すべては花の積もる先

シオ

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 ぴちゃん、と音を立てて髪の先から落ちた雫が風呂桶の中に戻っていく。

 暗い部屋の中で蝋燭の灯りが水面に映り込んでは、ゆらゆらと揺れていた。私は膝を抱えて、風呂桶の中に蹲る。肩までしっかりと湯に浸かり、体は温かい心地よさに包まれていた。だというのに、心は少しも安らがない。

「……どうしよう」

 その言葉は意識をする前に口から溢れていった。彼女の存在が、私を悩ませている。母とゆかりのあるズーユンという名の娼婦。彼女のことばかり考えてしまうため、今日は入浴の手助けをレンにしてもらっていることに対する恥ずかしさが湧かない。外出をしてたくさん歩いた。その分、多く汗をかいたので、今夜はレンが髪までしっかりと洗ってくれる。それはとても気持ちが良かったのだけれど、その心地よさでも私の心を覆い尽くす思案の靄を振り払うことは出来なかった。

「あの娼婦のこと?」
「うん……。私は、本当に娼館に行っていいのかな」
「行きたいのなら、行けばいい」

 あの時は咄嗟のことで、頷いてしまった。必ず行く、という気持ちを込めて。けれど、落ち着いて考えてみると、とんでもないことを約束してしまったのではないだろうかと戸惑ってしまうのだ。

 ズーユンには、この日、この時刻にハンファの裏口に来て欲しいと伝えられている。その時間に裏口の番をしている者は、ズーユンが言い含めやすい相手で、足止めを食らうことなく私がハンファの中に入れるということだった。恐ろしいほどに手筈は整っている。そもそもが、ただ母の遺品を受け取りに行くだけなのだ。何もやましいことはないと自分に言い聞かせる。

「でも俺は、賛成しない」

 レンのその言葉は、とても珍しいものだった。どんなことを私が望もうとも、レンは私の行動を制限しない。だというのに今は私を諌めた。私の心に巣食う戸惑いを、レンはきっと見抜いている。だからこそ、普段は使わない言葉で、私を引き止めようとしているのだ。

「……そっか」

 返す言葉もなく、曖昧に頷く。ゆっくりと立ち上がれば、全身から水滴が真下に流れて落ちた。体に張り付く薄桃の髪。母との繋がりを表すそれを、そっと撫でる。母が恋しいのは、幼い頃に母を失ったからだろうか。だが、同じく幼い頃に親を亡くしたレンに親を恋しがる様子はない。私だけが可笑しいのかも、と思いながら湯の中で足を上げた。風呂桶から出ようとしたのだ。

 だがその直後、部屋の中に響いたのは私の情けない悲鳴だった。短く、高い声。それは、風呂桶の中で足を滑らせ、体が傾いた己の喉から発せられた。体勢を崩した私を、すかさずレンが抱き止める。レンに支えられていなければ、私は無様にも床に転がり落ちていたことだろう。

「ごめん、なんだか足に力が入らなくなっちゃって」
「今日はたくさん歩いたから、足が疲れたんだと思う」

 確かに、それは事実だ。いつも部屋の中に閉じこもり、出歩いたとしても画材を買いにシャンガン地区にあるリャン爺の店へ行く程度。今日のようにルーフェイの街の半分にも等しい距離を歩いたのは、随分と久しぶりのことだった。だが、それはレンも同じこと。私のそばにいて、私と同じような生活をしているレンだが、同じ距離を歩いていてもレンの足元が揺れることはない。己のひ弱さが情けなくて、笑えてしまった。

「貧弱で嫌になるよ」

 おもてに浮かべた笑みは己を嘲笑うものだ。そんな惨めな表情の私を、レンがじっと見つめていることには気づいていた。けれど、彼のまっすぐな視線に向き合うことが気まずく思えて、私は俯く。そして、再び悲鳴を上げることになった。レンの手が私の腰を掴み、そのまま体を抱き上げたからだ。

 私ではレンの体を少しも浮かせられないというのに、レンの膂力は容易く私を抱えてしまう。同じ男とは思えないほどに私は女々しく、レンは逞しい。そんなことを思いながら、私はレンを見下ろす。抱き抱えられたことによって、私の頭はレンよりも上に位置することになった。レンは私を見上げて、私はレンを見下ろしている。視線を逸らすことが出来ない。

「トーカは、そのままでいい。疲れたなら、俺が抱えて運ぶから」
「それは……有難いけど、でも、レン。服が濡れるよ」
「気にしない」

 全身ずぶ濡れだった私を抱えたことによって、レンの服が水に侵されていく。裸のまま抱き上げられているを改めて意識してしまい、羞恥が体を支配した。少しレンの肩を押して、遠ざけようとしてみるが、二つの体が離れていくことをレンは許さない。

 星の輝く黒々とした夜空のような両の目が、じいっと一心にこちらを見ている。何かを訴えるようだけれど、何を訴えたいのかが分からない。まるで、昼間に出会った何も語らぬ犬のようだ。ただこちらを見つめるだけで、わんと吠えることもなかったあの犬。ズーユンとの一幕の間に姿を消してしまったあの子のことが、少しばかり恋しくなる。その恋しさを、目の前のレンへと向けた。

「どうしたの? レン」

 濡れた手で頬を撫でる。白い頬に水滴がついてしまうが、厭うことなくレンは私の掌に頬を擦り寄せた。可愛い仕草に、胸が締め付けられる。とても可愛い私の弟。私の大切な黒い犬。思わず、その頭をぎゅっと抱きしめる。すると、レンも私の胸元に顔を埋めた。抱き上げられている体勢のせいで、レンの頭は私の顎の下から胸部の辺りにあるのだ。

「……っ、レ、レン……!?」

 違和感があった。その違和感の正体に気付くのに、少し手間取る。それは、今までに味わったことのない感覚だったからだ。視線を下げて、レンを見る。レンが口を開き、私の胸に舌先を押し当てていた。舐めながら私の胸の先端を濡らしている。さながら、犬のように。

「レン、なにしてるの……? くすぐったいよ……レン、……えっ、ぁ……!」

 この行為の意味が分からず、私は戸惑う。痛いわけでも、苦しいわけでもない。ただ、くすぐったいだけだ。それでも、レンの行いが倫理的に正しいものではないということだけは分かる。レンを止めなければ。そう思った矢先に、更なる衝撃が私に齎された。

「ぁ、あぁ……っ」

 舐めるだけでなく、胸の先端を吸われた。背筋をぞわぞわとした感覚が駆け抜ける。咄嗟に私はレンの頭を強く抱きしめた。本当は力一杯押し退けて、レンを止めなければならないのに、どういうわけか私の体は胸を吸われた瞬間、反射的にレンを引き寄せてしまったのだ。

 決して豊かではない平な胸を、レンが必死になって吸っている。母の乳を欲しがる赤子のようなその姿を見て私が思ったのは、レンも母性に飢えているのだろうか、ということだった。私が母の面影を探すように、レンも幼い頃に失った母の影を求めているのかもしれない。そう思うと、途端にレンの行為を受け入れられるようになった。

 私の抵抗が弱くなったことに気付いたレンは、私の胸から一度口を離すと、私の体を抱えたまま歩き出す。風呂桶から抱き上げられてから、もう随分と時間が経っており、私の体に付着していた水滴の殆どが流れ落ちていた。だからこそ、床を濡らすことなくレンは私を寝台に運ぶことが出来たのだ。そっと下ろされ、仰向けになる。レンは私に覆い被さるように寝台に上がった。

「……ごめん、トーカ」

 何に対する謝罪なのかが、私には分からない。否、レンの詫びる言葉は、私の体に吸い付いたことに対してのものなのだろう。それは理解出来る。ただ、どうして彼がそういった行動に出たのかが理解出来ないのだ。私は何も言っていないのに、レンは叱られた子供のように眉尻を下げて私に視線を向けている。裸の私と、衣服を纏ったレン。そんな私たちが、じっと互いを見つめ合っていた。

「急に、どうしたの?」

 手を伸ばし、レンの頭を撫でる。私の体から流れ落ちた雫がレンの髪を濡らしたらしく、少しばかりしっとりとしていた。掌で艶の良い黒髪を堪能する。レンもスイも、共に黒髪ではあるが、髪質が違うのだ。レンの髪は硬く、スイの髪は柔らかい。どちらも美しい夜のような髪だった。私の投げかけた問いに、レンは緩く首を左右に振った。

「急にっていうわけじゃない」
「うん?」
「……ずっと、こうしてトーカに触れてみたかった」

 距離が縮まり、レンが私の首筋に顔を埋めた。声は小さく囁かれたものだが、この距離感であればしっかりと私の耳に届く。レンのその言葉を、どう受け取れば良いのかが、やはり私には分からない。こうした触れ方を誰かにしてみたいと思ったことが、私にはないからだ。晩生であり、淡白だという自覚はある。だからこそ、レンの思いに共感することは出来なかった。

「あの……、レン。ごめん、私はこう言ったことにとても疎いから、気が回らないことも多いと思うんだけど……その、そういうのが溜まるなら、相応しい場所で発散してきてもいいんだよ……? ずっと私のそばにいなくても、自由に出かければ」
「トーカから離れたくない」

 否定は素早い速度でやってきて、私の考えはすぐに誤りであると気付かされた。レンは健全な青年だ。だからこそ、人並みに欲求を抱えているのだろう。だが、いつも私のそばに控えてくれているせいで、彼には自分の時間がない。恋人を作って睦み合ったり、娼館へ出かけて処理をしたりと、欲を発散することが出来ないのだ。私はそう考えて、レンに自由な時間を持ったらどうかと勧めた。そしてそれは、見当違いの考えであったらしい。

「俺は、トーカのそばにいる時が、一番幸せだから」

 レンの唇が耳に触れる。まるで、愛しい人に口付けをするような仕草で、私は戸惑ってしまった。こんなにも格好良くて優しいレンに、いまだに良い相手がいないというのは、可笑しなことだと私は常々思っていた。実際、レンに恋人が出来たのなら、レンはこうしてその人に囁きかけるのだろうか。妙にどきどきとしてしまって、鼓動が煩い。

「レン……、えっと……、辛くない?」

 言いながら、己の発言を恥ずかしく思って、私は顔を赤くしてしまった。けれど、思わずそう尋ねてしまうほどにレンのそれは硬くなり、隆起して私の太ももに微かに触れていたのだ。それが気になって仕方がなかった。どういうわけか、レンは私の体に唇を寄せることで性的な興奮を得ているらしい。男の胸なんかを舐めて昂るとは、レンの欲求は相当溜まっていたようだ。

「……ごめん」
「気にしなくていいよ。生理現象なんだし、仕方ないことだから」

 私の顔以上にレンの頬は赤らんでいる。恥ずかしいのだろう。今すぐにでも逃げ出したい、という気持ちがレンのおもてには浮いている。それでもレンは、私の上から退こうとはしなかった。もしかすると、硬くなったそれが苦しくて、身動きが取れないのかもしれない。私は戸惑いながらも、寝台の上で体をもぞもぞと動かし、レンのそれに手が届く位置まで移動した。

「昔、私がこうやったことを覚えてる?」

 腰帯を緩めながら、レンの前をくつろがせる。そんな私に驚きながらも、レンは一言もやめろとは言わなかった。抵抗がないことを確認しながら、私の手はそっとレンのそれを包む。あれは、どれほど前のことだっただろうか。精通を迎え、己の体に起こった変化に戸惑うレンのものを、私の手で扱いたことがあった。

「……っ、……覚えてる」
「あの時みたいに、私がしてもいい?」

 問いながらも、すでに手は動いている。硬くて、熱いものを撫でるようにそっと触れる。両手で包めば、それが強く脈打ちながら小さく震えていることにも気付いた。先端からは、ぬるぬるとした液体が垂れてきている。部屋の中は、夜であるために薄暗くて視界が悪い。レンの状態をしっかりと把握することは困難なのだが、私が撫でることを心地よく受け止めていることは察せられた。それに満足していたせいで、レンがずいと近付いてくることに気付くのが遅れてしまう。

「一緒に、したい」
「え? あっ、……レ、レン……!」

 私の上に覆い被さりながら片手で自分の体重を支え、もう片方の手でレンは私のものに触れた。硬度はなく、ふにゃふにゃとしたそれを手で優しく掴み、親指で性器の先端を刺激する。強引な快楽に、私は驚きながら悲鳴を上げることしか出来なかった。

 燭台の火が揺れる暗がりの中、静寂を台無しにする私の情けない声。少しずつ自分のものが固くなっていくことが分かる。性欲を感じることが稀で、自慰だって碌にしないというのに、どういうわけか私は今、弟にそれを扱かれていた。レンがしてくれているのだから、と私も必死になってレンのものを両手で撫でる。そのせいで両手が塞がってしまい、己の口に手で蓋をすることが叶わなかった。

 先に絶頂したのは、レンだった。白濁したものが、私の腹部に垂れる。驚くほどの量で、部屋の中は一気に雄の匂いに満ちた。遅れて私も達する。けれど、放った精はわずかで、レンとの落差に少しだけ落ち込んだ。分かっていたことではあるが、私は男としてレンに圧倒的に負けている。不出来な男である自覚はあった。華奢な体に、女性と間違えられることの多い顔。それに比べて、私の弟はこんなにも立派で、逞しく、端正だ。

 整わない呼吸の音が、部屋の中に響く。たくさん歩いた真昼よりも、今の方が胸が苦しい。そして、とても疲れた。どうしてこうなったのか、何故レンがこんなことをしたのか、それを考えることが出来ないのは、吐精のせいで疲労し、頭がうまく回っていないからだということにしておく。どうして、何故。それはきっと、解き明かさない方が良い謎なのだろう。

 このまま眠ってしまいたい。ゆっくりと瞼を閉じるが、私の眠りをレンは許さなかった。抱き上げられて寝台に運ばれたように、再び抱き上げられて湯船へと連れられる。腹にかかったレンの精を、レンが先に布で拭ってから私の体を湯の中に入れた。風呂桶の中の水たちは、流石にぬるま湯になってはいたが、冷水よりは遥かに温かい。

 レンの手が、湯に浸かる私の腹を撫でるのは、そこが汚れていると感じるからだろうか。私はレンの精がかかった程度で、それを汚れとは思わない。そう伝えたいのに、口が少しも開かなかった。頭がぼうっとしているせいで、体が鉛のように重い。無理に唇を動かすのはやめ、私はレンの手に身を委ねる。

 手際良く、私の体は洗われる。そして、その手際の良さが損なわれないままに、レンは私の湯から上げて手早く体を拭いた。髪はすでに乾き始めていたが、それでも入念に拭かれ、しっかりと櫛まで通される。レンが手厚く面倒を見てくれるおかげで、母との繋がりを表す薄桃の髪はいつまでも毛艶よく流れている。

 少し寝ていたようで、気付いた時にはしっかりと寝着を纏った状態で寝台の上に横たわっていた。そして、目の前にはレンがいる。髪が少し湿気を孕んでいるところを見るに、彼も風呂を済ませたのだろう。きっといつも通り、烏の行水だったに違いない。私が放った精で汚れた衣服ではなく、レンも寝着に身を包んで眠っていた。

 レンの目は、しっかりと閉じられている。それでも不意にレンに触れたくなってしまい、私はレンの頭を撫でてしまった。そんなことをすれば、彼が起きると分かっていたのに。案の定、レンはゆっくりと目を開く。燭台の灯りは落とされ、今は窓から差し込む月光だけがレンを照らしていた。漆黒の瞳の中に、一等星が輝いているように見える。大切で、愛しい弟を見つめながら、私はそっと囁いた。

「……いけないことを、しちゃった気分」

 あれはきっと、駄目なこと。兄弟同士では、男同士では、許されないこと。気持ちが良かったことは否定出来ないけれど、きっと私はもう二度としないだろう。それが正しい判断だ。そこまでは理解出来るのに、妙に悲しくなる。泣けてしまいそうなほどに、胸が苦しくなった。

「いけないことなんかじゃない」

 そう言いながら、レンが私を抱きしめる。いつの間にか私より大きくなった弟。私が拾い上げた、黒い犬。この腕の中は、とても安心する。全ての不安を、レンが振り払ってくれるように思えた。目を閉じながら、考える。なぜ、レンと触れ合うことに罪悪感を感じるのだろう。何故、いけないことだと思うのだろう。あれは罪深い行為なのだろうか。そしてこれが罪だというのなら、一体誰が私たちを裁くのだろう。
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