すべては花の積もる先

シオ

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 それは、とても大きな風呂だった。いつも私が使っている風呂桶が、茶器か何かであると感じるほどに大きい。そもそも、比べることすら烏滸がましいと思わせる広々とした湯殿だった。屋敷の一階の隅に、この場所がある。普段足を踏み入れることがない領域に、私は来ていた。疲労が蓄積され、少しも体を動かせなくなった私を、スイが軽々と抱えてここまで連れてきたのだ。

「湯加減はどう?」

 スイが、私の耳のそばで静かに問いかけた。私は今、湯船の中に腰を下ろしている。背後にはスイがいて、私の体を後ろから抱きしめるようにして支えてくれていた。風呂の中であるため、スイも私も、もちろん裸だ。だが、それを恥ずかしいと思う気持ちの余裕が、今の私にはない。疲れ果て、緊張し続けたのだ。そんな張り詰めた糸がぷつんと切れて、今はひたすらに眠い。

「丁度いいよ。……とても気持ち良い」

 そう答えるのがやっとて、目もしっかりと開くことが出来ない。湯殿の中にはいくつもの燭台が置かれており、ほのかに明るい。ゆらゆらと揺れる光が水面に映っている。その動きに合わせて、私の頭も船を漕ぎ始めてしまった。

「ここはバイユエの頭目と、頭目が許した者だけが入れる湯殿なんだ。俺はこんな広い風呂じゃなくて良いから滅多に使ってないけど、父さんは気に入った女たちとよく一緒に入っていたらしいよ。きっと、シアさんも父さんと入っていただろうね」
「……母さんが?」
「うん。そうだよ。そこに今、俺と兄さんが入ってる」

 スイが放った言葉の意味もよく分からないままに、相槌すら出来ず私はぼうっとしてしまう。母さんが入っていた湯殿に自分もいるということは、少しばかり私を幸せな気持ちにした。大喜びする訳ではなく、かといって無感動な訳でもない。少しだけ、気持ちを快いものにする程度の幸福だった。

「今日は色々と疲れただろう。ゆっくりと湯に浸かって、体を癒して」

 私の肩にそっと手で掬った湯をかけながら、スイが首筋や鎖骨のあたりを撫でる。心地よくて、意識がさらに遠のいていった。そもそも、何故私がスイと入浴しているのかといえば、レンを医者に診せることに対する対価を払うためだった。だからこそ、またこの湯船の中で何かをスイに要求されると思っていたのだ。けれど、そのようなことはなく、スイはただ私を甲斐甲斐しく世話して、私は弟に与えられる気持ちよさを享受しているだけだった。本当に、こんなことが対価で良いのだろうか。

「兄さん、風呂の中で寝るのは危ないよ」
「……うん、ごめん……そうだね」

 口の動きが鈍い。なんとか返事は出来たけれど、もう両目を開くことは困難だった。揺れる頭を、スイの手がそっと支えてくれているおかげで、なんとか湯船の中に顔を突っ込むような事態にならずに済んでいる。

「疲れすぎて眠いんだね。ごめん、その責任は俺にもある。俺がこうして支えているから、寝てもいいよ。……ねぇ、兄さん。俺が兄さんの体を洗っていい?」
「自分で……できるよ」
「もう夢の世界へ行ってしまいそうなのに?」
「……うん、……でも」
「大丈夫だよ、兄さん。全部俺に任せて」

 限界が訪れた。スイの言葉を聞き、意識を手放すことを許されたと感じた私は、すぐに夢の中へと旅立っていったのだ。苦しいことと、痛ましいこと。そんなことに満ちた一日が、やっと終わった。眠りの世界は優しく私を包み込む。何事もなかったかのように、全てが幻であったかのように。深い沼に落ちていくような感覚があった。もう二度と浮上出来ない。そんな気持ちにさせる落下だった。

 だが、それが不意に終わる。妙な焦りと共にはっとして、私の意識は突然に覚醒した。目を開いた瞬間あたりは光に包まれており、私は訳が分からなくなる。つい先ほどまで私は湯の中で腰を下ろしていたはずなのに、景色の何もかもが異なっていた。私は寝台の中にいて、布団に包まれているのだ。そして大きな腕が、私を抱きしめている。

「……レン?」

 私を抱きしめる存在に、声をかけた。深く考えずに口を開いたせいで、その名を呼んでしまったのだと思う。しっかりとあたりを見渡せば、ここが自分の部屋ではないことに気付けたというのに。

「違うよ、兄さん。しっかりと俺を見て」

 ここは私の部屋ではなくスイの部屋で、私の隣で眠っていたのはレンではなくスイだった。私とスイは、一着の寝着を分けているようで、スイは下半身に、私は上半身に、手触りの良い絹の寝着を纏っていた。間違った名前を読んだことを、スイは少しだけ怒っている。けれど、その怒りを私にぶつけるようなことはなく、そっと私を抱きしめて、腕の中に閉じ込めた。

「スイ……、おはよう」
「うん。おはよう、兄さん。寝ぼけ顔の兄さんが見れて嬉しいから、今の失言は許すよ」

 確かに私は寝ぼけている。いまだに、頭の動きが悪い。ぼうっとしてしまって、状況の整理がうまく出来なかった。記憶が途絶える前は湯殿にいて、目覚めた今は寝台にいる。どうにも、意識を手放していた時間が長すぎるようだ。

「私たちはお風呂に……、入ってたよね?」
「兄さん、あの後ぐっすり寝ちゃってね。体も髪もしっかり洗っておいたから、大丈夫だよ」
「私、結局全部任せてしまったんだね、……ごめんね」
「謝るようなことじゃない。俺は気にしてないし、というより、兄さんの世話が出来て嬉しいくらいだよ」

 そう言って、スイはにこにこと笑っていた。あどけない笑みは、実年齢よりもスイを幼く見せる。こうして笑っているスイは可愛らしくて、とても好きだ。バイユエの頭目として、恐ろしく冷ややかな笑みを浮かべるよりは、うんと大好きだった。

「兄さんとこうして並んで寝るの、何年ぶりだろう? 昔、庭で一緒に昼寝したことがあったよね。あれからずっと、また一緒に寝たいって思い続けていたんだ」

 私が忘れかけていたような思い出を、スイはとても大切なものとして胸の中に留め続けてくれた。私が母との少ない記憶を大事にするように、スイも私との出来事を大事にしてくれている。それがとても嬉しくて、私の頬は自然と緩んだ。手を伸ばし、スイの頭を撫でる。目の前の弟が可愛らしくて、手が勝手に動いてしまった。

「言ってくれたら、いつでもスイと一緒に寝るよ」
「本当に? 兄さんはいつも、あの犬を優先するくせに?」
「……そんなことは」

 そんなことはない、と言いかけたが、果たして私にそう言い切れるだろうか。どうしても、バイユエの頭目として生きているスイより、常に一緒にいてくれるレンのことを優先してしまうきらいが私にはある。言葉を続けることが出来なくなり黙り込んだ私を、スイがより一層強い力で抱きしめた。私たちの間にあった空白は消え、肌と肌が隙間なく触れ合う。

「ごめん。困らせたいわけじゃないんだ。今のは、ただの嫉妬」

 嫉妬。それは私にとって、とても理解から遠い感情だった。誰かを妬くことがない。それはきっと、自分の価値を信じることが出来ないでいるからなのだろう。妬みとは、己と誰かを比較した際に生まれる感情であると思うのだ。スイでいえば、スイ自身とレンを比較して、そして私がレンを選んでいるように感じるから、妬みという感情が生まれる。

 私は、誰とも比較しない。自分自身が、比較に値する存在だと思っていないからだ。だから私は、スイの気持ちを完全に理解することが出来なかった。ただ思うのは、私はスイのこともレンのことも、同じように大切で、そこに優劣のような差はないのだということ。

「名残惜しいけど、そろそろ起きないと」

 そう言ってスイは私を抱きしめていた腕を解き、布団の中から出ていく。部屋の隅にある甕の水で顔を洗うと、すぐに身支度を整えた。いつも、好きな時間まで眠り、気ままに過ごす私と異なり、スイの生活には規律がある。そんな弟を見ていると、いつまでも寝台で横になっている己が恥ずかしくなった。このまま部屋に戻ろうと思ったが、私は下半身に下着しか身につけていない。昨夜脱ぎ捨てた私の衣服はどこに行ったのだろう。

 きょろきょろと床を見て服を探す私の前に、真新しい服の一式が差し出された。スイが用意してくれたのだ。それだけでなく、私の身支度の手伝いまでしてくれた。その甲斐甲斐しさは、レンのそれと等しい。あっという間に私の身なりは整えられ、どこへ出ても恥ずかしくない格好となる。

「どう? 兄さん。あの犬に出来ることは、俺にだって出来るんだよ」

 胸を張って自信満々に言うスイは、幼く見えてとても可愛い。どうあっても、スイはレンの存在を意識してしまうらしい。幼少期のスイにとってレンは、兄を奪った孤児でしかなかったのだろう。その時の感情が、いつまでもスイの中に残り続けている。きっと、憎しみに似たその気持ちが消えることはないのだ。

 不意に、スイが私の手を取った。それは、傷を負った方の手だ。だが傷そのものは見えない。とても丁寧に包帯が巻かれているからだ。おそらく、風呂上がりにスイが巻いてくれたのだろう。その包帯の上を、スイの手がそっと撫でた。

「医者を呼ぶから、兄さんの手をしっかりと診てもらって」
「……そのお医者様に、レンのことも診てもらっていい?」
「いいよ。兄さんは、そのための対価を支払った」

 対価。きっと、私にまつわる私の願いであれば、スイはそんなものを求めずとも叶えてくれたのだろう。だが、私が願ったのはレンのこと。それはスイにとっては受け入れ難い願いなのだ。それでもその気持ちを押し殺し、対価を求めることで受け入れた。私は、ありがとう、と言ってスイに感謝を伝える。

「また何か、あの犬のことで要望があれば俺に言って。……対価を求めてしまうかもだけど」

 唇を私の耳元に寄せて、冗談を言うような口調でスイが言った。その流れで抱きしめられ、スイの両手が私の腰の後ろで交差する。スイは二つな顔を持っているのだ。愛らしい弟の顔と、恐ろしい頭目の顔。頭目として振る舞うスイには畏怖を抱くが、こうして甘えてくる弟のスイはとても可愛らしい。弟を可愛がりたいという兄としての欲望が、心から溢れ出してきそうだった。

「俺は、今夜また兄さんが来てくれることを期待してる」

 その瞬間、スイの唇が私の耳に触れたような気がした。私の両の目が捉えられる範囲の外であるため、確認は出来ない。けれども確かに、あたたかくて、柔らかなものが耳に触れたような気がした。今夜また。その言葉に、どきりとしてしまう。心臓が、早鐘を打つようだった。戸惑いながら耳を手で押さえる私を見て、スイが微笑む。

「それじゃあ、行ってきます」
「あ……、行ってらっしゃい」

 出立の言葉に対し、咄嗟にそう応えてしまった。直後、スイはぽかんとしか顔をする。けれど、そんな表情はほんの一瞬で、すぐにスイは眩しい笑顔を見せてくれた。

「兄さんにそうやって言われるの、すごく嬉しい」

 行ってらっしゃい、というなんてことない言葉でこんなにも喜ぶスイが、背の者の頂に立つ頭目だと言うことは、やはり何かの間違いだとしか思えなかった。スイは数度私を振り返りながら、扉を越えて外へ出ていく。その背中を見送った私も、時を少しずらして部屋を出た。目指すは、己の部屋。きっとそこにレンがいる。そう信じて、足早に進む。

「レン……!」

 一瞬で血の気が引いた。そして私は叫びながら部屋の中に駆け込む。寝台の上で、レンは横になっていた。否、傷ついたまま、そこに放り投げられたという方が正しいかもしれない。昨夜、地下室で見たままの姿だ。衣服は汚れ、傷口には乾いた血がこびりついている。腕はやはり、おかしな方向に曲がっていた。

「レン……、レン」

 駆け寄って声を掛ければ、固く閉じられたレンの目が開く。一晩を寝台で過ごしていたのだとしても、きっとレンは穏やかに眠ることが出来なかったはずだ。その証に、目の下には酷い隈がある。身体中、痣だらけだと言うのに、隈まで出来てしまった。レンを包み込む悲壮感はあまりにも強い。

「トーカ、……おかえり」

 そっとレンは微笑む。だが、その笑みは力ないものだった。私はそんなレンの頬に手を当てて、そっと撫でる。触れるだけで痛みが走るのか、レンは一瞬びくりと体を震わせた。慌てて私は手を離そうとするが、今度は逆にレンが私の手に頬を寄せる。痛みを感じようとも、撫でていてほしい。レンのそんな意図を汲んで、私はレンの頬に手を添え続ける。

「ただいま、レン。ごめんね、辛い状態なのに一人にして」
「体の痛みは、大したことない。……でも、トーカがいなくて、寂しかった」

 大したことない、なんて嘘だ。つい今しがた、痛みを感じて体をこわばらせていたと言うのに。それがレンの強がりだと分かっていた。それと同時に、レンをこんな目に遭わせてしまった私への気遣いでもある。痛みなどない。だから、気にしなくていい。レンは言外にそう言っているのだ。

「帰ってきてくれて、嬉しい」

 レンは、地獄の底でもこうして微笑むのかもしれない。そこに私がいれば、どのような過酷な場所でも微笑むのだ。胸が苦しくなる。愛しくて、可愛くて、そして、哀れで。どうしてこんなにも一心に慕ってくれるのだろう。何故、私なのだろう。いくら、孤児であった彼を拾ったからと言って、それにしてもレンの気持ちは強すぎる。私は、そんなに想ってもらえる人間ではないのだ。何もできなくて、やることなすこと失敗ばかりで。私には、愛される理由がない。

 そんなことを言えばきっと、レンは否定してくれる。けれど私は否定してほしいわけではないのだ。もし私に価値があると思ってくれているのなら、その価値が何なのかを分からせて欲しい。己には価値がないと決定付けてしまっている私の考えを、叩き壊して欲しいのだ。

 私は小さな桶に水をいれ、そこに浸して濡らした布でレンの傷を拭いていった。私に医術の心得はないが、それでも傷跡に血がこびりついているのが良くないことであることは、何となく分かる。曲がったままの腕に障らないよう気をつけながら、上衣を脱がし、衣服の下に隠れていた傷も拭いていく。

 自分より体格が大きく、そして重い人間の手足を持って拭いていくのは大変な大仕事だ。それを終えて一息ついた時には、私の額に微かな汗が浮いていた。私が部屋に帰ってきた時よりも、レンの顔色がいくらか良くなっているような気がする。ほっと胸を撫で下ろした私を、レンがじっと見つめていた。

「トーカの膝で寝たい」

 寝台の上に腰を下ろしながら、足は床に着いている。そんな姿勢の私に、寝転がったままのレンが言った。彼の手が私の膝に軽く触れる。私の膝で寝たい。それはつまり、膝枕をしてくれということだ。

「でも、寝づらくない?」
「寝づらくない」

 本人がそう言うのなら、膝を貸すくらいどうと言うことはない。だが、膝よりは枕の方が絶対に寝心地が良いと思うのだ。もしかすると、レンも人肌が恋しいのだろうか。傷ついた時、人は誰かの温もりが欲しくなるものだ。まさに今、レンはその状態なのかもしれない。

「じゃあ、どうぞ」

 己の膝をぽんぽんと軽く叩いて、準備万端であることを示す。すると、レンはすぐさま体を寝台の上で移動させ、私の膝の上に頭をのせた。傷だらけだと言うのに、幸せそうに笑んでいる。そんなレンを見ていると、私の手は勝手に動き、その頭を撫でていた。心地良さそう目を閉じて、レンもその手を受け止める。そしてゆっくりと瞼を開き、それと共に唇も開いた。

「あいつ、トーカに何をしたの」

 レンがスイのことを尋ねてくるとは、珍しい。私は少し驚きながら、そして私とスイの間に何かあったとレンが確信していることに戸惑いを抱いた。もちろん、地下室での別れを思えば、私とスイの間に何事もなかったという方が違和感がある。スイと過ごした夜のことを思い出した。あれは、一体何だったのだろうか。

「……罰を与えてもらっていただけだよ」

 そう。あれは罰だった。そういうことにしておかないと、可笑しなことになってしまう。確かに最初は恥ずかしくて、辛さもあった。だが、最後はどうだっただろうか。ただ、気持ちの良いことをしただけではないのか。そのようなことを考え始めると、私は何もかもが分からなくなる。だから考えることをやめて、レンを見た。すると、膝の上に頭を乗せたままのレンは、信じられないという顔をして目を見開いていたのだ。

「罰……? あいつが、トーカに?」

 レンは、スイを嫌いながらも、ある一点では認めている。それはつまり、スイが私を傷つけるはずがないとレンが確信しているということだ。二人から過剰に守られていることくらいは私も分かっていて、レンとスイの過保護さが同程度であることを彼ら自身も分かっている。だからこそ、レンはスイが私を罰したということが信じられなかったのだ。一体、レンの頭の中ではどのような罰が私に振るわれていたのだろうか。

「でも、酷いことをされたわけじゃないから、大丈夫。それに……私が悪いから、仕方ないよ」
「トーカは、何も悪くない」

 間髪入れず、レンがそう言った。こうして弟たちが私を甘やかすから、私は駄目で、愚かな兄に成り下がるのだ。大切にされることも、守ってくれることも、勿論嬉しい。けれど、私の胸の中にはいつだって、申し訳ないと思う気持ちがあった。私の全てを肯定してくれなくていい。私のことをそんなに大切にしてくれなくていい。私自身、己を肯定出来ず、大切にも出来ていないと言うのに。
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