど、と思った。そんないつかは、私に訪れるのだろうか。後先のことなど、もう何も考えられない。激情に振り回されながら、私はここに辿り着いた。そのことを、少しも後悔していないのだ。飛び出さなければならなかった。船に飛び乗って、ルーフェイへと帰らなければならなかったのだ。
押し黙る私を、レンの腕が抱きしめる。他人のぬくもりに触れて、初めて自分の体が冷え切っていることに気付く。雨に濡れた体を、冬に向かう季節の風が撫でる中で走っていたのだ。この体が冷えるのも当然のことだった。今はただ、身を寄せ合っているレンのぬくもりだけを感じる。
窓から見える景色は、さらに闇に包まれていた。夜が深くなる。闇の中を進む船は、とても不気味に思えた。行き先も分からないままに進んでいるようで、恐ろしい。けれど、今はそんな不気味さも、恐ろしさも、私の心には届かない。
夜の底へと落ち、ゆっくりと朝へ向かっていく。レンの腕の中で、私は一睡もしないまま朝を迎えた。外はそれでも暗い。空を覆う曇天がまだ居座り、雨が降っていた。朝陽の見えない朝は、鬱々とした気持ちにさせる。私は、薄暗いルーフェイに辿り着いた。王都からルーフェイへと続くヨーリン川は、海に近づいてもなお荒々しいままだ。川は濁り、乳白色に似た水に満ちている。そんな川に一瞥を向けた後、私は歩き始めた。体は疲れを知らず、止まることなく足を動かし続ける。
見慣れた門の前に立つ。瞬く間に屋敷にたどり着いたような感覚があった。先程まで私は王都にいたのに、もう我が家とも言える場所にいたのだ。愛されていることを自覚して幸せの頂に立っていたと言うのに、今では全てに憤りを抱く奈落に落ちている。雨の中歩き続けたせいで、船の中で乾いた体が再び濡れていた。私は屋敷の中を進む。足は、まっすぐにスイの部屋に向かった。
「どういうつもり」
自分でも驚くほどの冷たい声が喉から出ていく。許しもなく扉を開け、私はスイの部屋へとやって来た。私の到来を認め、スイは腰を下ろしていた椅子から立ち上がる。そしてゆっくりと、私のもとへとやって来た。ずっと、会いたかった。離れがたいと感じていた。なのに。どうしてこんな気持ちで、スイの前に立たなければいけないのだろう。
「おかえり、兄さん。体が冷えてる。まずは風呂に入って」
「答えて、スイ」
スイの手が私の肩に触れる。気遣うようなその手が、私を苛立たせた。私が急に帰って来たことに対して、スイには驚きがない。つまり、分かっていたのだ。私が王都を飛び出したと言うことを。私の目をまっすぐに見つめながら、スイは静かに詫びる。
「申し訳なかったと、思っているよ」
「知ってるんだね。私が誰に何を聞いたかっていうことを」
「影は、兄さんたちよりも早くルーフェイに戻ってきた」
私を守るため、そして私の情報の全てを把握するため、影と呼ばれる存在が私のそばに入る。私に気取られないように、私の生活に入り込まないようにと、彼らは徹底していた。そんな彼らは、どういうわけか私よりも早くこの屋敷に戻り、私の様子をスイに報告したのだろう。だからこそ、扉を突き飛ばす勢いで入ってきた私の存在に驚くこともなく、私が何について責めているのかもスイは理解している。
「墓参りに行っても、今までの兄さんは一度たりともラオウェイに会おうとはしなかった。でも、今年は会いに行ったんだね」
「……自分に、自信がついたんだよ。今までは、私なんかが会いに行ってもって思ってた。でも、愛されていることが分かって、私なんかって、思うのはやめようと思った。だから、会いに行く勇気が持てたんだよ。その気持ちを教えてくれたのは、スイだったのに。……なのに!」
目が熱くなる。私は叫んでいた。スイに詰め寄りながら、拳を握りしめる。ラオウェイに会いに行こうという気持ちにさせてくれたのはスイなのに、その気持ちが全ての偽りを暴いてしまった。それそのものの善悪は分からない。だからこそ、私は問い質さなければいけないのだ。
「私の絵を買っていたのは、スイなんでしょう?」
私は知った。知ってしまった。ラオウェイに一度会って違和感を抱き、己の絵が凡庸であるとの評価を受け、再びラオウェイに会う。そこで全ての真実を知ったのだ。シンリンに住む貴族の末席であるラオウェイは、その存在をスイに差し出していた。だからこそ、ラオウェイの名を騙り私の絵を買っていたのはスイなのだ。
「私が手紙を送っていたのも、私に返事をくれたのも、……スイなんだよね?」
ラオウェイとの手紙のやりとりは、とても楽しかった。思慮深く、博識で、穏やかな性格が紙上の文字から伝わってくる。その印象は、実際に会いに行ったラオウェイからは感じ取れなかった。思えば、その文面からはスイの気配が漂っていたのだ。どうして気付かなかったのだろう。スイは、小さく微笑む。そして頷いた。
「そうだよ」
否定して欲しかったのかもしれない。私は誤解をしていて、何もかも間違っていると言って欲しかった。絵を買ったのは、王都にいるラオウェイで、私と手紙を交わし合っていたのも、あの人。そうであったら良かったのに。スイはこれ以上の誤魔化しをしなかった。
「最初は偽装のために、ラオウェイにも兄さんの手紙の内容をきちんと把握させていただけど、だんだんその警戒も薄れてしまっていた。兄さんは、あの男に会いに行かないだろうと油断してしまったんだ」
「どうして……別人を用意してまで、そんなことを……」
「あの男は本当にこの国の貴族。格は随分と下で、俺の金でその地位を保っている程度の小物。だから、名を借りるには丁度いいと思ったんだ」
「そんなことは聞いてない。どうして、こんな小細工をしてまで、私の絵を……!」
「だって。そうでもしないと、兄さんは俺に絵をくれないだろう。俺は兄さんの絵に対して、対価を支払いたかったんだよ」
愕然とする。スイの物言いは、随分と子供染みて聞こえた。己の素性を隠して、偽りの存在を金で買って。そこまでして、私の絵を買おうとするなんて、可笑しい。確かに、かつての私はスイとの間に距離を置きたがり、絵を差し出すなどということは金銭が絡まずとも拒否しただろう。だからと言って、スイの行動を肯定することは私には出来ない。目を見開いて、弟を見る。私には、スイが分からなかった。
「金を貯めることが、兄さんの気持ちを支えているようでもあったし」
その言葉は、私の心の奥深くまで突き刺さる。笑えて来てしまった。低い声で笑う。愉快だったからではない。滑稽だったからだ。己自身が惨めで、哀れで、笑わずにはいられなかった。己の部屋の中に置いた箪笥、その上に乗った木箱。私が貯金箱にしているそれに、私は絵の売り上げをせっせと入れていた。微々たる金額だ。それでも大切で、誇らしかった。スイの言う通り、あのお金は私の心の支えだった。だからこそ、受け入れられない。
「……私は、スイの施しを喜んでいたの……?」
「施しじゃない。それは違うよ」
「違わないよ……私の絵に価値はない。上手くもないし、技術もない。あんなお金をもらえるわけがなかったんだよ!」
画術を学んだことのない、凡庸な絵。趣味の域を出ないと言う画家たちの言葉は、適切だった。私程度の絵では、一銭も稼ぐことはできない。分かっていた。本当はきっと、どこかで分かっていたのだ。それでも、ラオウェイには好いてもらえていると思って、お金を喜んで受け取っていた。実際のところ、スイは私の絵の出来栄えなどどうでも良いのだろう。私が描いた絵が欲しいだけで、上手く描けた絵も、そうでない絵も、スイにとっては同じなのだ。
「ずっとずっと……、私を騙してたんだ」
「ごめん、兄さん」
スイの謝罪を聞きながら、謝って欲しかったのは、今ではないのだと強く思った。偽りを始めたその瞬間に、謝って欲しかった。私の喜びが何であるかを、もう一度しっかり考えて欲しかったのだ。俯きながら、床を睨む。瞳から零れ落ちる涙はぽたぽたと大粒のまま落ちていった。
「どんな気持ちで、私を見てたの……?」
「俺はただ兄さんに、喜んで欲しかった」
許せないと思った。スイの中に存在する倫理観が、私と一致しているとは、はなから思っていない。だからこそ、迂遠な方法で私の絵に金銭を与え、私の心を支えることが、スイとっては肯定される手段だったのだろう。だが、それでも、それだけは許せない。
「……ふざけるな」
悔しかったし、悲しかった。そんなもので、喜ぶと思われていたことが、何よりも歯痒かった。王都に向かうため、馬車に乗った時の高揚感は全て潰えた。幸せで、喜びに満ちて、自信に溢れていたのだ。だと言うのに、今の私は怒りと憤りに満ちている。長年欺かれてた事実、弟の気持ちを受け止めきれない己の狭量、そしてラオウェイからの評価や手紙を手放しに喜び続けていた己の愚鈍さに、深く深く絶望した。感情の全てが私の許容量を超え、爆発する。
「私を馬鹿にするのもいい加減にしろ!」
泣き叫ぶ。そして弾かれる勢いのまま、私は部屋を飛び出した。私の動きに即座に反応したレンが、私のあとに続く。今までずっと私のそばにいてくれたレンは、ラオウェイが何を語ったのかを知っている。だからこそ、私の怒りを理解してくれているのだろう。共に駆け出し、雨の降る屋敷の外へと走り去る。
「待って、兄さん!」
私を追いかけてきたスイも、雨に濡れ始める。走る速度は、当然私よりもスイの方が早い。このままでは追いつかれるのも時間の問題だった。もし追いつかれたら、どうなるのだろう。スイは私の手首を掴んで、屋敷へ連れ戻すだろうか。無理強いはしないにしても、促すはずだ。その段階になってしまえば、私は上手く丸め込まれてしまうかもしれない。それだけは嫌だ。全てを許し、何事もなかったかのように日常に戻ることなど、私には出来ない。
「ついて来ないで! もう二度とスイには会いたくない!」
拒絶の言葉を吐き捨てる。私は振り返ることなく前へと走り続けた。行く宛などない。けれど、ここにはいたくない。そんな気持ちを抱えた一本の矢のような私が、後先考えずに前へと突き進む。もうずっと、心は私の制御下から離れていた。すでに理性など感情に殴殺されている。これはまさに、初めての経験だった。感情のままに走り、感情のままに叫ぶ。そして私は口を開き、弟を傷つけると分かっていて、その言葉を放ったのだ。
「スイなんて嫌いだ!」
打ち付ける雨の中、私は走っていた。ずっと走っているような気がする。こんなにも長い間走っていられている己に驚いた。きっと、もう可笑しくなっているのだろう。感情の奔流に乱されて、疲れというものを感じとれなくなってしまっているのだ。私の体は、大河へと向かっている。川を下る船が集まる船着場へと行くためだ。
私は出発直前であった船に、ぎりぎりで駆け込む。ヨーリン川を下る船は、まっすぐにルーフェイへと向かうのだ。振り続く雨によって、川は増水していた。けれど、大きな船は荒れる水面をものともせずに進んでいく。窓から見える空は、暗いままだった。厚い雨雲が光を遮り、その上で夜がやってきている。これからどんどんと、空は闇に覆われることになるのだろう。
「トーカ、落ち着いて」
船の中は、幾つもの長椅子が並ぶような構造になっている。私とレンは、隅の椅子に腰を下ろしていた。ずぶ濡れな体のままで椅子に座ったために、足元に水溜りが出来始めている。レンが背負い続けている荷物袋も、随分と濡れてしまっていた。身を寄せ合いながら、レンが私の耳元で私を嗜めるように言う。
「……大丈夫だよ、落ち着いてる」
「そうは見えない」
雷鳴に掻き消されたラオウェイの言葉を、レンは私と共に聞いていた。その真相を知って、レンはどう思っただろうか。尋ねることすら恐ろしい。考えることを放棄して、私は周囲を伺う。船の中には、私たち以外にも客がいた。増水した川は激しい波を生み出し、その波に翻弄されるように船が揺れている。
ひときわ大きく揺れたために、船内には悲鳴が上がる。乗客たちを落ち着かせるために、船頭が船は絶対に安全だと強調していた。その話の中で、少しばかり危険な船旅になるかもしれないが、いつもよりは早く着くだろうと言う。私にとって、それは好都合だった。
父に何も言わずに飛び出してきたことを思い出す。大切な荷物は全て、レンが背負う荷物袋の中に入っているが、それでも残してきてしまったものもある。いつか、取りに行かなければ。けれど、と思った。そんないつかは、私に訪れるのだろうか。後先のことなど、もう何も考えられない。激情に振り回されながら、私はここに辿り着いた。そのことを、少しも後悔していないのだ。飛び出さなければならなかった。船に飛び乗って、ルーフェイへと帰らなければならなかったのだ。
押し黙る私を、レンの腕が抱きしめる。他人のぬくもりに触れて、初めて自分の体が冷え切っていることに気付く。雨に濡れた体を、冬に向かう季節の風が撫でる中で走っていたのだ。この体が冷えるのも当然のことだった。今はただ、身を寄せ合っているレンのぬくもりだけを感じる。
窓から見える景色は、さらに闇に包まれていた。夜が深くなる。闇の中を進む船は、とても不気味に思えた。行き先も分からないままに進んでいるようで、恐ろしい。けれど、今はそんな不気味さも、恐ろしさも、私の心には届かない。
夜の底へと落ち、ゆっくりと朝へ向かっていく。レンの腕の中で、私は一睡もしないまま朝を迎えた。外はそれでも暗い。空を覆う曇天がまだ居座り、雨が降っていた。朝陽の見えない朝は、鬱々とした気持ちにさせる。私は、薄暗いルーフェイに辿り着いた。王都からルーフェイへと続くヨーリン川は、海に近づいてもなお荒々しいままだ。川は濁り、乳白色に似た水に満ちている。そんな川に一瞥を向けた後、私は歩き始めた。体は疲れを知らず、止まることなく足を動かし続ける。
見慣れた門の前に立つ。瞬く間に屋敷にたどり着いたような感覚があった。先程まで私は王都にいたのに、もう我が家とも言える場所にいたのだ。愛されていることを自覚して幸せの頂に立っていたと言うのに、今では全てに憤りを抱く奈落に落ちている。雨の中歩き続けたせいで、船の中で乾いた体が再び濡れていた。私は屋敷の中を進む。足は、まっすぐにスイの部屋に向かった。
「どういうつもり」
自分でも驚くほどの冷たい声が喉から出ていく。許しもなく扉を開け、私はスイの部屋へとやって来た。私の到来を認め、スイは腰を下ろしていた椅子から立ち上がる。そしてゆっくりと、私のもとへとやって来た。ずっと、会いたかった。離れがたいと感じていた。なのに。どうしてこんな気持ちで、スイの前に立たなければいけないのだろう。
「おかえり、兄さん。体が冷えてる。まずは風呂に入って」
「答えて、スイ」
スイの手が私の肩に触れる。気遣うようなその手が、私を苛立たせた。私が急に帰って来たことに対して、スイには驚きがない。つまり、分かっていたのだ。私が王都を飛び出したと言うことを。私の目をまっすぐに見つめながら、スイは静かに詫びる。
「申し訳なかったと、思っているよ」
「知ってるんだね。私が誰に何を聞いたかっていうことを」
「影は、兄さんたちよりも早くルーフェイに戻ってきた」
私を守るため、そして私の情報の全てを把握するため、影と呼ばれる存在が私のそばに入る。私に気取られないように、私の生活に入り込まないようにと、彼らは徹底していた。そんな彼らは、どういうわけか私よりも早くこの屋敷に戻り、私の様子をスイに報告したのだろう。だからこそ、扉を突き飛ばす勢いで入ってきた私の存在に驚くこともなく、私が何について責めているのかもスイは理解している。
「墓参りに行っても、今までの兄さんは一度たりともラオウェイに会おうとはしなかった。でも、今年は会いに行ったんだね」
「……自分に、自信がついたんだよ。今までは、私なんかが会いに行ってもって思ってた。でも、愛されていることが分かって、私なんかって、思うのはやめようと思った。だから、会いに行く勇気が持てたんだよ。その気持ちを教えてくれたのは、スイだったのに。……なのに!」
目が熱くなる。私は叫んでいた。スイに詰め寄りながら、拳を握りしめる。ラオウェイに会いに行こうという気持ちにさせてくれたのはスイなのに、その気持ちが全ての偽りを暴いてしまった。それそのものの善悪は分からない。だからこそ、私は問い質さなければいけないのだ。
「私の絵を買っていたのは、スイなんでしょう?」
私は知った。知ってしまった。ラオウェイに一度会って違和感を抱き、己の絵が凡庸であるとの評価を受け、再びラオウェイに会う。そこで全ての真実を知ったのだ。シンリンに住む貴族の末席であるラオウェイは、その存在をスイに差し出していた。だからこそ、ラオウェイの名を騙り私の絵を買っていたのはスイなのだ。
「私が手紙を送っていたのも、私に返事をくれたのも、……スイなんだよね?」
ラオウェイとの手紙のやりとりは、とても楽しかった。思慮深く、博識で、穏やかな性格が紙上の文字から伝わってくる。その印象は、実際に会いに行ったラオウェイからは感じ取れなかった。思えば、その文面からはスイの気配が漂っていたのだ。どうして気付かなかったのだろう。スイは、小さく微笑む。そして頷いた。
「そうだよ」
否定して欲しかったのかもしれない。私は誤解をしていて、何もかも間違っていると言って欲しかった。絵を買ったのは、王都にいるラオウェイで、私と手紙を交わし合っていたのも、あの人。そうであったら良かったのに。スイはこれ以上の誤魔化しをしなかった。
「最初は偽装のために、ラオウェイにも兄さんの手紙の内容をきちんと把握させていただけど、だんだんその警戒も薄れてしまっていた。兄さんは、あの男に会いに行かないだろうと油断してしまったんだ」
「どうして……別人を用意してまで、そんなことを……」
「あの男は本当にこの国の貴族。格は随分と下で、俺の金でその地位を保っている程度の小物。だから、名を借りるには丁度いいと思ったんだ」
「そんなことは聞いてない。どうして、こんな小細工をしてまで、私の絵を……!」
「だって。そうでもしないと、兄さんは俺に絵をくれないだろう。俺は兄さんの絵に対して、対価を支払いたかったんだよ」
愕然とする。スイの物言いは、随分と子供染みて聞こえた。己の素性を隠して、偽りの存在を金で買って。そこまでして、私の絵を買おうとするなんて、可笑しい。確かに、かつての私はスイとの間に距離を置きたがり、絵を差し出すなどということは金銭が絡まずとも拒否しただろう。だからと言って、スイの行動を肯定することは私には出来ない。目を見開いて、弟を見る。私には、スイが分からなかった。
「金を貯めることが、兄さんの気持ちを支えているようでもあったし」
その言葉は、私の心の奥深くまで突き刺さる。笑えて来てしまった。低い声で笑う。愉快だったからではない。滑稽だったからだ。己自身が惨めで、哀れで、笑わずにはいられなかった。己の部屋の中に置いた箪笥、その上に乗った木箱。私が貯金箱にしているそれに、私は絵の売り上げをせっせと入れていた。微々たる金額だ。それでも大切で、誇らしかった。スイの言う通り、あのお金は私の心の支えだった。だからこそ、受け入れられない。
「……私は、スイの施しを喜んでいたの……?」
「施しじゃない。それは違うよ」
「違わないよ……私の絵に価値はない。上手くもないし、技術もない。あんなお金をもらえるわけがなかったんだよ!」
画術を学んだことのない、凡庸な絵。趣味の域を出ないと言う画家たちの言葉は、適切だった。私程度の絵では、一銭も稼ぐことはできない。分かっていた。本当はきっと、どこかで分かっていたのだ。それでも、ラオウェイには好いてもらえていると思って、お金を喜んで受け取っていた。実際のところ、スイは私の絵の出来栄えなどどうでも良いのだろう。私が描いた絵が欲しいだけで、上手く描けた絵も、そうでない絵も、スイにとっては同じなのだ。
「ずっとずっと……、私を騙してたんだ」
「ごめん、兄さん」
スイの謝罪を聞きながら、謝って欲しかったのは、今ではないのだと強く思った。偽りを始めたその瞬間に、謝って欲しかった。私の喜びが何であるかを、もう一度しっかり考えて欲しかったのだ。俯きながら、床を睨む。瞳から零れ落ちる涙はぽたぽたと大粒のまま落ちていった。
「どんな気持ちで、私を見てたの……?」
「俺はただ兄さんに、喜んで欲しかった」
許せないと思った。スイの中に存在する倫理観が、私と一致しているとは、はなから思っていない。だからこそ、迂遠な方法で私の絵に金銭を与え、私の心を支えることが、スイとっては肯定される手段だったのだろう。だが、それでも、それだけは許せない。
「……ふざけるな」
悔しかったし、悲しかった。そんなもので、喜ぶと思われていたことが、何よりも歯痒かった。王都に向かうため、馬車に乗った時の高揚感は全て潰えた。幸せで、喜びに満ちて、自信に溢れていたのだ。だと言うのに、今の私は怒りと憤りに満ちている。長年欺かれてた事実、弟の気持ちを受け止めきれない己の狭量、そしてラオウェイからの評価や手紙を手放しに喜び続けていた己の愚鈍さに、深く深く絶望した。感情の全てが私の許容量を超え、爆発する。
「私を馬鹿にするのもいい加減にしろ!」
泣き叫ぶ。そして弾かれる勢いのまま、私は部屋を飛び出した。私の動きに即座に反応したレンが、私のあとに続く。今までずっと私のそばにいてくれたレンは、ラオウェイが何を語ったのかを知っている。だからこそ、私の怒りを理解してくれているのだろう。共に駆け出し、雨の降る屋敷の外へと走り去る。
「待って、兄さん!」
私を追いかけてきたスイも、雨に濡れ始める。走る速度は、当然私よりもスイの方が早い。このままでは追いつかれるのも時間の問題だった。もし追いつかれたら、どうなるのだろう。スイは私の手首を掴んで、屋敷へ連れ戻すだろうか。無理強いはしないにしても、促すはずだ。その段階になってしまえば、私は上手く丸め込まれてしまうかもしれない。それだけは嫌だ。全てを許し、何事もなかったかのように日常に戻ることなど、私には出来ない。
「ついて来ないで! もう二度とスイには会いたくない!」
拒絶の言葉を吐き捨てる。私は振り返ることなく前へと走り続けた。行く宛などない。けれど、ここにはいたくない。そんな気持ちを抱えた一本の矢のような私が、後先考えずに前へと突き進む。もうずっと、心は私の制御下から離れていた。すでに理性など感情に殴殺されている。これはまさに、初めての経験だった。感情のままに走り、感情のままに叫ぶ。そして私は口を開き、弟を傷つけると分かっていて、その言葉を放ったのだ。
「スイなんて嫌いだ!」
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