すべては花の積もる先

シオ

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 騒動の火種が全て消えた。その事実を淡々と告げるトーカのおもてはあまりにも沈痛で、見ているこちらが辛くなる。誰かの死を無感情に語れるほど、トーカの心は強くない。それでもトーカは全てを受け入れ、苦しみと悲しさを背負って前へ進もうとしていた。平和な毎日が続くこと。それがトーカの願いなのだろう。俺もトーカと同じように、トーカが穏やかに過ごせる日々を祈る。

「……ふぅ」
「トーカ、疲れた? 背負おうか」
「大丈夫だよ。あと少しで着くし、自分の足で歩きたい」
「分かった」

 川の匂いに潮が混じり始めた頃、トーカの吐息に疲労が滲みだす。声をかけてみたものの、案の定、大丈夫だと拒否された。本当はどこに行くにしてもトーカを抱えて歩きたい。トーカの足が地につくことなく、ずっと運んでいたいのだ。だがそんな俺の我儘を、トーカは絶対に許さないだろう。そしてトーカは、最後まで己の足で歩き切った。

 強い風が吹き抜けている。絶壁に当たる海風が、そのまま行き場を失って真上へ上がるのだ。トーカが被る笠が激しく揺れ、飛んで行きそうになった。敢えて笠を外して、笠がどこかへ旅立ってしまうことを、トーカが防ぐ。

 一歩進めば、そのまま地の底へと落下していってしまいそうな崖だ。心に絶望を抱える者を、容易く死へと導いてしまう。あの日、ズーユンがここに立っていたのも道理だったと今では思える。崖から数歩離れた場所に、小さな塚が立っていた。その塚の前でトーカは膝を折って座り込んだ。以前来た時には、このような塚はなかったはずだ。俺は訝しく思いながら、トーカに問う。

「それは?」
「ズーユンさんのお墓。スイに頼んでおいたんだ。もし、亡骸があるのなら、あの崖に埋めてあげて欲しいって」

 なるほど、と俺は頷く。この地面の下に、ズーユンが眠っているのだ。おそらくは、切断された足と共に。そのような状態で彼女の魂が穏やかであるかは不明だが、それでも塚を建てたいと願ったトーカの優しさは、女の嘆きを癒したことだろう。

「遺体を引き取る家族もいないだろうし、逃げ出そうとした娼婦を娼館が手厚く埋葬してくれることもないと思って。……でも、こんなことでは少しもズーユンさんの慰めになってない。これは、私の自己満足なんだよ」

 座り込んだまま、トーカは懐から帳面と絵筆を取り出す。そして、その手は勢いのままに真っ白だった紙の上に世界を描いた。トーカの内に閉じ込められた激情を一気に解放するかのような筆使いだ。崖、そこから飛び立つ女、女は天へと昇っていく。普段、風景画しか描かないトーカが、珍しく人物を描いている。

 横顔を見れば、トーカは強く唇を噛み締めていた。目元も赤らんでおり、今にも泣いてしまいそうだ。けれど、トーカは泣かない。涙を流す代わりに筆を持ち、彼女の魂が安らかに眠れるようにと絵を描いている。俺が知る中では、あの夜以来、初めて描く絵だった。

「あの日、ズーユンさんに出会わなければ良かった。出会ってしまったのなら、ズーユンさんの計画にいち早く気付いて、引き留めれば良かった。……考えれば考えるほど、後悔が湧いてきて仕方がなかった」

 手を止めることなく、トーカが言葉を紡ぐ。強い風が吹き抜けており、この場は静寂とは程遠い。それでも、トーカの声はしっかりと俺の耳に届いていた。悔しさと嘆きを吐き出すようにトーカは口を動かす。

「でももう、起こってしまったことは変えられない。あの日あの時の時点では、私にもズーユンさんにも、あの選択肢しかなかったんだって。そう思うことにした。……そう思わないと、私が前に進めないから」

 すん、と鼻が鳴る音が聞こえた。堪え切れなくなった涙が一筋、トーカの目尻から零れ落ちて頬を濡らす。それからは、堰を切ったかのように大粒の涙が次から次へと流れ落ちていった。トーカは、ちゃんと泣けていたのだろうか。彼女の死を、トーカが悲しまないわけがないのだ。心の中の苦しさを全て吐き出せるほどに、嗚咽しただろうか。俺が見ていないところで、大声をあげて泣き叫んでいられたのなら、それでいい。こうして声を漏らして泣くのが、これが初めてでないことを俺は心の底から祈った。

「ごめんなさい、ズーユンさん」

 絵は描き終わり、トーカは地面に手をついて頭を下げる。桃色の髪が風に揺られながら、地の上に広がっていく。ズーユンのために描かれた絵には、船が描き足されていた。崖から落ちるも、船に乗って天へと旅立っていく女。解放と旅立ち。彼女が望んだものの全てが、その一枚には込められていた。どうしてこうならなかったのだろう。計画が杜撰だったからだ。答えはそれに尽きる。だがそれでも、どうして運命は彼女にここまで辛く当たったのだろうかと考えてしまった。ズーユンが悲惨な死を迎えなければ、トーカがこうして苦しむこともなかった。

 泣きながら、トーカはその絵を帳面から千切る。そして、そのまま手を離した。風に運ばれるまま、絵は空へと舞い上がり、そしてあっけなく崖の下へと落ちていく。その姿を、トーカは泣き腫らした目で眺めていた。きっとこれは決別だったのだ。前へ進むために、トーカはここへ来た。

「行こう、トーカ。もう十分だ」

 伏したままのトーカの肩を支えて、抱き起こす。直後、俺の体に衝撃が与えられた。トーカが、俺に抱きついたのだ。俺は地面に尻餅をつく形で、トーカを受け止める。こんなふうにトーカが抱きついてくることは滅多にない。俺は驚きを感じながらも、しっかりとトーカを抱きしめていた。

「ずっとそばにいてくれて、ありがとう。レン」

 俺の胸に顔を押し付けたまま、トーカが言う。華奢な体を抱きしめながら、感謝をされる理由を考えた。だが、俺はトーカに感謝されるようなことなどしていないという考えに至る。そばにいたのは、俺がそばにいたかったからだ。感謝されるようなことではない。それを伝える前に、トーカが顔をあげて言葉の続きを口にする。

「本当に、駄目な兄でごめんね。弟たちがいなかったら、きっと私はもう死んでいたよ。……これからも情けない兄を、よろしくね」

 困ったように笑いながら、トーカはそう言った。その瞬間に俺が思ったのは、限界だ、ということ。これ以上、トーカのその言葉を受け入れることが出来ない。そう思ってしまった。糸が、張り詰めている。ずっとずっと、切れてくれるなと願い続けてきた感情の糸が。耐えてきたというのに、ここにきて呆気なくその糸が切れてしまった。ぷつん。それは、あまりにも唐突だった。

「俺は、トーカを兄だと思ったことはない」

 兄弟。その言葉を喜んで受け入れることが出来たのは、いつ頃までだっただろうか。抱いた慕情が劣情に変わった出来事は、何だったのだろうか。もう記憶も朧げだ。それでも好きだった。愛していた。この思いが、兄へ向けるものでないことは分かっている。だからこそ、俺はもうずっとトーカを兄として見ていないのだ。

「……え?」

 トーカのおもてには、戸惑いが。心底、俺を弟だと思っていたからこその表情だ。やはり、トーカの倫理は歪んでいると言わざるを得ない。普通、兄弟で肌に触れ合うようなことはないのだ。俺はトーカと出会う前、複数の孤児たちと共に生きていた。その中には血の繋がった兄弟も、絆で繋がっただけの兄弟もいたが、それでも俺やトーカ、あるいはトーカとあいつのような親密さを持つ兄弟など、どこにもいなかったのだ。

「幼い頃は、トーカのことを主人だと思っていた。……俺を拾ってくれた人。俺を救ってくれた人。恩返しがしたかったし、尽くしたかった。でも……今は、」

 唇を閉ざす。続く言葉を紡ぐには、大きな勇気が必要だった。俺は身の程知らずで、強欲だ。だから、届かぬ星に手を伸ばす。釣り合わないと分かっていても、己のものにしたくてたまらなくなるのだ。

 バイユエの人間が俺のことを犬と蔑むことを、トーカが快く思っていないことは知っている。それでも俺は、その言葉を俺は否定しない。まさしく、路傍の野良犬だった。道に並ぶ店の隅に座り込んでおこぼれに預かりたいと、物欲しそうな目で世界を見上げる。そんな俺に、トーカが手を差し伸べてくれた。孤独だった俺に、居場所をくれたのだ。俺の全て。

「今の俺にとって、トーカは……、最愛の人」

 こんな時に言うべきことではないと、分かっている。トーカは苦しみを吐き出して、辛い出来事と決別しようとしているのだ。そんなトーカにとって、俺の告白など無駄に戸惑わせるだけだと分かっていた。それでも、我慢が出来なかった。糸が切れてしまったのだから、もう我慢など出来るわけがなかった。

「兄弟なんていう気持ちでは、抑えきれない。トーカが好きだ。トーカが欲しい」

 顔を見なくて済むように、深く抱きしめる。トーカの頭の後ろに手を添えて、引き寄せた。今だけはトーカの表情を見たくない。どんな顔で俺を見ているのかを知るのが、恐ろしかったからだ。腕の中に閉じ込めたこのぬくもりを、誰にも奪われたくなかった。俺だけのものになって欲しかった。過ぎるほどの強欲を噛み潰しながら、俺は唸るように声を吐き出す。

「トーカが俺に求めていたのは、弟としての役割なんだって、分かってる。でも、それだと俺はもう満足できない」

 俺は、トーカが亡くした犬の代わりだった。愛玩の対象。それが少し出世して、弟にしてもらったのだ。与えられた役割を、俺は喜んで果たしていた。今とて、トーカに弟だと言われて頭を撫でられれば喜びを感じる。それでも、それだけでは足りないと胸の真ん中に鎮座する心が獰猛に叫ぶのだ。

「ごめん、トーカ。……愛してる」

 侘びながら、愛を伝えた。トーカ以外に、人を愛したことがない。この胸に宿る感情が、愛なのか、独占欲なのかも分からない。それでも俺は、この熱情に愛と名をつけた。ただ一人に焦がれ続けるこの思いが、愛でないのなら一体何だというのか。

「誰にも渡したくない。あいつに、触らせたくない」

 きっと、弟が一人だけであったなら、トーカは戸惑いながらも俺の思いを受け入れてくれたことだろう。だが、不幸なことに、トーカには弟が二人いる。そしてその二人が、狂おしいほどにトーカを求めていた。どちらかが選ばれ、どちらかが選ばれない。そんな未来が訪れる。俺は恐れを抱きながら、その日を待つのだ。

「俺だけのものになって、トーカ。俺を選んで」

 祈るように。縋るように。吹き抜ける風に負けてしまいそうなか細い声で、俺はトーカに懇願した。腕の中の小さな体は震えている。きっと、泣いているのだ。声も出さずに、ただ静かに。選択を強いられ、トーカは泣いていた。
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