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第二章 月ニ鳴ク獣

第二十八話 研鑽(1)

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 柘律殿しゃりつでん発見からの三十年はあっという間に過ぎた。
 やることは無限にあった。主として取り組んだのは結界の範囲の拡大。二十年以上かかり、最近ようやく仁波じんぱらの生活の場が整った。生活拠点が確保できたことで子どもたちも増えている。もちろん、真血の治療法の習得も朱昂しゅこうの重要な課題だった。

 朱昂は人でいう三十を過ぎた頃で、最も力の安定する時期を迎えていた。葵穣きじょうは、朱昂が父を屠った年頃に近づいていた。

 暗い部屋の中で、朱昂の後ろ姿だけが明るく浮かび上がっていた。
 冷たい空気に血の匂いが漂っていた。朱昂は立ったまま手元だけをせわしなく動かしていたが、深くため息を吐いて、鉄製の卓の上に置かれた桶で手を洗いはじめた。卓の中央には、白い毛がもこもこした仔犬がいた。朱昂が二度なでると、卓の上で伸びをするように太くて短い四肢をつっぱらせ、最後にあくびをした。仔犬を抱き上げて、朱昂は処置室を出る。

 硬い戸をくぐった先に、少年がいた。朱昂の肩ほどまで背が伸びた美少年が、父親の腕の中で毛玉がもぞもぞ動いているのを見てほっと微笑んだ。朱昂は走り寄ってきた葵穣に、魔獣の子どもを手渡す。

「怪我は治した。だいぶ濡れていたせいでひどい肺炎だったが、それも治した」
「ありがとうございます」

 雨の翌日、柘律殿のすぐ裏の林でさいが死んでいた。雷雨であったし、肉の焼けた匂いで死骸を見つけたというから、落雷に打たれたのかもしれない。好奇心の強い子どもたちはひとしきり黒焦げになったさいを取り巻き騒いだが、葵穣が死骸の下に子どもが数匹転がっているのを見つけた。ほとんどが息絶えていたが、一匹だけ生きていたため急いで朱昂に治療を頼んだのだった。

「ただ、まだ乳離れをしていない。野に帰しても生きられんだろうな」

 歩きながら言うと、隣でふわついた毛をねじっていた葵穣が顔を上げた。形の良い目を見開いている。

「それはつまり……、飼ってもいいということですか?」
「習性をよく学び、しつけができればな。誰かを傷つければ殺すしかない」

 葵穣は腕の中に目を落とした。ふわふわした毛の誘惑に負けたのか、顔を近づけてすーんと思い切り匂いを嗅いでいる。葵穣の足が止まったので朱昂も歩を止めて見守っていると、決心を固めたらしい葵穣が小走りで近づいてきた。

「しつけはきちんとします」

 声変わり途中の少し荒れた声で言う葵穣に、朱昂は「そう」とだけ返した。何も知らない仔狼がくんと鼻を鳴らす。葵穣の目が細くなりきゅっと頬を上げて笑った。それだけで何もない空間に花開きそうな息子の表情に朱昂がやれやれと嘆息していると、影から声がする。使い魔だ。

「主様、玄姫げんきが呼んでおります」
「今から向かうと伝えておけ」

 是と返事をしたのは低い男の声。朱昂には幽鬼の使い魔がふたつあった。今声をかけてきたのは白郎はくろうと呼ばれている男だ。
 ともに使い魔の声を聞いた葵穣が朱昂の袖を引く。

「なんだ」
「これから人界に行くのでしょう? この子の首輪にいいのがあったら買ってきてください」
「あれば買うが、約束はできないぞ」
「それでいいです」

 笑みを見せるたびに朱昂を含む周りの者が美しいと評しすぎたせいだろうか、葵穣はあまり表情を変えない少年だった。朱昂は、両手で息子の頬を包んだ。葵穣はおとなしく目を閉じている。

 朱昂はかつての自分を思う。父にこのように触れられた時、おそらく自分も同じように黙って瞑目したことだろう。

 ――俺はお前にとってどんな父なのだ。葵穣の父に、俺はなれているのだろうか。

 朱昂が手を離さないでいると、葵穣の眉が寄った。朱昂の指が葵穣の頬を挟んでむいっと引っ張ると、葵穣が目を開く。

「もちもち」
「父上ぇ!」

 仔狼を抱えているため抵抗できない葵穣が紅い目を怒らせる。朱昂は「早く行け」と体当たりしてくる葵穣とじゃれながら、玄関までともに向かった。
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